C・クロファードの報告
6月18日



 皇弟殿下オーストリアのカール大公の司令部
 ハッケンブルク、1796年6月18日

 大公の司令部がホッホハイムからシュヴァルバッハへ移ったことを閣下に謹んでお知らせします。今月11日にはケーニヒシュタイン近くに、12日にはヘッセ=ホンブルクに、13日にはグレッフィン=ヴィスバッハへ移動し、14日もそこにとどまりました。その日、殿下はブラウンフェルスとライン河間のラーン川防衛に必要な手配を完了しました。防衛線は主にリンブルクに布陣した大きな部隊と、ナッサウとヴァイルブルク近くにいる他のより少数の2部隊から構成されています。14日、ヴェルネック中将麾下のかなりの部隊がヴェッツラーに、そしてザクセン軍がヴェッツラー南方のブッツバッハに到着しました。同日、クライ将軍麾下のもう一つの強力な縦隊がブラウンフェルス近くへと行軍し、パルチザンの部隊がラーンを渡ってギーセンとディーレ川のヘルブロン間にあるケーニヒスベルクへ押し出しました。
 ディーレ川は敵の防衛線の左側面を構成し、その右翼はライン河によって守られています。ディーレ川右岸の丘陵は極めて険しく、森がちで、接近するのが難しいので、敵にとってそこを占拠するのは重要です。しかし殊のほか大切なのはその川沿いのヘルマンシュタインとラーン川のアルテンブルク間に布陣することで、そうするとオーストリア軍はヴェッツラーで渡河することが完全に妨げられ、ギーセンを経由してヘルボルンとディーレンブルクへ機動することを強いられます。
 大公はヴェルネック将軍に対し、前哨線は14日に、彼の全軍団は15日にヴェッツラーでラーンとディーレを渡河するよう命じました。この機動を支援するためザクセン軍は同日ヴェッツラーへ前進し、クライ将軍はラーン川のブラウンフェルスとロイン間の高地を占拠するよう命じられました。フランスのル=フェーヴル将軍は同時期、大規模な軍団とともに同じ目標に向けて進軍していました。彼の縦隊の先頭はヴェルネック将軍の前衛部隊を攻撃し、彼らはとても長く最も頑強な抵抗の末に数の圧倒的な優位の前に後退を強いられました。そして敵は上に触れた場所を占拠し、その右翼をラーンに、左翼をディーレに置いて、丘陵の麓で川をすぐ背後にしながらも再編して頑強に抵抗するオーストリア軍に対し厳しい砲撃を始めました。ちょうど前衛部隊が退却している時に到着した大公殿下は、ザクセン軍と、特にその騎兵に対して、可能な限りの機敏さで前進するべく行軍速度を上げるよう命じました。同様に殿下は、ラーン左岸に予備としてとどまっていたヴェルネック将軍の軍団の一部に彼らの前衛部隊と合流するよう、また両側面を守るため彼らが当初布陣していたように、左翼のアルテンブルク対岸と、右翼のヘルマンシュタイン近くのアスラーに分遣隊を残すよう命じました。この最も決定的な場所に殿下はとどまり、敵の砲撃に対して12ポンド砲の砲列で答え、ザクセン軍縦隊の先頭がヴェッツラーを通過するや否や攻撃することを決断しました。
 ル=フェーヴル将軍が占める陣地は高地が連なっており、その正面は荒れた土地で接近が難しいものでした。これらの高地の正面には飛び出した場所に木があり、そこが彼の防衛線の突角部を構成していました。陣地の中央にあるこの木から左右両翼へ、ラーンとディーレ川まで戦線が延びていました。
 この突角部は歩兵によって強力に占拠されており、アルテンベルクの丘と村も同様でした。ヘルマンシュタイン上方の丘には騎兵の主力が列を組み、その背後にある森に布陣した歩兵が彼らを支援していました。砲兵は戦線正面をなぎ払うのに最も好都合な場所に配置されました。この陣形でル=フェーヴル将軍は彼の軍団の残りが到着するのを待ちました。もし大公の攻撃前にそれが到着したら、オーストリア軍はヴェッツラーでラーンを渡って退却しなければならなかったでしょう。この状況に完全に気づいていた殿下は、ザクセン騎兵が到着したら一瞬も遅らせることなく攻撃することを決断しました。午後7時までこうしたことは生じず、そして大雑把に以下のような配置が行われました。ナッサウ騎兵に支援されたオーストリアのカラシー連隊の3個大隊は左翼へ突撃し、ザクセン騎兵はヘルマンシュタイン上方の高地正面へ、その間オーストリア擲弾兵は森にいる敵の中央を攻撃し、左翼は防御することになりました。カラシー連隊は窪んだ道と峡谷を通って前進し、高地の頂上にたどり着いたところで、彼らに永遠の名誉を与えるに違いない程度の大胆さで敵に突撃しました。しかし地面の極端な悪さゆえに彼らの隊列が酷く崩れていたうえ、フランス騎兵の方が数が多く彼らを迎え撃つべくきちんと整列していたため、彼らは撃退されました。その間、ナッサウ連隊は山頂に到達し、隊列を組みました。彼らはそこでカラシー連隊を迎え、カラシー連隊はその防衛下で再編し、ナッサウ連隊の一部を側面に、一部を第二線に置いて再び敵に突撃し、いつも起きるような衝撃の後に勝利を得ました。
