R・クロファードの報告
10月25日



 皇弟殿下オーストリアのカール大公の司令部
 シュリンゲン、1796年10月25日

 閣下、
 大公殿下が昨日シュリンゲンの手ごわい陣にいたモロー将軍の軍を攻撃し、多大な成功を収めたため敵は昨夜にそこを去り、今やフンニンゲン近くの橋頭堡へ向け全力で退却していることを閣下に謹んでお知らせします。
 19日に大公が得た勝利と、それに続く20、21日の作戦にもかかわらず、モロー将軍は予想されたのとは逆に、ライン右岸にとどまるべく新たな努力をすることを決断したか、少なくとも可能な限り河を渡るのを引き延ばそうとしました。この目的のため彼は、軍を破滅に晒すとこなくそのような決断を採用することを唯一可能にする滅多にないほど強力なシュリンゲン近くの陣を占めました。
 モロー将軍が選んだこの陣は非常に強力なので、私は閣下に行われた作戦の困難について僅かな部分でも伝わることを期待してそれの描写を試みます。
 マインからバーゼルの2ドイツマイル以内まで広がる平らな土地は、フランケンとシュヴァーベンの山地からライン河を隔てており、ムールハイムの南方からほとんど正確な長方形になり、その幅は1英国マイル半で南東の角にシュリンゲンの村があります。この平地の南は、ホーアー=ブラウエンと呼ばれる高い山の麓、シッツェンキルヒェン村の近くに発し、オーベル=エッケンハイムに流れ、そこから西方に向かってニーダー=エッケンハイム、リール、シュリンゲンを通り、シュタインシュタットでラインへ流れ込む小川が境界になっています。シュリンゲンで小川の右側にある丘(急峻でブドウ畑に覆われています)は急に北方へ曲がり、平地の東側の境界線からムールハイムの方角へ延びています。しかしとても高く見晴らしのいい小川の西岸はラインまで続いており、そこで唐突に終わっています。上に述べた小川の水源からそれほど遠くないところにもう一つの小川が流れ出しており、それは反対側、つまり東南方向へ向かってシッツェンキルヒェンを過ぎ、カンデルン村で同名の小川に流れ込んでいます。そこからとても深くかなりの距離にわたって通過できない峡谷を通り、シュタインシュタットから6、7英国マイル上流でラインに流れ込んでいます。カンテルンの約1英国マイル西方から流れ出す3つめの小川は後者とほぼ平行に走り、フエルバッハ、ライトリンゲン、そしてバーデンムーレを通ってカンテルン河口の少し下流でラインへ流れ込んでいます。
 上に述べた峡谷の水源の間には起伏の激しい丘があり、広い範囲が深い森に覆われています。
 かくして敵の右翼はほとんど攻撃不可能な状況にありました。先端部を守っていた軍団はカンテルン、シッツェンキルヒェン、そして周辺の高地を占めており、そこから戦線はオーベル及びニーダー=エッケンハイム上方、リール、シュリンゲンとシュタインシュタットの丘に沿って延び、その全ての場所が強力に占拠されていました。戦線の左側面はラインまで届いており、シュタインシュタット高地の下近くまで延びていました。軍の中央前衛として敵は強力な歩兵軍団を高地とシュリンゲンとフェルベルク間のブドウ畑に置いていました。
 中央から約1英国マイル後方、即ちリール南方にはタンネンキルヒの村がありました。そことリールの間には全陣地で最も高い丘がありました。タンネンキルヒからリートリンゲンが位置する峡谷へ向かって地面は下がっており、右翼が布陣したとても強力な地から追い払われた時には、彼らは(タンネンキルヒの高地に下がることによって)もう一つの本当に優れた陣地、L字型になる部分を持っていました。シュリンゲンとシュタインシュタット間の左翼についても、突出部がタンネンキルヒとリール間の高くほとんど攻撃不可能な丘によって守られていました。
 強力な縦隊をカンダー川左岸の山岳部とヴィゼンタールを通って行軍させることによりフンニンゲンの橋頭堡との連絡線を脅かしてモローをその陣地から立ち去ることを強いる試みは、現在の状況下ではあまりにうんざりするような作戦で、しかも雨によって道路状態が悪化している現状では最大限の困難を伴うものでした。そこで大公は敵軍の右翼を攻撃し、そして可能なら彼らをカンテルン、フエルバッハ、シッツェルスキルヒェン、そしてオーベル及びニーダー=エッケンハイムから追い出すことを決断しました。その地を奪った後は、もし敵がその陣を保持し抜こうとしたのなら、殿下は翌日ライトリンゲン峡谷背後の高地を攻撃すべく前進できます。この試みは難儀なものですが、全て軍の尽力に期待がかかっています。皇帝の弟によって、最も厳しい状況で常に兵たちに示されてきた勇敢さと、彼が兵を指揮する際の偉大な能力とが、全軍に殿下に対する高度の信頼と愛着を吹き込み、熱狂にまで高めています。
