ウィーン
1799年4月10日



 シュトックアッハ近くの会戦の報告、3月25日及び26日

 オストラッハの戦闘後、敵はプフレンドルフとシュトックアッハへ退却した。彼らの部隊の大半はエンゲン近くに陣を敷いた。フェリーノ師団とルビ旅団はジンゲン近くとラドルプツェル背後の地に布陣し、サン=シールの部隊はリプティンゲンで足を止めた。
 ナウエンドルフ伯の麾下にある殿下の前衛部隊の主力は、敵をアッハまで追撃した。公爵シュヴァルツェンベルク将軍は、その旅団と伴に彼らをシュティルスリンゲンから追い払った。伯爵メールフェルト将軍は彼らをシュヴァンドルフから撃退し、3月23日のそこに陣を敷いた。この将軍はノイハウゼン前面に陣を敷いたサン=シールの前衛部隊を24日に攻撃し、多くの死傷を与えながら彼らをリプティンゲンまで追い払い、200人の捕虜と3門の大砲を奪った。
 同日、軍は2個縦隊に分かれて動き、シュトックアッハ近くに宿営した。右翼はマルシュピーレンの丘を占拠し、ネレンベルクへと広がった。左翼はネレンベルクの下、税関の近くに陣を敷き、ヴァルヴィス近くまで戦線を延ばした。ラドルプツェルからの主要道路の方面からこの陣地を守るため、ラシー[連隊]の2個大隊とアンスパッハ胸甲騎兵連隊がエルペリンゲンの丘に布陣した。この方面は、多くが沼沢地と険しい丘陵に覆われた開けた地において優位にあった。
 24日、[カール]大公はナウエンドルフ氏から敵が軍主力をエンゲン近くに集中させているとの情報を得た。殿下はすぐに、ヴルムゼル義勇部隊以外に歩兵を持たないメールフェルト伯にいくつかの歩兵大隊を送った。翌日(25日)、リプティンゲン近くに布陣しているサン=シール師団を攻撃し、彼らにドナウ再渡河を強いるよう試みよとの命令と伴に。同日、殿下は自らエンゲン近くの敵軍主力を偵察することを決心した。しかし側面の敵はその日、主力をもって大公軍の右翼を攻撃するのみならず、プフレンドルフへの連絡線を遮断するためその後方を衝こうと決断した。この目的のため、そしてその行動を隠すことも視野に入れて、敵は2個師団をエンゲンからリプティンゲンへ送った。そして殿下の注意を左翼へひきつけるため、25日の朝5時に5個か6個大隊でアッハ村で攻撃を引き起こし、そこにある隘路を確保しようと試みた。同時にシュヴァルツェンベルク公はシュタイフリンゲンでフェリーノ師団とルビ旅団に攻撃された。殿下はアッハを渡っている時にこの情報を得た。そして彼がナウエンドルフ伯の近くにどうやら到着しようとした前に、メールフェルト伯は優勢な敵部隊に対してこれ以上抵抗することは全く不可能でありリプティンゲンから約3マイル背後にある森へ退却しているという、右翼にいた司令官ヴァリスからの報告も受け取った。
 殿下はすぐにナウエンドルフ氏とシュヴァルツェンベルク公に対し、徐々に陣地へ後退するよう命じた。即ちナウエンドルフ氏はネレンベルクの丘へ、シュヴァルツェンベルク公は左翼へ。これらの動きは、敵がその圧倒的な優勢にもかかわらず僅かな土地を奪うにも高い代償を払うことを余儀なくされるほど、いずれもとても巧みに極めて規則正しく実行された。ジュールダン将軍は自らこの攻撃を指揮し、同時に殿下のプフレンドルフへの連絡線を脅かすためヴァン=ダンム将軍を送り出した。午後1時になるまで敵は我々の左翼シフリンゲンの側面にたどり着くことができず、彼らがアッハの側面に到着したのは夕方近くだった。殿下はこの側面に戻り、そこの指揮をシュタッダー中将に委ね、自らは右翼へ急いだ。シュタッダー将軍はすぐに2個歩兵大隊と3個擲弾兵大隊をネレンベルクの丘に派出した。殿下が選んだ陣地の中央部としてのこの丘をナウエンドルフ氏麾下の前衛部隊と伴に守り、あるいは右翼を増援する必要が生じた際にはこうすることで彼らを互いに近づけるためである。使える以上の騎兵が左翼にいたため、公爵フュルステンベルク将軍はフランツ大公胸甲騎兵連隊をデントヴァンク方面へ派出した。この時、ペトラッシュ中将はヴァリス将軍の命によって、その右側面を守るため2個歩兵大隊をマルシュピーレンの右側、ツィツェンハンゲンの高地に布陣した。この将軍は、既に森を突破していた敵を、これらの兵とシュトゥットリンゲン街道の右にいるキルペン及びゲミンゲン連隊と伴に攻撃するよう命令を受けており、一方公爵フュルステンベルク中将は、皇帝及びベニョフスキ連隊と伴に、敵の激しい散弾とマスケット銃の銃撃にもかかわらず、高地を支援する目的で街道とその左側にそって前進した。公爵は極めて大胆に実行したこの攻撃の最中に散弾によって殺された。公爵アンハルト=ベルンベルク大佐もまた重傷を負い、すぐ後に戦場で死んだ。彼の遺体は戦死者たちの間で見つかった。この2人の勇敢な士官たちの死は軍において深刻に受け止められた。大公はすぐにフュルステンベルク公の師団指揮権の一部をシュティプジッツ少将に委ね、彼は命令を勇気にも劣らぬ腕前と大いなる成功と伴に実行した。彼自身もマスケット銃弾によって腕に打撲傷を受けたが、彼が兵たちの先頭にとどまるのを妨げることはなかった。