ウィーン
1799年4月10日



 ウィーン、4月10日
 伯爵ベレガルデ中将は男爵シュテルンダール中尉を伝令として以下の報告を送った。

 シュルデルンス、4月5日
 敵はティロルへ侵入し、そして30日から31日にかけての夜間にデソル将軍はマルスとオーランを去ってトーフェルとサンタ=マリアへ前進した。伯爵ベレガルデ中将は腰をすえる狙いを明白にし、既に塹壕をこしらえ始めていた彼らを陣地から追い払うことが、状況が許す時はいつでも効果的に動くためにも極めて必要だと判断した。従って伯爵ベレガルデ中将は今月4日の午前2時に兵を集め、必要な配置を行い、夜明けと伴に敵に向かって行軍した。
 攻撃は4時半に始まった。我々の左翼はすぐに敵の側面を見晴らす丘を奪ったが、彼らは主戦線を維持し、そこからの砲兵とマスケット銃による極めて活発な射撃で我々を苦しめた。我々の右翼は、敵が陣取った2つの古い城の背後に塹壕を構えた陣からさらに激しい抵抗を受けた。それから中将は砲兵と予備部隊全部に前進を命じ、その時から攻撃は全面的なものになった。帝国兵は機動と平静さによって敵の右側面を見晴らす山の頂をかなり奪った。敵は今や退き、陣を捨ててトーフェル村へと退却していった。しかし精力を傾けた追撃により、彼らは大きな損害を出してトーフェル背後の高地へ大急ぎで退却したが、ベレガルデ将軍によってそこからも追い出された。敵はさらにムンスターへ後退し、そこで積極的な抵抗をしたが、多くの捕虜を出してそこからも追い払われ、我らの兵によってきっちり追撃された。
 敵はツェルネツへ退却し、そこの近くで参謀長のペトリオーニは敢えて全軍を使った攻撃を行った。彼はいくつかの大隊を押しやるのに成功した。敵は3門の大砲を失って再び壊走し、その時からとどまることなく退却を続けた。敵の参謀士官の何人かと多くの尉官が負傷した。我々は300人の捕虜に加え、3門の大砲、11両の砲架、14両の弾薬車、そして1000挺のマスケット銃を得た。多くの士官及び150人を超える下士官、兵がいる病院も我々の手に落ちた。
 敵が頑強な抵抗をしたため、我々側の損害も決して僅かなものではなかった。多くの実績ある士官が戦死するか負傷した。
(後略)

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France, Volume 8" London Gazette, p178-179


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