アンストラザーの報告
9月10日



 皇弟殿下オーストリアのカール大公の司令部
 ヴィンデッケン、1796年9月10日

 閣下、
 オーストリア軍の進軍が輝かしく途切れることのない成功を記録し続けていることを喜んで閣下にお伝えします。
 5日にヴュルツブルク近くの宿営地を発した大公殿下はシュペッサート沿いのド=ブーシュを確保するためクライ中将麾下の強力な前衛部隊を押し出しました。6日午後にアシャッフェンブール近隣に到着したこの士官は、森からの通路で抵抗するため布陣した2000人の敵を発見しました。かなりの時間続いた激しい砲撃の後で彼は気迫をもって敵を攻撃し、彼らを有利な陣地から追い出し、町を通過して躊躇うことなく敵をいまだ追撃していた彼の騎兵が彼らをマイン河対岸にある森へと追い散らしました。この際の敵の損害は1000人以上に達し、うち600人は捕虜となりました。
 大公は7日、アシャッフェンブールに前進し、主力軍はそこで8日に足を止めましたが、前夜に敵がフランクフォルトを放棄したという情報を受け、前衛部隊は引き続いてキンツィヒとニッダへ押し出しました。
 9日、殿下はデッティンゲンへ、10日にはヴィンデッケンへ行軍しました。前衛軍団は重要なフリートベルクの地点を占拠しました。
 マヤンス守備隊から引き抜かれた1万人の兵がケーニヒシュタイン(8日に敵が放棄しました)へと前進しており、軍にとってとても不可欠な歩兵の増援となるでしょう。
 これらの素早く決定的な移動の結果は最も楽観的な期待すら超えるもので、敵の企図と努力を一様に挫くものでした。
 3日の戦闘後にフルダの方へ退却していたジュールダンは、大公に先んじて強力な陣であるベルゲンを得て、背後のフランクフォルト近くに残していた2個師団の増援を受けてオーストリア軍の進軍をしばらくの間妨害できるといまだに希望していました。この観点から彼は強行軍でフルダとハナウを結ぶ大街道上にあるシュルイティテルンに6日夕方、到着しました。しかし公[Duke]が既にアシャッフェンブールを得たのを知って彼はその試みを諦め、そして右へ転じてフォーゲルスベルクを渡ってヴェッツラーの方へと行軍し、そこで彼の軍の集結を図ろうとしていると報告されています。
 現在のフランス兵の状況と比して最も信頼できる情報から、彼らが最大限の混乱と落胆の状態にあることを敢えて閣下に確約することができます。多くの歩兵は武器を捨て、ほとんど裸の状態にあります。退却で彼らの外見上の秩序は完全に失われ、無秩序な壊走になっています。おそらく剣よりも過度の疲労の方がより彼らを破壊したようです。彼らが通過する土地における農民の一斉蜂起によるうち続く恐怖も彼らの間にパニックを広げ、彼らの士官の命令を聞かなくしています。ジュールダンがラーンから前進を始めて以来蒙った損害は大げさではなく2万人と推測され、その数は軍の現在の状況下では脱走によって日々増えているはずです。
 彼らがこの国にとどまっていた間のフランス兵の行為は堕落した場面によって示されており、それは人間性を引き下げるものでした。強盗と横領があらゆる階級と軍のあらゆる部門に蔓延していました。
 あらゆる種類の暴力が人々と個人の財産に振る舞われました。多くの村々が野蛮な行為をもたらすもっともらしい理屈すらないまま灰燼に帰しました。彼らの軍が通過した土地は全ての場所で最大限の荒廃と悲嘆の光景が示されました。
 敬具

 ロバート・アンストラザー
 第3近衛連隊大尉

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France" London Gazette, p91-92


――1796年ドイツ戦役史料集に戻る――