R・クロファードの報告
11月13日



 皇弟殿下オーストリアのカール大公の司令部
 オフェンブルク、1796年11月13日

 閣下、
 大公殿下がマヤンス総督のノイ中将から受け取った報告によると、ナーエへ前進した軍団が後退を強いられ、ゼルツの背後に陣を敷いたようであることを、閣下に謹んでお知らせします。
 マヤンス守備隊からの分遣隊のみで構成されているこの軍団はジムシェンとローゼンベルク少将が指揮を執っています。後者は左翼とともにクロイツナッハを監視するためビーブレスハイムとプラニッヒに、前者は右翼とともにビンゲンの渡河点を守るためロヒャスベルクと呼ばれる丘に布陣しました。極めて優勢な敵に攻撃された際には退却してマヤンスに接近するよう命じられています。
 下ナーエ右岸のこの陣は昨年の作戦でよく知られています。とても優勢な敵戦力相手に保持できるものではありません。クロイツナッハは完全に川の左岸の丘からの砲撃下にあるため、敵は1795年12月1日の戦闘で十分に証明されたようにいつでも渡河点を支配しています。クロイツナッハ側の岸では高地があまりにも川から離れているため、敵は正面と町の両翼へ自ら延伸するうえでのあらゆる便利さを持ち合わせています。とても劣勢な戦力がこの戦線構築を妨げるに十分なだけ近くに布陣することはできません。
 26日、ジンプシェンとローゼンベルク将軍はサンブル=エ=ムーズ軍の2個師団から攻撃されました。戦闘は数時間続き、数の圧倒的な不均衡にも関わらず、敵はかなりの損害を出して撃退されました。
 27日早朝、フランス軍は攻撃を再開し、クロイツナッハからいくつかの縦隊を組んでオーストリア軍の左翼を迂回しました。しかし後者は、多大な手腕と堅実さを伴う努力の末に陣を維持しました。しかし夕方になると将軍たちは上に述べた命令に従いゼルツの背後に退却することを決断しました。退却は完全な秩序とともに実施されました。
 この機会におけるオーストリア軍の損害は戦死19人、負傷184人、行方不明96人でした。全体では299人と馬匹89頭になりました。
 敵の損害は確かにかなりのものでした。200人が捕虜になり、マヤンスに連れてこられました。
 この詳細については正直言って重要でない戦闘だと付随的に述べておきます。というのもサンブル=エ=ムーズ軍の公式報告、その中でも新しいものを見たところ、実に馬鹿げた誇張が含まれていたからです。私はそれが、戦役における出来事を判断するに他の手段がないからというより、争っている両軍によって出された記録を比較する際に双方の話に同程度の公平な信頼を与えた場合に最も誤った結論に導かれるであろうことから、完全に注意を払うに値しないものだと考えます。
 ノイヴィート近くでの先月21日の戦闘は単に彼らの橋を破壊しライン左岸に警報を広める目的で実行されたものでしたが、ところがそれに関する敵の公式記録には猛烈で全面的な攻撃が行われたと描かれています。二つの目的はいずれも大したことのない戦力で達成され、ノイヴィートの橋頭堡への本格的な襲撃の考えなどこれっぽっちもありませんでした。敵は多大な戦死者と溺死者の他にも実際に1000人の捕虜を得たと述べていますが、私は閣下に断言できますが最も信頼できる情報によればオーストリア軍の損害全体は284人以下でした。
 モロー将軍の軍がラインを渡った後で、そのうちの2個師団がランダウに派遣され、ほぼ同じ時期にサンブル=エ=ムーズ軍の1個師団がカイザースラウテルン近くに到着しました。ホッツェ将軍はなおシュヴァイゲンハイム近くのシュパイアーからランダウへの道路上にとどまっています。彼の軍団は下アルザスに警報を広める以外の目的に使えるだけの十分な戦力はありません。主力軍をラインが分かつようになるや否や、敵がすぐランダウ地域を支配するのは明らかでした。
 そこでホッツェ将軍は彼自身に比べて圧倒的に優勢な戦力の接近にともない、敵からほんの僅かの妨害を受けることもなくマンハイムの塹壕を掘った宿営地へと退却しました。彼は前哨線の左翼をレーバッハに築き、そこからフレッツバッハに沿ってフランケンタールまで伸ばしました。
 7日、フランス軍はホッツェ将軍の戦線を攻撃しました。主攻軸は左翼に指向され、日中のほとんどの時間、大砲と小火器による射撃が続きました。しかし敵は撃退され、ホッツェは塹壕を掘った宿営地前面にあり、レーバッハからマウバッハ村を経てフランケンタールへ延びる哨戒線を保持しました。
 敬具
(サイン)ロバート・クロファード

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France" London Gazette, p130-132


――1796年ドイツ戦役史料集に戻る――