 攻撃は以下の方法で実施されました。――軍は4つの主要縦隊に分けられました。コンデ公の軍団で構成され殿下が指揮しその前衛部隊はダンギャン公が率いる第1、または右翼縦隊。9個歩兵大隊と26個騎兵大隊で構成され、フュルステンブルク公が指揮する第2縦隊。11個歩兵大隊と1個騎兵旅団からなり、ラ=トゥール麾下の第3縦隊。軍の前衛部隊全てで構成されナウエンドルフ少将麾下の第4縦隊。
 最初の2つの縦隊は敵を牽制し、彼らが左翼からかなりの部隊を派出するのを防ぎますが、その方面の主要陣地に対する本格的な攻撃は試みません。シュリンゲンからラインに至る地はそれを認めるにはあまりに強力だからです。
 第3及び第4縦隊は敵の右翼に本格的な攻撃を行い、その側面迂回を試みます。
 コンデ公の縦隊はノイブルクに集結し、シュタインシュタットへ前進し、その村を攻撃して奪い、敵陣地の左翼から完全に見下ろされながらもそこを最大限の頑強さで終日維持しました。
 フュルステンブルク公の縦隊はムールハイムに集結し、シュリンゲンへ前進しました。シュリンゲンの背後にある敵の陣地に向かい合う高地に彼は布陣し、激しい砲撃下でそこを維持しました。
 ラ=トゥール将軍の縦隊はフェーゲスハイムからフェルトベルクを通って行軍しました。その右翼はフェルトベルクとシュリンゲン間のブドウ畑の敵を攻撃し、その間左翼は敵をエッケンハイムから追い払い、峡谷を通ってその背後の森がちな丘を攻撃しました。いずれも攻めにくい土地で、この攻撃はいずれも最も頑強な抵抗に遭いました。しかし右翼はとうとう敵をブドウ畑から立ち退かせるのに成功し、彼らはリールの背後に退却しました。左翼は敵を森の一部から追い払った後で、その右側面をニーダー=エッケンハイムにおいた陣を敷き、左翼をフォイエルバッハへ延伸しました。
 ナウエンドルフ将軍の縦隊はラ=トゥール将軍に先行してフェルトベルクまでたどり着き、そこから山の麓にそってブルクライムの城がある左に向かいました。そして彼らはいくつかの縦隊に分かれました。そのうち1つはシッツェルキルヒェン村を攻撃し、そこを奪った後でカンテルンへ延びていると述べた峡谷を下っていきました。もっと多い兵力を持つ別の縦隊は前者の左翼にあって、ナウエンドルフ将軍自身が指揮していました。彼はシッツェンキルヒェンの峡谷とカンデルン峡谷の間にある強力な高地を攻撃し、多大な抵抗の後でそこを奪い、すぐにカンデルンの町の上にたどり着きました。メールフェルト少将麾下の軽歩兵とユサールからなる3番目の縦隊はシッツェンキルヒェンの右にある強力で森がちな高地から敵を追い払い、峡谷の水源間を通っている戦線の一部を構成しタンネンキルクとリール間の高い丘につながっているカンデルンとフォイエルバッハ間のあらゆる高地を占拠しました。これによってメールフェルト将軍はフォイエルバッハ近くでラ=トゥール将軍の左翼と連絡を確立することができました。敵はいまやカンデルンの村からも追い出されました。
 ナウエンドルフ将軍の軍団は一晩中行軍しており、山間部の道路状態の極度な悪化(ほとんど通行不能になっていた)もあって、本格的な攻撃を2時まで開始できませんでした。そのため私が述べたような成功に至るまでには午後も遅くなっていました。激しい嵐とそれに続いて暗くなるまで立ち込めたとても濃い霧によって、戦闘は終了しました。
 敵はこの日の作戦がタンネンキルヒェンの丘(この地は今朝奪いました)に対する攻撃に向けて完全に準備されていたのに気づき、それを待つことは選ばず夜の間に退却しました。敵の後衛部隊はシュリンゲン背後の丘を今朝4時頃に立ち去り、フンニンゲンの橋頭堡へ向けて退却しているように思われます。
 敬具
 ロバート・クロファード

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France" London Gazette, p122-125


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