クロファードの報告
1795年12月2日



 アルツァイのクレアファイト元帥の軍司令部、1795年12月2日

 クレアファイト元帥が、マンハイム攻囲の間ラインとノイシュタット間に宿営していた彼の軍の一部とともに、29日にクロイツナッハ近くに到着し、そこでヴァルテンスレーベン将軍の部隊と合流し、後者が過去ある期間に占拠していたのとほぼ同じ陣地、即ち右側面をビンゲンに、左翼をクロイツナッハとフルフェルト背後の高地に、そして前哨線をナーエ対岸まで押し出したことを、謹んでお知らせします。
 ノイシュタットの持ち場から解放されるや否や、クライ将軍はヴォルフシュタインへ向け行軍しました。そこで軍から増援を受けた後で、軍主力が敵正面を脅かしている間に、彼はツェメルン近くに宿営している敵の右側面を迂回するためラウテレックとミッセンハイムを経て前進しました。
 クライ将軍は今月1日より前にラウテレックに到着することはできませんでしたた。その間、ジュールダン将軍は、約5万5000人から成るサンブル=エ=ムーズ軍とともに前進し、30日にナーエ対岸にあるオーストリア軍の前哨線を押し戻し、クレアファイト元帥の軍の対面に布陣し、グラーン沿いのラウテレックとマイセンハイムの背後に1個師団を配置して右側面を守り、中央と左翼はナーエ沿いにラインまで延ばしました。これら2つの河川の合流点で、前者の川の右岸に位置するビンゲンには、ナーエ河に石造りの橋が架かっていますが、両軍にとってこの地点で何かを行うのは同様に困難です。そこから、同じく石造りの橋があるクロイツナッハまで、地形はオーストリア軍よりも敵にとって好都合であり、左岸(つまり敵側の岸)の丘はとても高く、ナーエの近くにありました。一方、右岸はかなりの広さを持つ平野があり、そこから少しずつ斜面が上昇しているため、全体としてオーストリア軍の砲兵が対岸のフランス軍砲列に完全に見下ろされることなく十分近くで渡河を防ぐため使える場所はありませんでした。こうした条件はクロイツナッハ自体に特有のもので、左岸にあるシュロスベルクと呼ばれる丘に配置された歩兵は町と橋に向かって射撃することができました。
 今月1日朝、敵が多くの戦力で対岸の丘に整列しているのが見えました。9時頃、町の背後の高地にとても有利に配置された砲兵の砲撃に支援された大きな歩兵1個部隊が、クロイツナッハ攻撃のため前進しました。オーストリア軍は極めて頑強にそこを守りましたが、不利な状況のため敵が最終的にそこを奪取するのを防ぐことは不可能であり、11時には実際にそうなりました。しかしオーストリア軍は町のこちら側で再編し、再び前進し、多大な勇気をもってフランス軍を攻撃し、やがて彼らを橋の向こう側へ、そしてその地点から追い払いました。
 敵は新たな兵の大きな部隊で攻撃を再開し、町中のオーストリア軍は見晴らしの良いフランス砲兵の砲撃とシュロスベルクの歩兵射撃によって大いにすり減らされ、一方で自らの大砲(地形の状況のため活用できなかった)には全く支援されず、持ち場を維持するのは不可能でした。そこで彼らは再びそこを放棄し、先頭に使われた唯一の大砲を伴って高地に退却しました。
 敵は橋を占拠するにとどめ、町のこちら側に敢えて姿を晒そうとはしませんでした。
 この戦闘におけるオーストリア軍の損害は死傷者500人近くに達しました。
 敵50人が捕虜となり、彼らの死傷者はかなりの数になるはずです。
 クロイツナッハの持ち場放棄を余儀なくされたことは、何ら重要な実際的結果をもたらすものではなく、軍は最も高い高地を占拠するためこの地の対面に当たる戦線の一部を少しばかり後ろに下げたことを除けば、以前と正確に同じ陣地を維持しています。
 クロイツナッハで上記の戦闘が起きたのと同じ時に、クライ将軍はラウテレックの敵部隊を攻撃して打ち破り、完全に寸断して丸々2個大隊を捕らえました。捕虜の数は士官8人、兵150人です。クライ将軍はラウテレックを占拠しています。

google book "A collection of state papers, Vol. III. Part II." London Gazette p57-59


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