ウィーン
1799年5月4日



 ウィーン、5月4日

 伯爵ベレガルデ中将は4月24日付のナウダースからの手紙で、(イタリア方面軍がキエーザ川を越えてオグリオ川へ前進する作戦を強化するため)ヴィカソヴィッチ少将に兵とともに最大限の連携をするよう命じたと書いてきた。同時に将軍は、軍の移動を支援するためフェッツォーネを渡ってイゼオへ前進するようにともスヴォーロフ元帥からの命令を受けた。
 イタリア方面軍の移動を知る前に、ベレガルデ伯はヴァリス氏の連隊のシュトラウス大佐にカモニカ峡谷に入ってトナルからポンテ=ディ=レグノを越えてエドロへ前進するよう命じた。
 2フィート以上の深さに積もった雪に覆われた山々を越えるとても労多い行軍の後で、大佐はヴィオーネに到着した。敵の最初の拠点は大した抵抗もなく退却したが、ヴィオーネ背後の陣地では頑強に自らを守った。だが、彼らは銃剣突撃でそこから追い払われた。
 それからシュトラウス大佐はヴェッツァへ行軍し、アノウンツェーノと、カモニカに向けたポンテ=ディ=レグノとエドロ間にある渡河点を占拠した。
 我々の損害は取るに足らないものだった。シュトラウス大佐曰く、この悪天候の中で行われた極めて労多い企図において、彼の兵士たちは称賛に値する不屈の忍耐力を、戦闘においては滅多にない勇気を示した。
 伯爵ベレガルデ元帥[ママ]は22日、エンガディンとブレッティガウの国境の様々な方面を偵察するよう命じ、報告によると通行できない山々を調べた。
 これらの様々な分遣隊は、合流し攻勢に出るよう命じられていた。だがあらゆる方面からの報告はいずれもそっくりで、大量の積雪と相次ぐ雪崩のため前進は不可能だと述べていた。
 これらの状況のため、伯爵ベレガルデ元帥[ママ]は偵察を遅らせる決断をした。だが、フィンバ=ヨッホへ向けてナウゲバウアー連隊の1個大隊と伴に陽動を行うよう命じられたシュミット少佐は、この命令取り消しを受け取らなかった。
 そのためこの活動的で熟練した士官は21日夕方も行軍を続け、ブロキッヒ、アルペを越え、フィンバ=ヨッホへ向けて極めて困難な地点を越えて兵と伴に行軍し、ヤルニゼンボーデン近くで敵の最初の哨戒線と接触した。敵は抵抗することなく、マナスへ向けて退却した。前衛部隊は村の中へ敵を激しく追撃し、そこで執拗な戦闘が生じた。前衛部隊を撤退させ、また戦闘を終わらせるため、シュミット少佐は村を奪うようさらに多くの兵に命じ、そのため交戦は全面的になった。
 その間、敵は困難な行軍によって疲れきった我々の兵の退却を妨害するために予備部隊を呼び寄せることに成功した。この時、シュミット少佐は不幸にも兵の一部及び何人かの士官と伴に敵の手に落ちた。大隊の残りはイスガルへ戻った。

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France, Volume 8" London Gazette, p190-191


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