R・クロファードの報告
10月6日



 皇弟殿下オーストリアのカール大公の司令部
 ラシュタット、1796年10月6日

 閣下、
 モロー将軍が(ウルムからシュトゥットガルトへ退却するという試みに失敗した後で)9月26日にエアバッハでドナウを再渡河し、ビベラッハとシュッセンライトに行軍したことを閣下に謹んでお知らせします。
 27日、ラ=トゥール将軍はイラー川へ、フレーリヒ中将はロイトキルヒへ前進し、後者は前衛部隊をヴルツァッハまで押し出してそこでいくつかの荷物と捕虜を奪いました。
 28日、ラ=トゥール将軍は2個縦隊でイラーからロッタムへ前進しました。右翼は彼自身が指揮し、左翼はメルカンタン中将が指揮しました。
 29日、ラ=トゥール将軍の軍団の前衛部隊(バイユ少将)は敵をビベラッハから追い出し、彼らをグロートへ追撃して激しい砲撃の後でそこを奪いました。クリンリング少将の3個歩兵大隊と4個騎兵大隊(メルカンタンとフレーリヒ将軍の中間部隊を構成している)はヴォルフゼークへ、フレーリヒ将軍はヴァンゲンへ前進しました。
 ドナウ右岸でこれらの作戦が進行している間、ナウエンドルフ少将は川の反対側をウルムからヘッキンゲンへと行軍し、メールフェルト少将麾下のいくつかの歩兵及び騎兵大隊からなる軍団に先行されたロトヴァイルとフィリンゲンに向かって前進中のペトラッシュ中将とすぐに協力体制に入ろうとしました。
 これらの動きにより、オーストリア軍はシュヴァルツヴァルト山地の最も高い地域の主になりました。この山地はドナウの水源があるほか、同様に西方ライン河へと流れ込む支流の水源でもあり、それはこれらの山地からブリスガウへ降りる唯一の通路を構成していました。それゆえにモロー将軍は今や、フライブルクからブリスガウへ降るヴァル=ダンフェルを確保するためペトラッシュ将軍とナウエンドルフ将軍を攻撃するという危険な作戦を試みるか、あるいは森の町々とスイス領を経由して退却する以外の選択肢を失いました。その時ラ=トゥール将軍に密接して追撃されているのに気づいた彼は、後者を食い止めることを試みるための積極的な攻撃によって時間を稼ぎ、大きな損害を出さずに退却しようと決断しました。かくして先月30日、ラ=トゥールとメルカンタン将軍の縦隊の前衛部隊がシュッセンリートへ行軍している時、彼らはシュタインハウゼンの近くでモローの軍の3個師団以上から攻撃を受けました。執拗な交戦が行われましたが、ラ=トゥール将軍が全軍団とともに前衛部隊を支援すべく前進したため、敵はとても多くの損害とともに撃退され、オーストリア軍はその陣地を保持しました。
 コンデ公の軍団の分遣隊で構成され、ダンギャン公が指揮するメルカンタン将軍の縦隊の前衛部隊が主に戦闘で損害を蒙りました。殿下の行為はとても目覚しく、彼の全軍団は非常に勇敢でした。
 オーストリア軍の損害は約600人にのぼり、うち420人はダンギャン公の軍団でした。
 スパイの連絡によると、モロー将軍は軍の一部に武器を持たせずにスイスを通過させ始めたようです。
 大公殿下は今月3日にシュヴェッツィンゲンからグラーベンへ、4日にカールスルーエに、昨日はこの場所に行軍しました。
 少将リヒテンシュタイン公は今月2日にマンハイムでラインを渡り、敵が多くの時間と労力を費やして防御陣地を築いたゲルメルスハイムの陣を確保しました。彼はこの強力な陣地を破壊し、敵が放棄したヴァイセンブルクまで分遣隊を送り出しました。
 クライ中将は20日に敵をノイヴィートから追い出しました。それ以来、マインとジークの間では何も具体的なことは起きていません。
 敬具
(サイン)ロバート・クロファード

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France" London Gazette, p105-106


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