C・クロファードの報告
6月20日



 皇弟殿下オーストリアのカール大公の司令部
 ハッケンブルク、1796年6月20日

 クライ将軍麾下にある大公殿下の前衛軍団が昨日朝、夜明けとともに、敵の軍の一部を追って進軍したことを謹んでお知らせします。クレベール麾下のその敵はアルテンキルヒェンで合流した後にジーク川沿いのジークブルクへ退却しており、そこからケルンとデュッセルドルフへ向かうつもりです。
 クレベール将軍はその日、彼の予備と弾薬、そして荷物がジーク川を渡る時間を与えるために、ジークブルクへの主要街道上、キルペンとウケラトの間にある高地の上で足を止める必要がありました。そこで彼は、約2万4000人の兵を展開する余裕があるこの高地に極めて有利な陣を占めました。彼の両翼はその側面に至るまで極めて少ない場所でしか渡れない2つの深い峡谷で守られていました。彼の中央に対する接近路は約300ヤードの広さで、この地とキルペンの高地をつなぐ稜線上にあり、上に述べた2つの峡谷はここに水源を発していました。キルペンの村には、敵が布陣しているものと平行に走っているもう一つの有利な高地がありました。その右翼は(ウケラトの方に向かって)深い峡谷で終わっており、その左翼は敵の中央に向かい合った平地につながっていました。この平地は左側で敵の右翼を守っている峡谷まで広がっている小さな森が境界となっており、敵中央への接近路をその右側に残しています。この森から長い範囲に渡って、2つの村といくつかの散らばった家々が混在した囲い地と小さな雑木林が敵の右翼側の方角へ平行に伸び、キルペンの丘とほぼ同じ線まで達していました。
 キルペンのアルテンキルヒェン側には、キルペンから約700ヤードの場所に3ヶ所目の高地があり、それは私がちょうど描写した他の高地と正確に同じ方向を向いていました。その右翼は深い峡谷に守られ、中央と左翼は、キルペンと上に述べた小さな村々や囲い地との境界線にある平地へ、ゆっくりと下っています。
 クライ将軍の軍団は約1万1000人で構成されていました。即ち軽騎兵32個大隊、擲弾兵2個大隊、燧石銃兵6個大隊、スラヴォニア軽歩兵2個大隊、ライフル銃兵部隊とそれに比例した数の重砲兵及び騎馬砲兵がいました。  オーストリアのユサールはヴァイエルブッシュ村の敵に対して大勢の偵察部隊で襲い掛かり、彼らをキルペンまで追い払いました。そこで彼らはクレベール将軍の哨戒線と接触し、すぐにそれを彼らの陣地まで押し返し、そしてスラヴォニア軽歩兵1個大隊とワルーン歩兵1個大隊、いくつかの軽騎兵大隊、そしていくつかの騎馬砲兵で構成されているクライ将軍の前衛部隊はキルペンの高地で隊列を組みました。
 簡単にクライ将軍の戦力を知ることができたクレベール将軍は、すぐに彼の右翼にある歩兵の一部で攻撃することを決意し、キルペンの丘の下にある平地の境界にあたる森に前進し、そこから両者の陣地の間に広がっている囲い地と村々へ入り込みましだ。その側面の騎兵は歩兵の背後に進軍し、後者(即ち歩兵)が平地の端に沿って陣を敷くや否や前進してクライ将軍の左翼を攻撃する準備を整えました。左翼の歩兵の小さな一部は、クライ将軍がそこから部隊を派出するのを妨げるため峡谷を越えてクライの右翼へ前進しました。クレベールの騎兵主力は歩兵9個大隊と重砲兵の大半に支援されながらその中央からキルペンの高地に対して進軍しました。キルペン近くに位置していたオーストリア騎兵は、フランス騎兵が上に述べた稜線の先頭で隊列を組んでいる時に彼らを攻撃しましたが、一部には左側面の森から受けた射撃により、そして一部には敵の数の優位によって、撃退されました。
