クロファードの手紙
1799年5月22日



 A・クロファード大佐からの手紙の抜粋、ホッツェ将軍の司令部、マイエンフェルト、5月22日

 今月14日、私はサン=リュシアン=スタイグの敵拠点に対してホッツェ将軍が行った攻撃の成功と、グリゾン地方における彼の他の配置に関する記録を含むいくらの知らせを閣下に記す栄誉に預かりました。14日夕にかけて1000人以上の捕虜が連れてこられ、その結果この戦闘において奪った数は全体で3000人から4000人に達しました。この作戦に伴う困難は極めて大きく、その成功は将軍と兵にとって最高の名誉を示すものでした。サン=リュシアン=スタイグの陣はフェルトキルヒからグリゾンへ向かう直接の通路に対しては完全に閉じて守られていました。その自然及び人工的強さは、正面からの直接攻撃を極めて困難かつ無分別なものしており、その側面は兵たちにとってほとんど使用不能と見なされるような山岳部を行軍しない限り迂回が不可能なほど良く支えられていました。第1または右翼縦隊は、フェルトキルヒから大街道に沿って真っ直ぐスタイグへ行軍しました。この縦隊は、陣の正面で隊列を組んで攻撃するかのように演じ、敵の注意をその右翼から引きつけるよう、及び他の縦隊が彼らにスタイグ放棄を余儀なくさせるや否や騎兵と軽砲兵で敵を追撃するよう備えることを試みるのが目的でした。全て歩兵から成るイェラチッチ少将指揮下の第2縦隊は左へ大きく迂回し、スタイグ陣地の右側面を守っている山脈を労を惜しまず行軍し、極めて困難な地形ゆえに敵が攻撃を予想できないところから夜明けに側面後方へ山を降りることになっていました。この縦隊は敵をスタイグから追い払い、そこを守っていた歩兵の大半を捕虜にしました。ヒラー将軍とプランケット大佐麾下の第3及び第4縦隊はフェルトキルヒからモンタフューヌ渓谷へ行軍し、そこからブレティガウと呼ばれる渓谷とを隔てる山脈を様々な地点で多くの困難を伴いながら越え、この方面で敵が占拠しているいくつかの拠点から敵を追い出し、マルシュリーヌとツィツァーズを経てライン渓谷へ降りていきました。第1縦隊の前衛部隊はスタイグから敵を追撃し、ブレティガウから退却してきた敵の退路を断つのに間に合うタイミングでツィツァーズに到着しました。グリゾンに残っている敵部隊のうち、1つの縦隊はコワールを経てライヒェナウへ退却し、そこでライン河の背後に陣を敷き、別の部隊はツォルブルッケで河を渡り、ラガーツを経てザルガンスへ向かい、後衛部隊をラガーツに残しました。15日、ホッツェ将軍はライヒェナウの敵を偵察しましたが、彼らが強力な陣を敷いているのを見て、手元に歩兵がなかったため彼らを攻撃することができませんでした。しかしながら同日、彼はカヴァチーニ大佐にラガーツの攻撃を命じ、敵はかなりの損害を出してそこから追い払われました。52人の捕虜と2門の大砲を奪いました。前哨線はザルガンスまで押し出しました。16日、敵はライヒェナウからディセンティスへ退却し、18日にはそこで攻撃を受け、2門の大砲と数人の兵を失って退却を余儀なくされました。同日、彼らはヴァレンシュタットとヴェルデンベルクから追い払われ、その際に3門の大砲を失いました。19日、敵は極めて優勢な兵でヴァレンシュタットのカヴァチーニ大佐麾下の部隊に激しい攻撃を行いましたが、この時には完璧に撃退されました。ロヴォルコ大佐麾下のスイス亡命兵大隊(カヴァチーニ大佐の部隊の一部を構成していました)は、この時が初の交戦でした。彼らは多くの損害を受け、極めて勇敢に振る舞いました。敵は今やポッケンブールとアッペンツェル州から全面的に退却しています。前の夜にオーストリア軍偵察隊はザンクト=ガレンに入城し、その地とライネックの間で13門の大砲と、フランス軍が退却の際に放棄したかなりの量の弾薬を発見しました。全体的に見ると、この方面における14日から今日までの敵の損失は、死傷者を除き、4000人の捕虜、36門の大砲と見積もることができるでしょう。ベレガルデ将軍はキアヴェンナにいます。

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France, Volume 8" London Gazette, p216-217


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