参謀長エルヌフからジュールダン将軍への手紙
1799年4月5日



 芽月16日(4月5日)

 私の手紙の写しを総裁政府に送るというあなたの意図を知らされたので、私は退却を命じることを決断した理由について十分に詳述していないのではないかと危惧の念を抱いています。そこで、フリブールの地点が突破され我々のあらゆる連絡線がエルツァッハとヴァルトキルヒの地点――そこから敵がハズラッハとフライブールに大挙して到着し、その結果我々の退却地点を確保したたに違いありませんが――によって遮断されたと私が知らされたことを付け加えるよう、あなたにお願いします。私はこれらの状況を最大限の重要さを持つと見なし、全軍の運命を危機に晒すことがないよう、退却を命じることを決断し、それは私の望む限りの秩序と規則性をもって実行されました(原註)

 (原註)デカーン准将は正当化のための覚書を出版し、その中で私が総裁政府に対して彼を糾弾したと推測している。彼はまた戦役の間に私が大きな失敗をしたと非難し、私が芽月14日に軍を離れたことに対し驚きを表明している。そこではまたエルヌフ将軍を激しく攻撃しており、エルヌフは彼に関するものについて反論を出版した。私について言えば、以下のようにデカーン将軍に言うことで満足している。彼の仮定と非難とそして驚きに十分な論拠があるならば、そうした状況はエルヌフ将軍の報告を無効にするものではないことは認める。――にもかかわらず、私は彼を糾弾するなどの行いはしていないと付け加えたい。彼が私の才能に何の信頼も置いていなかったことを知っていたため、私は総裁政府に、彼がもっとよい見解を持っている士官が指揮を執っている他の軍に彼を移すよう求めた。私は総裁政府にエルヌフ将軍の報告の写しと、彼が持っているような指揮する才能をもし私が持っていないのだとしたらそれは私の失敗ではないが、私が他者の指揮下に仕える時はいつでも秩序と熱意をもって彼らに従い、彼らの命令を批判するようなことは――特に部下のいる前では――決して行わないであろうことを伝えた。要するに、軍を芽月14日に去ることを私に強いた動機についてもし彼が知りたいと切望するなら、軍の保健部門長である市民ペルシーに話しかけてもらいたい。彼は詳細について知らせるうえで私自身より適任である。

google book "Memoir of the Operations of the Army of the Danube, Under the Command of General Jourdan" p214-215


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