 しかしワルーン兵大隊とスラヴォニア軽歩兵は陣を維持し、騎兵は彼らの援護下で再編し、その状況で前衛部隊は敵の攻撃を待ちました。隊列を組み終わるや否やフランス騎兵はキルペンの高地に向かって前進し、歩兵の一部に支援されてオーストリア騎兵、スラヴォニア大隊、そして砲兵を追い払い、彼らは全て後方の防衛線の背後に退却しました。ブレイディ大佐麾下のワルーン兵大隊は頑強に抵抗し、繰り返し連携して彼らに対して行われた攻撃を撃退し、そしてとうとう敵に囲まれたのに気づき、村を通り抜けて防衛線への退却を始めました。退却に成功したその行為は並ぶものはあっても超えることはない勇気と規律の例として代表されるに相応しいものでした。フランス軍は今やキルペンの村と高地を支配していました。彼らの右翼は囲い地の端と平地の境にある村に拠っており、その左翼はキルペンからオーストリア軍と平行に伸びており、オーストリア軍の右翼は既に遠距離からの銃撃により交戦していました。
 クライ将軍は彼の前衛部隊を中央の背後で予備として再び隊列を組ませ、自らは陣地にとどまり今や敵が彼に対して行おうと準備している恐ろしい攻撃に備えました。
 クレベール将軍はキルペンの高地に大量の砲兵を持ち込み、主に2つの攻撃部隊を組みました。一つは右翼を歩兵に支援された2列の騎兵で、クライ将軍の左翼に対峙しており、もう一つは中央に対峙した騎兵の大軍に支援された歩兵9個大隊で、その間左翼はオーストリア軍右翼を牽制するのに十分なだけ前進しました。
 敵は今やクライ将軍の左翼を攻撃し、大きな数の優位を生かして側面を突く機会を得た敵の騎兵がそれを破りました。しかし歩兵の左翼にある高地を占拠していた歩兵大隊と砲兵隊が彼らの正面に突撃し、フランス騎兵の側面にとても激しい砲撃を続けることで、その追撃を阻止しました。オーストリア騎兵はこの有能な機動に守られて再編し、到着したばかりのザクセン騎兵4個大隊に支援されて突撃に戻り、フランス軍を彼らが前進してきた村々と隘路に追い払い、この方面の戦闘を決着させました。
 この戦闘の間、キルペンで隊列を組んだ歩兵9個大隊と騎兵は、最も恐ろしい砲撃に支援されながらオーストリア軍の中央に対して前進しました。この地点は第一線を歩兵3個大隊といくつかの騎兵大隊が占めており、前に述べたようにキルペン放棄を強いられた前衛部隊が第二線を構成していました。この最も勇ましい兵たちは大砲を除いて射撃することなくフランス軍が100歩以内に近づくのを許しました。そして第一線の歩兵が一斉射撃を行い、そして銃剣突撃をしました。この決定的な行動は望んだ効果を生み出しました。フランス軍は退却し、クライ将軍の騎兵は彼らを村まで追撃し、最後にオーストリア軍が勝利を得ました。しかし彼らは、特に敵の敗れた兵が強力な予備から攻撃され、またその右翼が戦闘の開始時点で占拠した村々や囲い地にとどまっていた状況だったため、他の局面であれば実施していたであろうやり方でこの勝利から利益を得るには十分な戦力を持ちあわせていませんでした。かくしてクライ将軍は敵にキルペン高地の放棄を強いただけて満足することを余儀なくされました。夕方にはクレベール将軍はその右翼を元の陣地に戻しました。しかしオーストリア軍の右翼を迂回するため前進した彼の最左翼の歩兵大隊は、完全に孤立しました。
 閣下、ヴェッツラーで15日に行われたものより争いの目的はそれほど大きくなく、重要性は少ないものの、特にフランス軍がオーストリア軍の倍以上いたことを考えるなら、同様に輝かしいものと見なしても正当であろう戦闘はかくして終わりました。
 クライ将軍は500人から600人を失いました。敵は700人以上を捕虜とし、数百人の死者を戦場に残し、あらゆる報告によると多数の負傷者を出しました。
 クレベール将軍は昨晩、暗くなるや否やジークブルクでジーク川を渡って退却し、そこからデュッセルドルフへ行軍しました。ジュールダン将軍は残り全軍とともに、ノイヴィートでライン河を再渡河しました。

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France" London Gazette, p27-29


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