ロンドン・ガゼットの記事
8月27日



 ドレスデン、8月27日

 カール大公とヴァルテンスレーベン将軍の連合軍がジュールダン将軍の軍に対しかなりの優勢を得たとの情報がこの地で得られた。
 これらの報告によると、ヴァルテンスレーベンはアンベルクを去った後でナープ川左岸へ退却し、彼の主力軍団はシュヴァルツェンフェルトの対岸に、他の2個軍団はナールブルクとシュヴァルドルフに向かい、彼がそこでとどまっている間にジュールダン将軍の軍は彼の近く川の対岸まで3個師団で前進し、その中央を彼自身が指揮していた。これは8月20日または21日頃の出来事だった。
 大公の軍はドナウェルトを放棄した後でレッヒ川の背後へ退却し、ドナウとの合流点近くに強力な陣を敷いた。しかし、ヴァルテンスレーベン将軍と対峙したジュールダン将軍の大軍が孤立していること、シャンピオネ将軍麾下にある他のフランス軍師団がラティスボンへ前進していることを理解した殿下は、モロー将軍を見張るため強力な軍団をレッヒの背後に残した後で、残る部隊(約4万人)とともにドナウに沿って行軍し17日か18日頃にインゴルシュタットでその河を渡った。そこから彼はディートフルトを経由してタイニングへ前進し、そこでシャンピオネ師団の前哨線と遭遇し、これを撃退してアンベルク街道上のカステルまで追撃した。この時までにジュールダン将軍は警告を受け取り、彼の兵をアンベルクへ呼び戻し、彼が退却するのとつりあうようにヴァルテンスレーベン将軍が前進した。ジュールダン将軍はアンベルクとスルツバッハ間に彼の軍を並べ、その後で起きた戦いでオーストリア軍は勝利した。この機におけるフランス軍の損害は5000人が戦死、2000人が30門の大砲とともに捕虜になったと見られる。オーストリア軍の全軍が交戦したわけではなく、多くの軍団が同時にフルスプルーフ、ラウフ、そしてニュレムベルクへ派出され、オーストリア軍がその都市を占拠した。

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France" London Gazette, p79


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