アンストラザーの報告
10月21日



 皇弟殿下オーストリアのカール大公の司令部
 フリブール、1796年10月21日

 閣下、
 今月19日に大公殿下が敵を攻撃し、執拗な戦闘の後でエルツ川右岸全域を支配したことを謹んで閣下にお知らせします。
 この戦闘を運命づけられていた兵たちは夜明け前にツェンツィンゲン近くの幕営地から行軍しましたが、困難な地形と悪い道のため彼らがそれぞれの集結場所に到達するまでに11時近くになってしまいました。彼らはそこで3つの異なる縦隊に分かれ、ラ=トゥール将軍麾下のその右翼はキントリンゲン村を攻撃することになりました。ヴァルテンスレーベン将軍麾下の中央はマルターティンゲン背後の丘を奪います。ペトラッシュ将軍麾下の左翼はハイムバルヒからエメンディンゲンへの道に沿って進み、その間にメールフェルト少将が1個旅団とともに彼の左翼の森を攻撃し、オラニエ公フレデリックがもう1つの旅団とともに敵の右翼を迂回すべく山地の最も高いところを越えようと試みました。ナウエンドルフ将軍は同時にエルカッハからヴァルトキルヒの拠点を攻撃するよう命じられました。
 正午ごろ戦闘が始まりました。右翼縦隊は最も執拗な抵抗に遭いました。キントリンゲンへの攻撃は繰り返し撃退され、しばらくの間は成功するかどうか不透明でしたが、殿下が擲弾兵の先頭に立って現れると、彼らは激情とともに突撃に戻り、敵に多くの損害を与えて村から追い払いました。
 メールフェルト少将もカイムバッハ上方の森を支配するのに同様の困難に会いました。地形は極めて敵にとって好都合で、彼らはそれを一インチごとに守りました。敵をそこから完全に追い払うのは困難でしたが、それも兵が通り抜けるのは不可能と思える土地を通った最も労の多い行軍の後でオラニエ公がエメンディンゲン上方に現れ、敵の右側面に攻撃を始めるまででした。その時から勝利は決定的になりました。敵はエメンディンゲンとデニンゲンでエルツを再渡河し、退却を守るため橋を破壊しました。
 その間、ナウエンドルフ将軍もヴァルトキルヒェンで同様の成功を収めていました。彼の縦隊が集結した時、彼はモロー将軍自身が指揮する敵の大軍に攻撃されていることに気づきましたが、彼はそれを撃退したのみならずヴァルトキルヒェンの背後まで追い払い、その拠点と川の渡河点も支配しました。この際、敵の3個大隊が包囲され、そのうち一つは武器を置いて降伏し、残る2つは森の中を散り散りに逃げました。
 20日早朝、軍の前衛はエメンディンゲンでエルツを渡り、敵がデンツリンゲン村のすぐ背後、右翼を山地に、左翼をフェルシュテルテン村背後の沼地に置いた陣を敷いているのを見つけました。殿下はすぐ攻撃することを決断し、その目的のためラ=トゥール将軍に右翼とともにエルツ川をデニンゲンで渡るよう命じ、彼自身は左翼とナウエンドルフの軍団とともに平地に沿ってフリブールへ前進しました。大公の縦隊の前衛部隊は困難もなく敵をデンツィンゲンから取り除きましたが、ラ=トゥール将軍はかなりの抵抗に遭遇し、敵の砲撃下でデニンゲンの橋を再建することを余儀なくされ、彼が川を強行渡河できるようになるまでに夕方になってしまい、殿下は軍の一部のみが交戦することができる状態では本格的戦闘をするのが好都合だとは判断しませんでした。しかしラ=トゥール将軍の縦隊の右翼を指揮していたフュルステンブルク公は敵をリーゲルから取り除く手段を見つけ、そこから彼はブリザッハへの大街道を脅かしました。
 全軍は敵前哨線から大砲の有効射程距離の半分以内で夜を過ごし、今朝早くから戦闘を再開するためのあらゆる準備がなされました。
 しかし敵は攻撃を待ちませんでした。その主力は夜の間に退却し、後衛部隊も夜明けにはそれに続きました。小さな軍団一つだけがブリザッハへの道を進んでそこでラインを渡り、橋を破壊しました。軍の残りは、大規模な橋頭堡が築かれていると言われるフンニンゲンの方へ行軍しました。
 主力軍が作戦している間、コンデ公とフレーリヒ将軍の軍団は山間部で積極的に活動していました。18日、コンデ公は同名の峡谷にあるザンクト=メゲルスとザンクト=ペーターの強力な拠点からかなり大きな損害を与えて敵を追い払い、フレーリヒ将軍はヴァル=ダンフェルの最も重要な峠のいくつかを突破しました。19、20日に彼らは引き続き前面にある敵を追い払い、今朝には大公の前衛部隊が町に入った時にはフリブール上の山地から下りてきているのが見られ、敵の後衛に圧力をかけるのに大いに貢献しています。
 17日からの様々な戦闘におけるオーストリア軍の損害についてこの時点で正確さをもって閣下に伝えることはできませんが、死傷者は1000人を越えていないものと信じています。負傷者の中には19日の攻撃で縦隊を率いていた際に腕に散弾が命中したヴァルテンスレーベン将軍がいます。しかしこの負傷は危険なものにはならないと期待できる根拠があります。
 敵の損害はかなりのものです。いくつかの大砲と2000人にのぼる捕虜がオーストリア軍の手に落ちました。死傷者の数も小さくはない筈です。
 敬具
 ロブ・アンストラザー

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France" London Gazette, p120-122


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