ライン戦役の概要
1795年



 クレアファイトは5月初旬、マインツ近くのハルト山を占拠した。彼の軍はそれまでラーン、マイン、及びネッカー河の間に駐留していたが、いまやラーンとジークの間には1万2000人しか残されていなかった。だが彼はルクセンブルクを守ることは怠り、単にエーレンブライトシュタイン、マンハイム、及びフィリップスブルクのみを保持しようとしていた。
 その間、フランス軍は状況に応じて行動できるよう軍を適切な状態におく準備を行い、またオランダの兵を解散させていた。
 ライン河畔の皇帝の軍[オーストリア]は歩兵98個大隊、軽歩兵100個中隊、及び騎兵218個大隊から成り、あわせて17万8700人だった。さらに砲兵、戦闘工兵、架橋工兵、及び幕僚に所属する者で構成される9000人が加えられたであろう。帝国の兵は上記を除き1万5000人に達した。この軍の司令官は何ら攻勢作戦を試みず、逆にフランス軍がヘヒスハイム近くに宿営地を構築するのを許した。
(中略)
 十分幸運なことにこの[キベロン]遠征の失敗を見て、オランダからその財貨を奪った共和国軍は、ドイツのオーストリア軍攻撃を決断した。そして可能な限りオランダに近いところでラインを渡ることが決定され、その計画に最も適しているのはデュイスブルク近辺であるように思われた。十分な兵が渡河している間、プロイセン軍の拠点であるアイヒェル宿営地は機動によって回り込まれた。プロイセン軍は決してそれに復讐しようとせず、皇帝の不快感の対象となった。
 [9月]7日早朝、1万人のフランス軍は対岸に到着した。
 オーストリア軍は急ぎ前進し、敵とシュピークで遭遇し、ルフェーブルの部隊をホルクムへ押し返した。
 フランス軍の数は増加し、オーストリア軍を囲もうとしていた。
 クレベール将軍はホルクムを攻撃するよう即座に命じた。結果、主要街道の右側を4個大隊が前進し、もう1つの縦隊が道に沿って進んだ。
 村を保持する準備をしていたように見えたオーストリア軍は、約200人の兵と大砲8門を失ってグレスハイムへ退却することを強いられた。数多い騎兵は退却を最良な方法で守り、フランス軍の右翼がシュピーク近くの平地に支援なしに前進してきた時には、それを攻撃することさえできた。
 ヴェールホフとゲロップ間でフランス軍はいくつかの大砲の援護を受けながら好きなだけ多くの橋を架けるべきであった。だが彼らはデュッセルドルフとオーディンゲン近くのシュピークを奪取し、7門の大砲を奪った後で、4万の兵とともに河を渡った。この地域に1万2000人しかいなかったオーストリア軍は、両方の町の砲列に人を配置することを余儀なくされ、結果としてあまりに分断されたため容易に退却を強いられた。
 上記の4万人がラインを渡るや否や、数が同じもう1つの部隊が同様にノイヴィートで渡河した。河を守るためその地に駐留していた約1万5000人のオーストリア軍部隊はラーンを越えて退却を強いられた。ここで彼らはフランス軍の前進を妨害するためいくらかの体裁を整えたが、背信行為によってヴェッツラーを支配したフランス軍が側面に来たため、彼らは退却を始めた。
 マインツとエーレンブライトシュタインは支援なしに残された。ピシュグリュは彼の軍とともにその近くにおり、同様にニッダの背後にあるヘーヒストを占拠していた。
 早々に降伏したマンハイムの陥落後、クレアファイトは彼の兵とともにネッカーへ急いだ。彼の拙い配置のもたらした結果が深刻に感じられた。
 だが9月中旬にかけ、国民公会の権威と繁栄にとって有害ないくつかの状況が生じ、この議会は将軍たちに対し、兵を国内に差し向け攻勢作戦を終わらせるよう秘密の命令を出す必要に迫られた。クレアファイトはこの機を利用し、フランクフルトとハナウ間でマインを渡ることによりマインとネッカー間に押し込められた状況から脱した。彼はベルゲン近くに布陣し、フランス軍をラーンから切り離すためか、あるいは退却中の彼らを困らせるため、部隊をヴェッツラーへと派出した。だが重砲の到着は遅すぎた。その結果、意図していた一撃はいずれも不成功に終わった。
 オーストリア軍の前面、ベルゲン近くに布陣しなかったジュールダンは退却の必要性に迫られた。だがこの移動の前に彼は敵を攻撃する決断をし、10月12日にニッダ近くでそれを実行し、それによって退却を完璧な方法で隠し、そして大砲2門と弾薬車1両しか失わなかった。彼はそれから事前に要塞化されたデュッセルドルフへと反転し、邪魔されることなくそこを維持した。
 クレアファイトの側はマインツ戦線でのフランス軍攻撃を決断し、その計画は10月29日に実際に実行された。
 フランス軍はヘヒツハイム、マリエンボルン、ハンゼンハイム、及びモンバッハ間のよく防御を固めた宿営地を占拠していたが、あまりに安全だったため彼らの間には不活発さと倦怠感が蔓延っていた。
 敵の全陣地に関してオーストリア軍が得ていた完全な知識と、フランス軍側の活力欠如が、前者の勇気にも助けられ、この攻撃の途方もない成功とそれが将来ドイツに与える重要性の源になったように思われる。
 フランス軍は彼らの陣地から叩き出されただけでなく、ナーエ川沿いのいくつかの戦闘でかなりの損害を蒙った。
 新たに動員されたフランス兵はほぼ全員が故郷へと逃げ出し、無秩序と必需品の欠乏がいまやドイツにいる共和国軍の友となった。ケルン、ボン、そして最後にデュッセルドルフの撤収までも準備されていたとき、将軍たちは和平を提案し、それはウィーンにまで伝えられた。そして、後に承認はされたが締結はされなかったペーターヴァルダイン講和と同じ条件の和平が、同様にオーストリアにとって致命的な結果をもたらした。

google book "The Elements of the Science of War, Vol. III." p392-396


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