アンストラザーの報告
10月13日



 閣下、 オフェンブルク、1796年10月13日

 ラ=トゥール将軍の前衛部隊と敵の後衛との間で先月29、30日に行われた戦闘の結果、オーストリア軍はグロートとシュタインハウゼンへ前進し、フランス軍はシュッセンライトとフェデル=ゼーの間を保持しました。
 その間ペトラッシュ将軍はネッカー川とドナウ河の水源間に陣を敷き、より効果的にシュヴァルツヴァルトの峠を守り、そして彼の部隊は絶え間なく敵を苦しめました。
 このように圧迫されたモロー将軍は彼のさらなる退却が極端な危険に晒されていることを見て、彼を取り囲んでいる困難から自らを救い出す唯一の手段として本格的な戦闘に賭けることを決断しました。かくして2日早朝、彼の軍の左翼はライトリンゲンでドナウを渡り、ムンケルキンゲンでそれを再渡河し、ラ=トゥール将軍がフェデル=ゼーと河の間に配置した軍団を迂回して撃ち破りました。
 左翼の成功を確認するや否やモロー将軍はラ=トゥール将軍を正面から攻撃するべくシュッセンライトから前進し、戦闘は6時間の間最も執拗に続きました。しかしながらとうとうラ=トゥール将軍は彼の右側面が完全にがら空きであること、そして背後を敵の前進で脅かされていることに気づき、陣地を放棄しリス川の背後へ、そして最終的にはロータムバッハの背後へ退却することを余儀なくされました。コンデ軍団が、彼らの最も高い名誉を映した高度な勇敢さと堅実さで彼[ラ=トゥール]の退却を守りました。
 この機会におけるオーストリア軍の損害がかなりのものであったことを述べるのは悲しいことです。
 3日、ラ=トゥール将軍はロータムバッハの背後、モンヒロートからエーレンモースを経てラウファイムへ延びた陣を占めました。
 退却における将来の移動に十分な自由を得ることに成功したモロー将軍は、5日以降に行軍を再開し、彼の軍の主力はシュトックアッハへの道を取りました。
 6日、彼の左翼の2個師団はレトリンゲンとジグマリンゲンの間でいくつかの縦隊を組んでドナウを渡りました。フェリンゲン近隣で再集結した後で、主力と平行の方角にボイレンとフリーディンゲンへ進みました。そしてその退却に合わせ、ナウエンドルフとペトラッシュ将軍の軍団からの脅威を及ぼそうとする試みから行軍を守ろうとしました。
 7日、ラ=トゥール将軍はブルハンへ前進しました。モロー将軍はシュトックアッハ近くにあり、エンゲンを占領するためドゼー将軍を300人[?]とともに派出しました。
 8日、ラ=トゥール将軍の司令部はオストラッハに移りました。モロー将軍の司令部はシュトックアッハにあり、ドゼー将軍はエンゲンから前進し、ドゥットリンゲンにあったペトラッシュ将軍の哨戒線を追い払い、彼らをフィリンゲンへ追跡し、ホーエン、エミンゲン、そしてフィリンゲンからシェムベルクへ至る大街道の間に布陣しました。
 翌日、ドナウ左岸を行軍していた2個師団と合流した彼はシュヴェニンゲンでペトラッシュ将軍を攻撃し、彼をそことフィリンゲンから取り除き、ロトヴァイルの地を確保しました。しかしそれから、彼はナウエンドルフ将軍の軍団の分遣隊によってホッヒンゲンから追い出されました。ペトラッシュ将軍はシラッハへ退却し、そこから彼はキンツィヒ峡谷を守るためフリブルクにかなりの数の分遣隊を送り出しました。
 その間ラ=トゥール将軍派司令部をメスキルヒェンへ移しました。モロー将軍の司令部はエンゲンにありました。
 殿下の司令部は明日、マールベルクへ移ります。
 2日にマンハイムでラインを渡った軽兵軍団を指揮しているホッツェ中将はシュヴァイエンハイムの陣を占め、そこから部隊をヴィサンブール、ゼルツ、アグノー、そしてある方面ではほとんどシュトラスブールの城門まで、他方ではカイザースラウテルンとバウムホルダーまで押し出しました。彼らは分担金を集め、人質をとり、その地域全体に最大限の恐怖を広めました。
 敵がこの軍団に対して抱く懸念はかなり大きく、そのためマインツを見張るために残されていた兵たちもランダウ守備隊を増援するべく後退しました。この機をつかんでノイ将軍は彼の守備隊の一部とともにナーエへ前進し、敵がその川に残していたいくつかの小さな軍団を撃ち破った後でフンズリュックへ前進する姿勢を見せています。
 このデモンストレーションはブールノンヴィル将軍に、脅かされている地点を守るため彼の下ライン軍から4個師団を派出させることを余儀なくさせ、かくしてかなり弱体化した彼はヴェルネック将軍が送り出したかなりの偵察部隊を見て、ベルンベルク近くの陣地を放棄しムールハイムの背後に退却しました。
 敬具

(サイン)ロバート・アンストラザー
 第3近衛連隊大尉

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France" London Gazette, p107-108


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