C・クロファードの報告
8月12日



 皇弟殿下オーストリアのカール大公の司令部
 メッティンゲン、1796年8月12日

 閣下、
 大公は今月9日に主力軍とともにノルトリンゲンから行軍し、ノルトリンゲンとオッティンゲンからドナウェルトへの道路をより効果的に守る目的で、エガー川を横切って陣を敷き、右翼をアラースハイムに、中央をメッティンゲンの地点に置いてそこに司令部を定め、左翼はホーエンアルトハイムを占めたことを閣下に謹んでお知らせします。
 ネレスハイムに布陣したホッツェ将軍麾下の軍団は、今やディリンゲン近くに宿営しているリーゼ将軍麾下のドナウ左岸の部隊と直接の連絡を維持するため、既にフォルスハイムとアウフハウゼンに後退しました。その間ヴァルテンスレーベン将軍はレートニッツ川沿いのフォルヒハイムへ、そこからペークニッツ川のラウフへ移動しました。フレーリヒ将軍、コンデ公、そしてヴォルフ将軍は私が4日に出した手紙で触れたのとほぼ同じ場所にとどまりました。
 敵は8日、ホッツェとリーゼ将軍のオーストリア前衛部隊を攻撃しました。しかし、前者の将軍は優れた手腕と堅固さを示し、どうにか僅かな陣地のみを失ったので、翌日命じられた陣地の変更も妨げられることなく実行できました。そして後者は、より有利な状況にあったため、彼に対する攻撃を完全に撃退しました。
 9日夜、コンデ公がミンデル川沿いのミンデンハイムへ、そしてヴォルフ将軍はブレゲンツの隘路へ退却を余儀なくされたとの情報が入りました。しかし後者はその場所で敵の機動を牽制できるような陣を自ら敷きました。ヴァルテンスレーベン将軍もまた、彼の陣地はあまりに悪いのでジュールダン将軍が最近の動きから企てているように思われる攻撃を待つのは極めて軽率だと報告してきました。そして同日、モロー将軍は殿下の長大な戦線の中央前面に大軍とともに到着し、左翼をウメンハイムの高地に、中央をカッツェンシュタインの地点に、右翼をドゥンステルキンゲンとディッシンゲンの丘に配置し、側面を守るための軍団をドナウ沿いのラニンゲンに布陣させました。彼の予備はネレスハイムとケーニヒスブロンの間にありました。
 10日、敵は第一線の強力な部隊を前面にある森へと前進させ、そこに頑強な陣を敷きました。同日夕、6時頃、彼らはホッツェ将軍の左翼にあたるエグリンゲンとアメルディンゲンを猛烈に攻撃しました。彼らは前哨線を追い払うのに成功しましたが、左翼陣地には何の影響も及ぼさず、殿下が翌朝行おうと意図していた攻撃を妨げることもありませんでした。攻撃の配置は以下に述べるようなものでした。
 スタライ将軍の小さな軍団に支援されたリヒテンシュタイン公ヨハンの前衛部隊はメッティンゲンの宿営からノルトリンゲンとネレスハイムへ通じる道路に沿って行軍し、敵の左側面へ機動することで彼らをウメンハイムの高地から追い払うよう試みます。主力部隊の残りはフォレハイム、アウフハウゼン、アメルディンゲンに集結し、そこから3つの縦隊で行軍します。右翼はホッツェ将軍麾下、中央はフュルステンベルク公麾下、そして左翼はラ=トゥール将軍麾下にあって敵の中央と右翼を攻撃し、その間フレーリヒ将軍の軍団の一部に増援されたリーゼ将軍は敵をラニンゲン近郊から追い払い、モローの陣地の背後を突くべくギーンゲンとハイデンハイムへ行軍します。後者の移動はその右翼を、リーゼ将軍と主力軍との連絡を保つために置かれるメルカンタン将軍麾下の小さな中継部隊によって守られます。敵の数が圧倒的に優勢なため、攻撃は奇襲によるものと定められ、その目的のために行軍の準備がなされ、縦隊は異なる場所で組まれ、彼らはそこから夜明けの直前に前進しすぐに進軍しました。しかし数時間続いたとても激しい嵐のため夜間は極めて暗く、道がとても悪かったため兵と砲兵は他の場合なら移動にかかったであろう時間の2倍以上を費やし、かくして攻撃は7時まで延期しなければなりませんでした。このため敵は作戦全てを見通し、防御の準備をすることができました。
 奇襲による本当の優位を大公から奪った不運な状況にもかかわらず、殿下は決意をもってやり抜きました。中央の3個縦隊は敵の前衛部隊を森から取り除くのに成功し、彼らを主戦線の高地まで追い払いました。しかしウメンハイムへ行軍していた縦隊は、戦闘が始まるや否や前進していたモロー将軍の予備によってその側面を突かれ、退却を余儀なくされました。このためホッツェ将軍の右翼はがら空きとなり、彼もまたその日の朝に行軍を始めたフォレハイムの地点まで後退しました。しかしフュルステンベルク公とラ=トゥール将軍は優勢を維持しました。大公が右翼を再び前進させるための配置と増援を成し遂げたちょうどその時、彼はヴァルテンスレーベン将軍からアンベルクへの退却を余儀なくされたという内容の報告を受け取りました。ジュールダン将軍の縦隊はすぐにモロー将軍と協力する目的で既にニュレムベルクに到着していました。今や殿下は、たとえこの地点で勝利したとしてもなお、敵が彼の右翼で行っている移動によって多分ドナウェルトへの退却を強いられるだろうし、そしてもし不運にも敗北するようなことになれば、同様の理由からその結果はとても破滅的になるだろうと判断しました。そこで彼は攻撃を中止し、戦場の主要な場所を確保していることで満足しました。しかしながらリーゼ将軍が最も楽観的な希望を達成するのに成功し、午後4時頃にはハイデンハイム近くまで前進していただけに、この決断はとても不本意なものでした。
 オーストリア軍はこの機に1300から1500人を失いました。フランス軍の死傷者は2000以上と推計され、それ以外に既に1200人以上の捕虜と4門の大砲、いくつかの弾薬車が運ばれてきました。
 今朝、殿下の全軍は10日と全く同じ陣を占めています。
 敬具

 C・クロファード
 グレンヴィル閣下殿

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France" London Gazette, p76-77


――1796年ドイツ戦役史料集に戻る――