C・クロファードの報告
8月4日



 皇弟殿下オーストリアのカール大公の司令部
 ノルトリンゲン、1796年8月4日

 閣下、
 大公殿下が7月26日にゲムントから行軍し、彼の主力軍の一部とボーメンキルヒェンで、残りはウルシュプリンゲンで宿営したことを閣下に謹んでお知らせします。フレーリヒ将軍はドナウ南岸のヴァルトゼー近くに、コンデ公はラーフェンスプルク近くに、そしてヴォルフ将軍の軍団はブレゲンツにいました。シュヴァーベン兵はいまだ休戦締結に伴って退却したビーベラッハにとどまっていました。ヴァルテンスレーベン将軍はバンベルク近くの陣を保持し、大公と連絡をとる目的でニュレムベルクとアンスパッハ間に軽兵の小さな部隊を配置していました。29日、フレーリヒ将軍は大公からの命令に従ってビーベラッハへ行軍し、シュヴァーベン軍団を包囲し武装解除し、彼らをすぐに散り散りにさせ、作戦線の背後に退却しました。その後で彼は近くに陣を敷き、コンデ公はラーフェンスプルク近くに前衛部隊を残してヴァルトゼーへ行軍しました。26日から30日までいくつかの小競り合いが前哨線の間で生じました。その全てにおいてオーストリア軍は優位にありました。またユサールの分遣隊がブランボイレンとガイスレンゲン間のホーエンシュタット近くでフランス軍の大規模な偵察部隊を奇襲し、その部隊は全員殺されるか捕虜になりました。
 31日、ドナウ沿いの補給拠点が安全な状態にあることと、敵が大公の右翼に対し機動を始めたのを受け、殿下は彼の主力部隊を集結させることを決断しました。そこで彼は8月1日に主力軍とともにハイデンハイムへ、2日にはネレスハイムへ、そして3日にはノルトリンゲンへ移動し、派出された軍団もこの行軍を援護するように次第に退却しました。
 殿下の現在の主な部隊配置は以下の通りです。主力軍はノルトリンゲンにあり、その前衛部隊はネレスハイムに、2つの小さな軍団をボッペンゲンとヴァイルティンゲンから通じる道路を見張るためその近くに、左翼を守る目的のために、そしてフレーリヒ将軍とコンデ公(うち前者はボト川沿いのヴァイセンボルンに、後者はメミンゲンにあり、その前衛部隊はヴルツァッハにいる)との連絡を維持するために有力な軍団をグンデルフィンゲンに置きました。
 敵はケーニヒシュタインへ水を運び込む通路を発見し、補給を遮断して、約500人から成る守備隊に降伏を強いました。兵は武器と荷物とともに要塞を出て、捕虜交換まで戦争に参加しない条件で皇帝の領地へ戻りました。
 敬具

 C・クロファード

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France" London Gazette, p69-70


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