C・クロファードの報告
7月11日



 皇弟殿下オーストリアのカール大公の司令部
 プフォルツハイム近くのアイゼンゲン、1796年7月11日

 殿下の軍を増援するためグラーベンから前進しているザクセン軍がプフォルツハイムに到着する時間を与えるべく、今月7、8日に大公がエトリンゲンの陣にとどまったことを閣下に謹んでお知らせします。また、左翼を守るためカイム将軍麾下で山岳部へ派遣された軍団は、フラヴェン=アルプに主力を布陣するよう命じられました。
 ザクセン軍は7日夜にプフォルツハイムに到着しました。8日、ムルク川沿いのラシュタット、クペンハイム、ゲルツバッハに布陣するモロー将軍を10日に攻撃するための配置がなされ、そして9日、翌朝前進をはじめる色々な場所に兵士を配置につかせるための準備行動が実施されている間に、敵はその軍の一部で大公の前哨線を後退させ、その主力はカイム将軍を攻撃しました。殿下はすぐに前哨線を支援し、その右翼と全戦線で勝利を得ました。しかしカイム将軍は最も頑強な抵抗の後で、数の優位を前に後退を余儀なくされ、プフォルツハイムへ退却しました。将軍の左翼を守るため行軍していたザクセン軍も同じ行動を採りました。そしてこの不運な状況により大公の左翼側の山岳部の全峠が敵の手に渡ったため、殿下は10日、彼の主力軍とともにプフォルツハイムへ行軍することが必要になり、今ではそこに宿営しています。
 この機に大公は約1600人の兵と大砲4門を失いました。フランス軍の損失は正確には確定されていませんが、かなりの数になる筈です。
 大いに勇敢に振る舞ったコンデ公の軍団は、そこからの連絡が届いた最も最新の日付である8日の時点ではフィリンゲンにいました。オーストリアのフレーリヒ将軍はいまだにブリスガウにとどまっています。
 敵はラーン川を渡り、国土のその方面を守るために残された軍は適切な守備隊をマヤンス[マインツ]とエーレンブライトシュタインに投じたうえでベルゲンの陣地へと退却しました。

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France" London Gazette, p60-61


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