C・クロファードの報告
7月24日



 皇弟殿下オーストリアのカール大公の司令部
 ゲムント、1796年7月24日

 閣下、
 エスリンゲンにいる軍団を除去し、シュトゥットガルトからウルムへの大街道を支配しようとする敵の意図に関する情報を得た大公殿下が20日夜、その重要な拠点を増援し、積極的な防衛のため必要な配置をしたことを閣下に謹んでお知らせします。
 21日、敵は右翼とフェルバッハの宿営地前面の全戦線でいくつかの陽動を行い、その間に極めて優勢な戦力でエスリンゲンの高地に対して行軍しました。そこでの彼らの攻撃は午前7時頃に始まりました。そして5時間に及ぶ失敗した努力の後で、彼らはシュトゥットガルト近くのホーエンハイムへと退却を余儀なくされました。
 この陣地を守った手腕と、騎兵も砲兵も効率的に行動できない障害物が交差し森がちな土地で繰り返された激しい攻撃を撃退した際に示された活力は、いずれも指揮を執ったホッツェ将軍と彼の命令を実行した勇敢な兵たちにとって同様に名誉となるものでした。この日の法外な暑さと、全員ずっと武器を取り、大半はそれに先立つ夜の間ずっと行軍していたことにより経験していた多大な疲労も、彼らが最も勇敢に倍近い数の敵を相手に勝利が賞賛すべき行動に報いた8時まで戦うことを妨げませんでした。私は大いなる称賛の分け前に値するこれらの勇敢な兵たちの実績に差をつける意図は少しばかりもありませんが、しかしスプレニーのハンガリー連隊第1大隊がこの戦闘の開始から交代することなく戦ったことと、彼らが300から400人を失ったにもかかわらず夜が彼らの卓越した活動を終わらせるまで戦場にとどまったことについて述べざるを得ません。この出来事は軍の中でとても多く話されているので、私はこの件を沈黙のまま看過することはできないと感じています。
 この日のオーストリア軍全体の損害は、数人の士官を含む約1000人でした。逃亡兵と捕虜の報告から可能な最良の推計によると、敵の損害は2000人近くに達しました。
 20日夜、大公はショルンドルフへ行軍し、24日にこの場へ来ました。
 敬具

 C・クロファード

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France" London Gazette, p69


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