アンストラザーの報告
9月4日



 皇弟殿下オーストリアのカール大公の司令部
 ヴュルツブルク近くのツェル、1796年9月4日

 閣下、
 閣下はクロファード中佐とロバート・クロファード氏がしばらく作戦現場から遠ざからなければならない不運な状況について熟知していらっしゃいますでしょう。現在のように特に興味深い時期にこの紳士たちが不在なのは公務にとって損失であると悔やまれます。彼らの要請により私が今や閣下に軍の最近の出来事を伝えようと試みていますが、私自身代役を十分に務めきれているとは感じておりません。
 閣下は既に、その時点で軍の右翼がフォルヒハイムとバンベルク間の平地に集合し、スタライ中将麾下の20個歩兵大隊と50個騎兵大隊で構成される左翼がエベラッハに到着し、すぐに分遣隊によってシュヴァインフルトとヴュルツブルクの地点を脅かしていた先月31日までの大公殿下の動きは知らされています。
 31日早朝、大公はバンベルクに入城し、そこで得た敵の移動に関する情報から、ジュールダンにマイン河の線を放棄させフルダを通ってラーン川へ退却させる可能性がかかっているヴュルツブルク占領のため、全軍でヴュルツブルクへ押し出すことを決断しました。殿下は夕刻にはブルク=エベラッハまで進みました。クライ将軍はエルトマンに陣を敷き、スタライ将軍はクロスター=シュヴァルツァッハまで前進しました。
 9月1日、大公はオーベル=シュヴァルツァッハへ、クライ将軍はゲロルトスホーフェンへ行軍し、そしてスタライ将軍はキンツィンゲンへ行ってそこでマインを渡河しました。ホッツェ将軍麾下にある彼の前衛部隊はヴュルツブルクの町を占拠し、フランス軍守備隊は要塞の中へ退却しました。
 その間、敵はオーストリア軍主力がやって来る前にヴュルツブルクへ到着すべく全力を尽くしました。そして強行軍の結果、ホッツェ将軍が町を占拠した同日、町から3リーグ以内のコルナッハに到着しました。翌日(2日)ジュールダンは猛烈にスタライ将軍の軍団を攻撃しました。しかし、いくつかの彼の哨戒線を破るのに成功したものの、主戦線には何の影響も及ぼすことができず、夕方にはコルナッハ近くの宿営地に退却しました。彼はそこで会戦を甘受することを決断し、その観点から以下のように自ら布陣しました。
 右翼はヴュルツブルクから少し下流のマイン河まで延長し、とても見晴らしのいい高台に拠ってその正面は接近するのを極めて難しくしている深い川がありました。中央の第一線は連なる高地の麓をめぐる長く狭い森を占拠しており、第二線はその高地の稜線に布陣しました。ほぼ完全に騎兵で構成された左翼はコルナッハ前面の広大な平地に置かれましたが、森にいる歩兵からより効果的な支援を受けられるようかなり後退しました。多くの砲兵は前線に沿って最も重要なところに配分されました。フルダへの大街道を守るためシュヴァインフルトの背後にはルフェーブル師団が残され、小さな中間部隊が彼と軍との連絡を保っていました。
 殿下は2日、オーベル=シュヴァルツァッハの宿営地にとどまり、その間にデットルバッハ近くのマイン河に架橋が行われましたが、夕方遅くまで完成しませんでした。クライ将軍はゲロルツホーフェンにとどまりました。
 その間スタライ将軍は、ジュールダンの戦力といつもの行動から、彼がすぐヴェンスブルクを支配しようとする試みを再開するだろうと判断し、今の陣地で待ち構えるより彼に向かって前進するという勇敢な決断を下しました。大公はこの案を承諾し、3日早朝から敵に対する共同攻撃を実施することでその案の実行を促進することを決断しました。その意図によると、スタライ将軍は彼に対峙している軍団に向かって前進します。ヴァルテンスレーベン将軍麾下の主力部隊はデッテルバッハの橋を渡って敵の中央を攻撃し、その間にゲロルテホーフェンに最も近い地点で河を渡ったクライ将軍は敵の左翼を迂回することになっていました。
 それに従い夜明け直後にスタライ将軍は前進し、敵の前哨線を押し返しました。しかし残る2個縦隊はかなりの行軍をしなければならず、渡河に際して多くの予想しない遅延が生じたため、彼はすぐ自身が単独でとても多数の敵と交戦していることに気づき、獲得した地域を放棄することを余儀なくされただけでなく本来の陣地を維持するにも多大な困難を伴いました。この決定的な時点において、殿下はヴァルテンスレーベン将軍に彼の全騎兵とともに河を渡渉し、敵の左翼へ直接前進するよう命じました。彼の賢明な機動は望んだ効果をもたらしました。彼の陣地でもっとも重要な地点を脅かされていると感じたジュールダンは、スタライ将軍に圧力をかけていた右翼の兵を後退させ、かくしてスタライは自身の陣地を再建する時間を得ました。
 今や騎兵が敵の左翼に突撃し、彼らをその場から追い払いました。しかし敵は森の背後に退却し、オーストリア軍はマスケット銃と散弾に晒されたままとなり、彼らが得た優勢を放棄することを余儀なくされました。同じ局面での2度目の試みも同じ結末になりました。敵を平野に引き出そうとする無益な試みの後で、殿下はそれなしでは敵の陣地を押し通れないのが明らかだったヴァルテンスレーベン将軍の縦隊の残りが到着するのを待つことを決断しました。
 とうとうデッテルバッハから前進してきた歩兵が現れ、そして同時にスタライ将軍が前進し、敵の正面を守っている森に対する共同攻撃がすぐに実施されました。この目的のために8個擲弾兵大隊が秩序と猛烈さをもって前進しました。彼らを妨害する散兵の群れを気にもかけず、彼らは一発も撃たずに森を占拠し、数分で敵をそこからのみならずその背後の高地からも追い払いました。この優位と、右翼に現れたクライ将軍の縦隊がこの日の行方を決めました。ジュールダンは失った土地を取り返す試みをせず、あらゆる場所で退却を始めました。彼はしばらくの間秩序を持って行動しました。彼の騎兵はかなりの平静を失わず、軽砲兵の防御下で、繰り返しオーストリア軍の追撃を牽制しました。しかし、ユサールに継続的に妨害され、高地からの砲兵による驚異的な砲撃に圧倒されてとうとう混乱は全面的になりました。オーストリア軍の過重な疲労と、夜の到来のみが、彼らを完全な壊滅から救い出しました。
 この機におけるオーストリア軍の損害は最大で800人であり、その中には特筆すべき士官はいません。敵の損害はそれを遥かに上回ります。既に2000人の捕虜が連れてこられており、死傷者も少数にはとどまり得ません。軍旗1旒、大砲6門と多数の弾薬及び荷物車が勝者の手に落ちました。
 この機にオーストリア軍によって得られた成功は、主に大公殿下の個人的行動に帰するものとみなせます。最も危険が迫っているあらゆるところに現れ、彼は自らを手本として兵を元気づけ、その冷静さと素早い機動によって彼らの秩序を保ち、そして遂に莫大な判断とともに真に攻撃すべきところを見出し、勝利を決定づけました。
 軍は戦場で夜を過ごし、翌日には異なる場所でマインを渡り、近くで宿営しました。
 敬具

 (サイン)ロバート・アンストラザー
 第3近衛連隊大尉

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France" London Gazette, p87-89


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