ウィーン
1799年5月24日



 ウィーン、5月24日
 カール大公殿下から受け取った2通の報告、即ち今月20日付のシュトックアッハからのもの、及び今月21日付のジンゲンからのものによると、ホッツェ中将がアスモスの敵を攻撃するため派出したベイ将軍は、敵をその陣から追い出し、突角堡を奪い、1門の大砲と運搬車を奪ったように思われる。ベイ将軍は敵の塹壕を強襲するため前進し、ヴェルデンベルクへ退却する敵を追撃した。その過程で彼はもう1門の大砲を得た。ヴェルデンベルクで抵抗しようとする敵の執拗な試みにもかかわらず、我らの勇敢な兵たちはこの際に敵の撃退に成功、そして敵のある中隊は、30人を除いて寸断された。ベイ将軍が上記の作戦を遂行している間、ホッツェ中将からヴァレンシュタットへ前進するよう命じられたケルペン連隊のガヴァシーニ大佐は19日にヴァレンシュタットへ到達し、湖の方角約半リーグのところに兵を配置した。彼はすぐ後に極めて優勢な数の敵に攻撃された。敵は新たな兵をフルムスを経て彼の側面へ送り続けたが、寸土をも得ることができなかった。それどころかガヴァシーニ大佐は最終的に小規模な部隊を敵右側面へ送り込むのに成功し、日没にかけて敵の多くを虐殺し、ムルクまで撃退した。ここで殿下は、敵が優勢であるにもかかわらず僅かな優位すら得ることを妨げたことによって、この機会にガヴァシーニ大佐がその気迫と知性に関する新たな証拠を示した、との意見を述べた。しかしながら我々の損失も僅かなものではなく、300人が死傷し、その中には3人が戦死、5人が負傷した計8人の士官も含んでいる。初めて交戦を経験したスイス亡命者で構成する部隊は大いに名を上げ、その国の人々はあらゆる所でまとまって熱狂的に立ち上がった。ホッツェ中将の素早い進軍は敵にザンクト=ガレン近辺とコンスタンス及びシャフハウゼン付近のライン沿いの地域を放棄させることを余儀なくさせ、彼らはヴィンタートゥールへ退却した。これを見たナウエンドルフ中将はすぐに前衛部隊の一部でラインを渡り、敵のさらなる動きを監視するため軽騎兵を前方へ押し出した。彼は敵がトアーとトールを放棄し、チューリヒへ後退したことを知らされた。ナウエンドルフ中将は、ホッツェ中将麾下の前進している部隊と連絡を確立するため、軽兵の偵察隊をザンクト=ガレンへ送り出した。21日、殿下は宿営地をシュトックアッハからジンゲンへ移し、後者の地に同日司令部も設置した。敵がライネックを撤収したと知るや否や、その退却を妨害するためウィリアムズ中佐は彼の艦隊全てをアルボンへ向かわせた。彼はさらに麾下の士官の1人であるトゥスコニス伯をロシャッハに送り出し、彼はそこで様々な口径の大砲8門、迫撃砲3門、多くの砲弾、船舶用物資、弾薬、そして建造途中の砲艦を奪い、その全てをブレゲンツに持ってきた。殿下のさらなるジンゲンからの22日付報告によると、ロシャッハから報告してきたウィリアムズ中佐はブルシート中尉の麾下でかの地に到着したヴァルデック竜騎兵連隊の分隊と伴にザンクト=ガレンまで前進し、敵はその少し前にそこから退却した。彼は町を占拠し、3門の大砲と2両の運搬車を奪った。またホッツェ中将の報告によると、ベンダー連隊の伯爵ライニンガン大尉は何人かの武装した農民の支援を受けてアルトスルッテンで2門の大砲、5両の運搬車、かなりの割合の武器と弾薬を奪った。ベイ将軍はヴェルデンベルクへの攻撃実行に伴い、さらに大砲2門と400挺の燧石銃を手に入れた。ナウエンドルフ中将は既にフラウエンフェルトとヴィンタートゥールを占拠しており、彼の偵察隊はチューリヒとバラッハへ向かっている。舟橋を架けたディッセンホーフェンで、彼は大砲9門と100挺の燧石銃、及び補給用弾薬を発見した。彼の前衛部隊に所属するモーベルト少佐はコンスタンス湖の縁にあるムンスターリンゲンで敵の分遣隊に襲い掛かった。彼らは同時に上陸した艦隊を構成する一部船舶の乗員にも攻撃され、散り散りとなり、大半は捕らえられた。この分遣隊は砲兵輸送隊の護衛であり、大砲4門、迫撃砲1門、運搬車1両から成るその輸送隊は我々の手に落ちた。コスポト中将が殿下に報告したところによると、第13竜騎兵連隊のルック大尉は、フレネレ大佐の希望を受けてハイデルベルクから遠くないライメン近くに宿営していたフランスの第3ユサール連隊を奇襲し、約100人を寸断し、残りを散り散りにさせ、何人かの捕虜と馬匹60頭を得た。彼の側では士官1人と兵2人が僅かに負傷しただけだった。殿下は何度か、上記2人の士官に関する称賛に値する行為を強調している。
 (中略)
 ベレガルデ中将の報告によれば、グリゾンにおけるホッツェ中将の作戦を最も効率よく支援するため、彼は部隊を4つの縦隊で前進させた。伯爵ノビリ将軍の第1[縦隊]はススからフロロ山を越えてダフォスへ前進。ハディック中将の第2はポントからアルブラ越え。ラ=マルセイユ大佐の第3はユリエス山を越えて上シュタイン渓谷へ。彼[ベレガルデ]自身は残りの兵を率いてレンツへ移動した。敵はどの地点でもあまり抵抗せず、ノビリ伯の縦隊のみがドルスリ近くで防御柵を突破することを余儀なくされた。しかしその後に敵は最大限の速度で退却した。だが損害を出さないわけにはいかず、大尉1人、中尉2人と150人の兵が捕虜となった。
 ベレガルデ中将は、考慮に入れていた目的、即ちグリゾン征服が今や完遂されたため、彼は滞りなくイタリア方面軍との連携に向かうべきだと付け加えた。ただし、エンガディンを守り、ホッツェ中将との連絡を保ち、さらに必要なら彼のさらに協力するため、伯爵サン=ジュリエン大佐を彼の旅団と伴に残した。

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France, Volume 8" London Gazette, p218-220


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