カール大公殿下から彼の麾下にある軍の全将軍に対する一般命令
1799年3月20日



 フランス兵の最初の接近からもはや疑うべくもないその敵対的意図は、日々よりあからさまになっている。そして遂に、彼らが全兵力の集結まで軍事的な拠点を占拠することを通じ、フランス軍が告げようとしていることが明らかに見て取れるようになった。3月6日、マセナはスイス方面でグリゾン地域とフォーラルベルクに対して敵対行為を始めた。彼はそれを事前の宣戦布告は一切なく奇襲でもって開始すらした。敵の軍団は15日にシュトックアッハへ前進し、そこに布陣した我々の拠点を攻撃し、彼らを撃退した。同じ行動がクロスターヴェルトとツォルネックに対しても行われた。同時に、即ち16日に、テュロー将軍はザルマンスヴァイラーにある我々の拠点に対して大砲[?]を構え、騎兵と歩兵の分遣隊でもってその地を支配した。イーバーリンゲンも同日攻撃された。ピアツェック少将の担当戦線はラーフェンスブルクまで押し込まれた。彼の護衛の一人が騙まし討ちによって負傷すらした。ロヴェック少佐は20日にこの事件をフランス軍指揮官に知らせたが、少佐がテュロー将軍にこの件について言及したところ後者はラッパを鳴らしてで協議を要求した。少佐が彼に近づいたところ、フランスの将軍は分遣隊を使って彼を捕虜にした。前代未聞の行為であり、戦争法においては最も暴力的な戦争のためだけに許されることである。
 私が受け取った情報によると、フランス軍は私の前衛部隊に接近し、最前線にあったいくつかの分遣隊を押し込み、コルキルヒェンとイーシュテン[?]の修道院まで突入してきたという。
 これら一連の攻撃的行動はフランス軍司令官からの手紙に続くものだった。その手紙の趣旨は我々の砲口からの返答以外に余地のないものだった。そして、ほんの一例として引用したこれら私の麾下にある兵に対する敵対的行為――それは黙認されたまま今月6日から現時点まで、そしてなお進行中である――は、その裏切り行為に復讐する他に選択肢が残されていないほどのもので、戦史の中にも匹敵するものがないような侮辱に、私の麾下にある兵の名誉を傷つけたようなやり方で答えることが緊急に求められている。この新たな闘争によって蒙るに違いない人間性への侮辱をもたらすあらゆる計り知れない結果は、平和的確約を繰り返したのとほぼ同時に、陣についていた我々の兵を敵対的手法によって攻撃し、そして可能な限り最大限の破壊を奇襲によってもたらした彼らに帰属させられる。それは彼らの行動をいかなる点でも正当化できない理由に基づかせ、そして良識に反し、もしくは現代の慣例に反した偽りであり、あらゆる承認された道義に反している。

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France, Volume 8" p174-175


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