全ての士官たちと兵たちはその勇気によって勇名を馳せた。アンハルト=コーテン公は、彼の騎兵が敵に近づけず、歩兵を指揮する将軍が欠如しているのを見て取ると、馬を下り、大公にフュルステンベルク公の師団の残りを敵に向かって率いることを申し出た。大公は許可を与え、そして彼はこの部隊の先頭に立って、厳しい試練を超えた行動と勇気から期待できるあらゆることを成し遂げた。この地点で選び抜かれた兵と伴に我々に対峙した敵は、最も頑強な抵抗をしたのみならず、我々の兵の大胆さにもかかわらず時にはそれを撃退し、時には食い止めることに成功した。そういう訳でこの戦闘は何時間にもわたって決着がつかず、そのため彼らは最終的に狙った地点を奪うことができるとの希望を抱いた。この危機において、勝利を確保する目的で大公は、ウルム大佐とリヒター少佐の巧みな行動下にある2個大隊に、街道の左側を前進するよう命じた。この時にはビブラ大尉が特に名を上げた。同時に殿下が左翼とヘレンベルツから送り出した擲弾兵が到着した。彼らは伯爵コロヴラト中将の指揮下で1つの縦隊を組んで街道沿いに前進した。テゲトフとバヨコフスキの大隊が先頭に立った。この隊形で彼らは森に到達し、その前で彼らは正面を左翼へ延伸し、側面を形成した。その間、彼らに続いていたテシュナーとリッペの大隊は右翼へ延伸し、1個半旅団に降伏を強いて捕虜とした。これらの機動の間に、そして我々の勇敢な擲弾兵たちによるこのノイハウス付近のドゥトリンゲン街道での成功の間に、敵は騎兵4個連隊で我々の擲弾兵の側面に思い切って攻撃してきた。彼らはしっかりとこれを受け止め、そしてよく狙った射撃と、それに続きくぼ地で迅速に隊列を組んだリーゼン中将指揮下のナッサウ及びマック胸甲騎兵[連隊]の一部による突撃で、敵は完全に敗れ、逃亡を強いられた。我々は敵をリプティンゲンまで追撃し、大砲1門を奪った。夜が訪れ、この翼側におけるこれ以上の追撃を妨げた。その間、敵は我々の右翼を迂回するため、ヴァン=ダンム将軍麾下の師団をメスキルヒへ派出した。デントヴァンゲン近くでフランツ大公胸甲騎兵[連隊]と伴に隊列を組んだヴィルテンベルク公は、既にミリンゲンとデントヴァンゲン村を確保し、捕虜の報告で知ったところによると我々の予備砲兵を奪取する意図を抱いていた敵を攻撃する決意を独自に固めた。彼は軍へ再合流するため行軍中だった軽歩兵の小部隊の支援を受けてこの攻撃を実行し、2つの村を奪回し、ヴァン=ダンム将軍が既に部下を支援するためかなりの増援を送り済みだったビルケル近くの小さな森まで敵を追撃した。このよく組み立てられた企図は完全に成功した。敵はこの地点からも撃退され、多くの死傷者を出し、そしてヴィルテンベルク公は我々の右翼と合流した。
 シュタッダー中将麾下の左翼では、敵が勢いよく攻撃を仕掛けてきた。我々の軽っ兵はロイツィンゲン村から後退し、敵はそこを奪った。ネレンベルクはなお我々の兵が占拠していた。敵は繰り返し攻撃を行い、彼らをそこから排除すべくあらゆる努力を払った。我々の砲列とネレンベルクからのよく狙った砲撃によって、彼らは挫かれた。これらの失敗した試みの後で、敵は我々に対する砲列を敷こうと試したが、それもまた同じように失敗に終わった。砲列が砲撃を始めようとする前に大砲が破壊され、攻撃は撃退された。敵は全軍をヴァルヴィス村に向け、そこを奪おうと繰り返し取り組んだ。しかしこの村を前面においてそこの防衛を2個歩兵大隊に任せていた公爵ロイス中将による優れた配置と、我々の砲列によるよく狙った砲撃によって、この企ても同じように失敗に終わった。ヴァルヴィス村への繰り返された攻撃は夜が更けるまで続けられた。かくしてこの重要な一日は終わった。
 26日午前4時半、敵はヴァルヴィスへの攻撃を再開し、その村を奪うべく全力を投じてきた。しばらく後で、彼らはラドルプフェル街道上の我が左翼も攻撃しようと思っているように見えた。この攻撃はまたも撃退され、敵は退却を余儀なくされた。この日、敵はなおリプティンゲンの背後にとどまっていた。我々の前衛部隊は彼らのすぐ後を追随した。殿下は我々の損害を正確には言えなかったが、戦死、負傷、行方不明者を合わせて3000人と見積もられる。敵は5000人を失ったに違いなく、うち捕虜は2000人だった。殿下はここで勇名を馳せた士官たちに関する正確な記録を出す予定だが、そのうち主なものについては既に彼らが指揮を執った様々な戦闘の報告で触れている。
 殿下は、この報告の日から後に、シュトックアッハで敗北した後に敵がノイシュタット、ホルンベルク、そしてフロイデンシュタットに退却したと政府に連絡を取っている。殿下は敵が放棄した陣地に前衛部隊を押し出し、4月3日にはフィリンゲンの高地で宿営した。

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France, Volume 8" London Gazette, p171-174


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