エーレンブライトシュタイン要塞降伏
1799年1月24日



 エーレンブライトシュタイン、1799年1月23日

 エーレンブライトシュタイン要塞指揮官から同要塞包囲軍指揮官である将軍、市民ダルマーニュへ。
 市民将軍殿、
 エーレンブライトシュタインからの撤収のため私が計画した方法に関する昨日の私の申し出は、同じ手紙に含まれている宣言の中に私が記した原則に基づくものであったにもかかわらず、あなたの同意を得られませんでした。市民将軍殿、あなたと私によってその目的のための権限を与えられた士官たちの間の会話で合意された手はずをあなたに送るしか私には手が残されていません。即ち、
 第1条 我が麾下の守備隊は1月27日午前9時に要塞を撤収する。部隊は2つの縦隊を組む。一つ目はモンタウバーに、二つ目はヴァレンダルトとその近郊に宿営し、28日にそこから出立する。
 第2条 守備隊は要塞を出る際、ドラムを鳴らし、軍旗を掲げ、火縄に着火し、武器と荷物を持って行進する。
 第3条 守備隊は各大隊ごとに野戦砲2門と1つの弾薬箱、合わせて6ポンド砲7門、4ポンド砲2門を持ち運ぶ。
 第4条 大隊は彼らのテントと宿営用具を運搬のため提供される馬車あるいは馬匹の背に乗せて持ち運ぶ。記録や公文書など、要塞に完全に付属していないもの全ても同様とする。
 第5条 守備隊は砲兵、軍需物資、荷物の運搬用の馬匹を極めて少ない数しか準備していないため、彼らが中立地帯を通り過ぎるまでサドルと荷馬、荷車を供給するのに必要な措置を講じる。
 第6条 守備隊はモンタウバー、リンブール、カムベルク、ヘニッカインを通過してフランクフルト=アム=マインへ直接向かう。全軍は2月2日には目的地に到着するだろう。彼らはあらゆる種類の便宜と用立てを図ってもらい、短い行軍ができ、第1縦隊はラーン沿いのリンブールで、第2縦隊はモンタウバーで1日の休息を取る。
 第7条 守備隊は中立地帯にたどり着くまで十分なパン、肉、飼料を供給される。
 第8条 持ち物を全て運ぶことができない士官は残りをタールもしくは彼らが選んだ場所に残りを置いておくことができる。彼らはまたそれを自由に処分することができ、その際に完全な安全を認められる。同様のことが、容積の問題から現時点では運搬することができない公文書その他に関しても認められる。
 第9条 士官か兵士その他の負傷者、軍務に就いていない状態だったトリール選帝侯殿下の随行員、及び芸術家、職人その他はタールに残ることができる。もしくは望むなら彼らの持ち物を適当だと思うあらゆる場所へ移動するのに必要なパスポートを何の障害もなく取得することができる。
 第10条 移動することができない病人は彼らが今占有している低い場所にある要塞に残る。彼らは彼らの君主の負担でその目的のために残された士官1人と兵10人の分遣隊から成る看護部隊の看病を受けられる。健康を回復した後は、同じ条件で守備隊の後を追う。
 第11条 士官の夫人たちと守備隊に同行しなかった兵の妻子は彼らの身体と財産について完全な安全を保証される。またタールに残るか、もしくは彼らにとって好ましい場所へ移動する自由がある。
 第12条 守備隊は兵が自ら運んだものの他に、それぞれの中隊に所属する武器を持ち出せる。
 尊敬の念と深い思いやりを込めて、
 市民将軍殿、
 敬具、
(サイン)ド=ファベル大佐

 上記の12項目は、エーレンブライトシュタイン包囲軍指揮官で将軍たるこの私が受け取り、受諾したものである。
(サイン)ダルマーニュ
 コブレンツ、雨月5日(1月24日)、一にして不可分のフランス共和国暦7年。

google book "Memoir of the Operations of the Army of the Danube, Under the Command of General Jourdan" p44-49


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