 これはザクセン騎兵が攻撃地点に到達する以前に、そして擲弾兵が森にたどり着く前に生じました。そして、側面を突かれとても活発に追撃されていることを知った敵は退却しました。彼らの第一線は大慌てで中央の突角部を放棄し、分遣されていた騎兵は混乱しながら彼らの歩兵の背後にある森の中に逃げ込みました。カラシーとナッサウ連隊の一部は彼らを追撃し、ヴェッツラーからグライセンシュタインへ通じる道路が森に入るところに布陣していた歩兵大隊を寸断し、いくつかの大砲を奪いました。しかし追撃をさらに続けようと試みたところで彼らはフランス歩兵の第二線と接触し、激しい射撃を浴び、再度隊列を組み直すため森から出ることを強いられました。しかしながら彼らは奪った大砲と弾薬車を全て運び去りました。敵はいまだアルテンブルクの高地を保持し、そこからディーレ川のアルステーデンまで戦線を伸ばしていました。
 今やオーストリア擲弾兵が攻撃を行い、森にいるフランス歩兵を撃ち破りました。
 敵左側面の後方、約2英国マイルのディーレ川沿いの場所にバルクハウゼン村がありました。村の近辺では森がディーレから半円形を描くように退いており、かなりの開けた土地が存在していました。ル=フェーヴル将軍の軍団左翼が退却を強いられた道路がそこの平地を通り、再び高地の上にある森に入っていました。ここは森のすぐ端にいるというだけでなく、特にその足元が大半の部分で横断が極めて難しい峡谷によって守られている点で、歩兵にとって素晴らしい陣地を提供していました。
 敵が3個歩兵大隊と砲兵隊を布陣させ、オーストリア騎兵と擲弾兵に敗れた彼らの兵を迎え入れたのはこの高地でした。そして同時に、勝負がオーストリア軍有利になっていることに気づいた彼らは、その右翼をアルテンブルクの高地から退却させ、その側面を占拠していた兵たちをすぐ後方にある深い森に布陣させました。ザクセン騎兵の4個大隊は帝国兵の賞賛すべき行為を模倣しようと決断したかのように、カラシー連隊の1個大隊とともに擲弾兵によって掃討されていたその方面の森を抜けて前進し、さらなる支援を待つことなく、大砲や歩兵を伴わないまま道を一列で進み、敵の砲火の下峡谷を急いで抜け、隊列を組み、私が上に述べた高地を攻撃しました。多くの損害を蒙った後で彼らは3個歩兵大隊を撃ち破り、森の中へ逃げて助からなかった者は全て切り伏せ、大砲を奪いました。
 夜になり、このとても目覚しい戦いは終了しました。殿下の巧みで決定的な機動をオーストリアとザクセンの兵が実行したときに示した堅実さと大胆さを超えるものはないでしょう。
 オーストリアとザクセンの損害は、いくらかの士官を含む約500人でした。フランス軍の損害は、戦場に残された死体の数と、脱走兵及び捕虜そして彼らが退却時に通り過ぎた地域の住民から得た証言から判断するに、かなり多数にのぼったはずです。自ら指揮を執ったル=フェーヴル将軍が腕を酷く負傷したとの報告もあります。
 この重要な場所を自ら支配する試みに失敗したジュールダン将軍は、エーレンブライトシュタインの封鎖を解きラインを再渡河することを決断しました。彼の軍を構成する6個師団のうち4個はノイヴィートへ直接行軍し、残る2個はザインブルク、ケルン、デュッセルドルフへ向かいました。
 10日[16日?]、大公はル=フェーヴル将軍を追ってグリーセンシュタインへ進軍し、そこで同日朝にレフンでラーンを渡ったクライ将軍と合流しました。
 17日、殿下はレンデローデへ進軍しました。前衛部隊はアルテンキルヒェンへ押し出し、18日にはハッケンブルクへ進みました。リンブルク、ナッサウ、ヴァイルブルクの軍団もラーンを渡り、モンテバウアーとティーアドルフを経由してジュールダン将軍を追撃し、右翼のパルチザン部隊はジークへと前進しました。しかし、オーストリア軍によってなされた精励にも関わらず、敵があらゆる場所で大慌てで退却していたため15日以降は重大な戦闘は行われませんでした。
 マンハイム正面にあるヴルムゼル将軍の哨戒線が今月14日に攻撃を受け、閣下は敵を破りいくつかの大砲を奪ったとの情報をちょうど受け取ったところです。

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France" London Gazette, p24-27


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