C・クロファードの報告
7月6日



 皇弟殿下オーストリアのカール大公の司令部
 エトリンゲン近くのリーベルク、1796年7月6日

 閣下、
 大公殿下が今月3日、モロー将軍に対して行軍させている兵をグラーベン近くに集めたことを閣下に謹んでお知らせします。4日にはカールスルーエ近くのムールベルクへ、5日にはシュヴァルツヴァルトから流れ出てラシュタットから約1リーグの場所でラインに流れ込んでいるムルク川へ向かいました。
 4日、それまでブールとシュトルホーフェンを占拠していたド=ラ=トゥール将軍の前哨線がムルクまで後退を強いられ、そして5日にはラインに近いムルク峡谷のオデナンから圧倒的に優勢な戦力で攻撃してきた敵に対して何時間も抵抗した後で、その川を再渡河しました。同日夕、ヴィルテンベルク[ヴュルテンベルク]兵とシュヴァーベン・クライス派遣部隊の一部がシュヴァルツヴァルトの山地にあるフリーデンシュタット峠を放棄し、そこを確保することにより敵は大公の左翼に対して機動し、殿下と、フレーリヒ将軍麾下でブリスガウに布陣するコンデ公の軍とオーストリア軍団との連絡線を遮断し、同時にヴィルテンベルク公国とフィリンゲン及びロトヴァイルにあるオーストリア軍の補給拠点への道を開くことが可能になりました。
 そこから想定される結末から見て極めて重要で、またフリーデンシュタット峠を守っていた陣地がほとんど攻撃不可能だと思われ、実際にそうであった点からも予想外であったこの状況は、6日に殿下をしてエトリンゲンへの退却と、側面を守るため、及びシュヴァーベン兵が退却した後にブリスガウに残っていれば右翼とさらには背後まで脅かされるに違いないためフィリンゲンへの後退を強いられるであろうコンデ公とフレーリヒ将軍との連絡を再開するために左翼の山地に強力な軍団を派遣することを余儀なくさせました。
 敵の下ラインへの前進も無視できないものです。直近の報告によるとジュールダン将軍はノイヴィートでラインを渡った彼の軍の一部とともにラーンへ行軍しているそうです。残りの部隊で彼はディリングブルクから約4リーグの場所にあるノイキルヒェンに布陣するオーストリア軍団に対して機動しています。ライン沿いのオーストリア軍は6月初旬にイタリアへの大軍派遣を余儀なくされたことにより、あらゆる方面で同時に行われる敵の前進に効果的に対応するにはあまりにも大幅に弱体化しているため、彼がすぐマインへ前進するのも決して不可能ではありません。

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France" London Gazette, p58-59


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