クロファードの手紙
1799年6月7日



 チューリヒ、6月7日

 閣下、
 今月4日に行われた極めて激しい戦闘の結果、マセナがこの地の前面にあった塹壕宿営地を放棄することを余儀なくされ、そして昨日午後にオーストリア軍が町を確保した旨を閣下にお伝えすることを光栄に存じます。
 先月31日の報告で、私はヴィンタートゥールの戦闘後に敵がグラートの背後へ退却したと閣下にお知らせする栄誉に与りました。その後の日々でナウエンドルフ将軍麾下の大公軍右翼はビュラッハへ、ロイス公縦隊の中央はクローテンへ、ホッツェ将軍はバッサースドルフへ前進しました。
 敵の右側面を脅かし、それによって敵にチューリヒ(その戦力は知られていませんでした)の陣地を立ち退かせることを期待して、ツェラチッチ将軍が1縦隊と伴にグライフェンゼーを迂回し、その後にグライフェンゼーの下流でグラートを渡り敵のかなり右翼へと向かうホッツェ将軍部隊の他の部分と連携して、チューリヒへ前進すべく送り込まれました。しかしながら、これらの陽動は効果がなく、攻撃計画が定められました。
 グラートとリンマット間にはかなりの丘陵の連なりがほぼこれらの川と平行に走っており、その大半は密生した木々に覆われていました。ちょうどチューリヒの正面にあるこの稜線上に、マセナは最も優れておりそれほど広がっていない陣を選び、数週間前から数多くの塹壕によって強化し、ヴィンタートゥールの戦闘後にはそこに軍の大半を集めました。右翼は手近の稜線のあらゆる他の部分より大いに高く、極めて密生した木々に覆われたチューリヒ=ベルクと呼ばれる丘に布陣し、丘を完全に囲む防御柵を築き、堡塁で守っていました。ここは[敵]陣の中で最も関心を引く決定的な場所であり、歩兵の大軍が占拠していました。その右側面は町の方へ戻るように急激に折れ曲がっていました。[敵]軍の左翼は上に述べた丘の連なりの続きに置かれ、同様に広大な森と防御柵、及び塹壕によって守られていました。中央は遥かに低くなっており、ほとんど森もなく簡単に接近できました。この平地(森と森の間は大砲の射程ほども広がっていません)を、クローテンとヴィンタートゥールからチューリヒへの道が通っていました。ここは戦場の中で騎兵が行動できる唯一の部分でしたが、周囲を囲んだ堡塁の連なりによって完全に守られていました。その堡塁はかなり後方にあって、両翼をつなぐカーテンの役目を果たしており、側面を完全に守られているため両側にある高地を[敵]軍の両翼が維持している限りここの戦線を攻撃するのは極めて困難になっていました。左側面はさらにレーゲンスベルクとグラート間に配置されたバーデンへの退路を持つ部隊によってさらに守られていました。チューリヒ前面の陣地における唯一の欠点は、敗北時に全軍が陣地右翼のすぐ背後にある町を一列で通り抜けるのを余儀なくされることで、そこにはリンマットを渡る橋が1つしかありませんでした。なぜなら敵は(川の流れが速かったためか、他の理由によるのか不明ですが)、その中央または左翼の背後に架けていると思われていた舟橋を建設していなかったためです。
 上に述べた敵の状況から、もしチューリヒ=ベルクを落とせば、敵軍に完全な敗北をもたらせるに違いないことは明らかでした。この丘のすぐ麓にある町を通る退却は、最大の困難を伴うものになったでしょう。
 今月4日朝、軍は敵を攻撃すべく行進しました。ホッツェ将軍の部隊は左翼へ行軍し、グラートを渡り、敵の右側面で隊列を組み、チューリヒ=ベルクへの攻撃を始めました。敵はこの陣地を極めて頑強に防御し、ロイス公の縦隊のかなりの部分が攻撃を支援するべく送り込まれたにもかかわらず、そこを落とすのは不可能であることが判明しました。敵はいくつかの防御柵と塹壕からより奥へと追い払われましたが、夜が戦闘を終わらせるまでチューリヒ=ベルクの主要な陣地は維持しました。
 夜間と翌日終日、両軍は戦闘終了時にいたのと正確に同じ場所にとどまり、オーストリア軍左翼の歩兵は多くの場所で敵の防御柵や陣地からほとんどマスケット銃の射程範囲にいました。兵が4日に蒙った多大な疲労のため、大公は攻撃再開を6日まで延期することを決めました。しかし、4日の戦闘で極めて多くの損害を受け、そしてもしチューリヒ=ベルクが落ちれば完全な崩壊がもたらされると予想した敵は、塹壕に35門の大砲、3門の榴弾砲、そして数多くの弾薬車を残し、5日から6日にかけての夜間に退却しました。6日午後、オーストリア軍は町を占拠しました。
 今月4日の攻撃の際にオーストリア軍の歩兵はかなりの死傷者を出しました。負傷者の中にはヴァリス将軍、ホッツェ中将、そしてヒドラー[ママ]少将がいました。ホッツェ将軍は戦闘の初期段階で腕に銃弾を受けましたが、骨は傷つけられず、幸運にも彼が部隊の指揮を継続して執るのを妨げませんでした。この時点での彼の不在は目立って影響を及ぼし、心から悔やまれたでしょう。
 シェラン(将軍で参謀長)は他のフランス人将軍2人と伴に重傷を負い、かなりの数の捕虜の中には2人の参謀副官が含まれていました。
 敬具
(サイン)ロブ・クロファード

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France, Volume 8" London Gazette, p229-230


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