ウィーン
1799年4月13日



 ウィーン、4月13日
 カール大公殿下からの今月5日と7日の2通の報告によると、フロイデンシュタット、ホンベルク[ママ]、及びノイシュタットに布陣していた敵は移動し、大部隊でアルピエルスバッハ、フリーベルク、及びトゥルヴァンゲンの殿下の軍の一部を攻撃し、同時に小規模なオーストリア部隊がいるネッカー川のスルツに向けて前哨部隊に行軍を命じた模様だ。殿下はすぐにいくつかの大隊からなる増援と伴にナウエンドルフ将軍を送り出し、彼にあらゆる地点で敵を攻撃し彼らを山岳部へ追い返すよう試みることを命じた。同時にゴルガー将軍はアルピエルスバッハへ、メールフェルト将軍とギューライ将軍はフリーベルクとザンクト=ゲオルグへ移動し、そこで敵を攻撃し、彼らを追い散らし、多くの捕虜と1両の弾薬運搬車を奪った。同時にクリングリン将軍はノイシュタットへ移動したが、敵は彼の接近に伴いその陣を去った。シャフハウゼンとシュタインの近くにいたキーンマイヤー将軍は敵の強力な分遣隊を撃退し、彼らをシャフハウゼン近くまで追撃し、そこに彼(キーンマイヤー将軍)の前哨線を置いた。シュタインとディッセンホーフェン確保に不安を抱いた敵は、双方の橋を焼いた。
 5日、あらゆる前哨線から敵が全拠点からフロイデンシュタットまで退却し、そこにフランスのサン=シール将軍の師団が引き続き布陣しているとの報告がなされた。ブランケンシュタイン・ユサール連隊のシュタインホーファー中佐はホンベルク近くの敵を熱心に追撃し、彼らに襲い掛かり、何人かを殺害し、何人かの捕虜を得た。7日、敵はフロイデンシュタットからも退却し、クニービスのいくつかの拠点を放棄し、そこからオーベルキルヒを経てケールへと行軍した。オフェンバーグを通ってラールへ行軍していた他のいくつかの縦隊も、その地[ケール]へ退却した。フライブルクから来た縦隊はアルト=ブリザッハへの道をとり、そこでライン河を渡ってその後で橋を破壊した。殿下はあらゆる方面で敵を追撃し、敵が放棄した主な拠点を確保するよう軽兵に命じた。軍は今フィリンゲン、ドナウエシンゲン、及びエンゲンの近くに布陣している。

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France, Volume 8" London Gazette, p180-181


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