モローの報告
8月13日



 司令官モローより総裁へ、アミエンズの司令部にて、共和国暦4年熱月26日[1796年8月13日]。

 市民総裁殿、
 21日、我々はネレスハイムにある敵の陣地を攻撃し、押し返されました。約450人の捕虜を得ました。
 22日、我々は軍を配置するため偵察を行いました。地形はとても困難で全く知られていませんでした。
 23日、我々は前衛部隊を攻撃し、これを打ち破りました。敵の損害は捕虜約450人でした。恐ろしい荒らしと夜のため、我々の成功を押し進めることは妨げられました。
 24日、ガリシア及びオーストリア国内からの全増援を受け取ったカール大公は、全戦線にわたって我々を攻撃してきました。我々の右側面部隊は押し返され、敵はハイデンハイムまで来て、そこにいた幕僚本部はケーニヒスブロンまで後退しました。かくして我々は背後4リューの場所に敵を抱えることになりましたが、この移動は我々を全く動揺させませんでした。
 我々の前衛部隊もまた押し戻されましたが、予備部隊が到着し、先導して戦況を回復しました。
 敵の主攻撃は我々の右翼に向けられました。サン=シール将軍は完全に圧倒されながらも偉大な真価を発揮してその陣地を守りました。
 左翼の右側もまた大軍に攻撃されました。地形を利して我々はまた攻勢に出ることができ、ドゼー将軍は敵を精力的に攻撃して押し返し200人の捕虜を得ました。
 2つの攻撃の間に位置していた予備騎兵は敵を食い止め、我らの両翼の間に突入するのを妨げました。
 両軍は17時間に及ぶ執拗な戦闘の後、戦場に野営しました。夜明けに敵は退却しました。
 攻撃すれば成功は確実でした。しかし我々の弾薬護送部隊が司令部の退却によって足止めされたため、敢えて戦闘を試みるのは不可能でした。なぜなら弾薬不足のため我々は2時間以上の戦闘に耐えられそうになかったからです。加えて我々の右側面部隊が元の陣地に戻ることも必要でした。敵の前衛部隊は非常に上手く配置されていました。もし彼らが1日前の布陣を続けていたなら、私はきょう彼らを攻撃したでしょう。しかし彼らはヴェルニッツの背後に後退し、おそらくドナウを渡るでしょう。我々の軽兵は敵を追撃しており、既にノルトリンゲンに達しています。軍もその後に追随します。
 敵が我々の背後に来たため、あらゆる場所で警告が発せられたであろうと確信したことについて、あなた方に手紙を送りました。軍の勇気と様々な攻撃を率いた士官たちの才能を輝かせたこれら3つの戦闘に関する詳細もあなた方に送りますが、現時点では不可能です。というのも6日もの間、我々はほとんど下馬すらしていないからです。
 軍は疲労困憊していますが、勝利がそのつらさを忘れさせてくれます。敵の損害は戦死、負傷及び捕虜合わせて7000人に達しました。
 我々の兵がベルゲンス[ブレゲンツ]に入城したというフェリーノ将軍からの報告を、ちょうど今受け取りました。迫撃砲3門、榴弾砲1門、カルバリン砲2門、カノン砲12門、30から40艘のボート、及び約4万袋のカラスムギ、大麦、小麦粉をそこで手に入れました。
 疲労と睡眠不足で疲れきっています。今、イタリア方面軍の興味深い勝利について知ったところです。
 敬具。

 司令官、署名 モロー。

google book "Réimpression de l'ancien Moniteur, Tome Vingt-Huitième." p393-394


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