ウィーン
1799年5月21日



 ウィーン、5月21日
 皇帝胸甲騎兵連隊の伯爵カラメリ大尉は本日、カール大公殿下の伝令として、グリゾンにおけるホッツェ中将の作戦に関する詳細な続報と伴にこの地に到着した。プランケット大佐とヘラー将軍の縦隊によって山岳部に追いやられた敵師団は、ツィツァーまたはコワールを経て脱出する企図の下にフルナへ退却した。だがホッツェ中将がすでにその2地点を占拠し、後者の地点には既に2個大隊を配置していたのを知り、彼らは降伏して捕虜となった。捕虜の累計は兵士1000人、士官80人。2旒の軍旗も手に入った。加えて14日のリュシアン=スタイグでの戦闘後の追撃によって、我々は既に述べた8門の大砲と半旅団以外に、4門の大砲を奪い、擲弾兵2個中隊を捕虜にした。ホッツェ中将は15日、ライヒェナウ付近の敵を偵察。同時に敵が2000の兵を置いているラガーツの前面に大軍で現れた。この示威行動は交戦につながり、退却を強いられた敵はプフェッフェラー川の橋を焼いた。しかしながら我々はフェッテの向こうまで彼らを追撃し、その一部はザルガンス峡谷へ追いやられてそこで士官1人と兵30人が捕虜となった。我々の負傷者は少なかった。ラガーツ近くで敵からさらに3門の大砲を奪い、既に述べたのも含め奪った大砲は15門になった。この最後の攻撃の後、敵は15日から16日にかけての夜間に大慌てで後退し、あまりに多くの土地を失ったため、報告が届いた時にはホッツェ元帥[ママ]は既にザルガンスにいた。同時に[ホッツェ]中将は、伯爵サン=ジュリアン大佐がレンツに、伯爵ハディック中将がフェリシュールにいるとの情報を得た。敵は、おそらくライヒェナウの宿営地と合流するためフュージスの方向へ退き、彼らに残された唯一の道、即ちイランツと悪魔の橋を通ってサン=ゴッタルドへ退却を続けようと試みた。しかし上グリゾン同盟は蜂起を準備し、シュトラウス大佐がシュプルーゲン峠を、そしてホッツェ中将がグンケルス峠を閉鎖した。伯爵ベレガルデ中将がコワールとフュージスへ前進することもあり得た。これら全ての点から、約7000人のこの敵部隊は極めて危機的な状況にあり、そこから逃げ出すのが極めて困難であると結論づけることができるだろう。ホッツェ中将によるリュシアン=スタイグ攻撃を可能な限り支援するため、カール大公殿下は同時にライン方面へ成功裏に終わった示威行動を行い、そのためシャフハウゼン付近に集結した1万7000人の敵部隊はホッツェ中将に対して何らかの分遣隊を送ることを妨げられた。コスポト中将から殿下へ送られた記録によると、14日夜にメールフェルト将軍はドゥンデンハイムの敵拠点を奇襲し、抵抗した敵士官3人と擲弾兵60人を殺害したようである。士官1人と兵4人は捕虜になった。また14頭の馬匹も得た。

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France, Volume 8" London Gazette, p215-216


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