クロファードの報告
1795年11月15日



 フランケンタールのクレアファイト元帥の司令部、1795年11月15日

 閣下、
 左翼をトゥルクハイム、右翼をマンハイムの少し下流でライン近くにあるフリーゼンハイムの森に置く強力な陣地を占めたピシュグリュ将軍を攻撃するため、昨日クレアファイト元帥が行軍したことを謹んでお知らせします。彼[ピシュグリュ]の左翼と中央は周囲を見下ろす高地にあり、前者は正面の一部と側面が通行不能な沼地によって、後者はぬかるんでいくつかの深い水路が交差している岸辺を持つ小川によって守られていました。右翼は一部はフリーゼンハイムの森に、一部はオッガースハイム、エプシュタイン、及びフロマースハイムの村々及び隣接する囲い地に拠っていました。この翼側は、正面に沿って特に村々の近くを走っている多くの幅広い水路と、フリーゼンハイムの森のため、やはり接近が困難でした。しかし全体的に見ると、陣地の他の部分よりは少ない障害しかありませんでした。中央の左前方にはラムブスハイム村があり、彼の宿営地へ向かう主要街道の一つに沿っていたため、彼はそこに歩兵1個部隊といくつかの砲兵を配置していました。
 クレアファイト元帥の配置は以下の通りです。クライ将軍麾下、歩兵5個大隊と騎兵16個大隊でいくつかの部隊を編成した右翼第1縦隊は、トゥルクハイムを攻撃し、そしてその地を突破できなかった場合は少なくとも敵がそこから兵力を派出するのを妨げるような方法で行動します。
 元帥自身が指揮する軍の右翼と中央は6つの縦隊で行軍します。歩兵18個大隊と騎兵26個大隊から成る4個縦隊は、敵左翼の右側正面に整列し、敵中央の左側と対峙します。歩兵9個大隊と騎兵8個大隊から成る残り2個縦隊は、敵中央の残りと対峙します。
 ド=ラ=トゥール将軍麾下の左翼は3つの縦隊で行軍します。歩兵3個大隊と騎兵4個大隊からなる1つの縦隊はフリーゼンハイムの森へ、歩兵6個大隊と騎兵12個大隊の縦隊はオッガースハイムへ、歩兵5個大隊と騎兵10個大隊の縦隊はフロマースハイムとフォシュタインへ向かいます。
 全体に適切な数の重砲兵が付随します。
 ト=ラ=トゥールとクライ将軍は、敵陣地の突出部を構成しているラムブスハイム村が奪取されるまで攻撃しないよう命じられました。それからクライ将軍は攻撃を始め、ド=ラ=トゥール将軍はラムブスハイムが奪われる前ではなく後に、右翼と中央が整列し敵戦線に砲撃を始めるや否や攻撃をすることになっていました。なぜなら彼の攻撃はこれらの移動によってかなり容易になる必要があったためです。
 フリーゼンハイムの森へ行軍する縦隊は、フロマースハイムとエプシュタイン村が落ちるまで本格的な攻撃をしないように命じられており、そしてこれらの出来事の直後に続いたオッガースハイムへの攻撃は有利な展開を見せました。
 こうした手段によってフリーゼンハイム森の兵は左翼を迂回されました。同時に彼らは正面から攻撃を受け、他の場合なら地形によって可能であっただろう抵抗をすることなく、陣地を捨てることを当然ながら余儀なくされました。
 縦隊がそれぞれの持ち場へ行軍するのにいくらかの距離があったため、ラムブスハイム村が攻撃できる前に11時になりました。2個大隊がその地を大いに勇敢に襲撃し、そして軍は即座に整列を始めました。
 クライ将軍は、彼と正面で対峙している一部敵軍の陣地があまりに強力で数も多いため、正面から攻撃することも側面を迂回することもできないと報告してきました。この報告を受けるや否や元帥は右翼と中央を率いて敵陣を守っている小川へ向けて前進しました。しかし川底が通っている場所があまりにぬかるみ、水流が交差しているため、渡れるところは3ヶ所しかなく、最大でも横に6人並ぶことしかできませんでした。
 これは敵砲兵隊の砲撃直下と、整列中に敵騎兵の攻撃に晒されている状態で、試みるのは危険すぎる機動であると彼は考えました。そこで彼は配置を変更しました。中央からド=ラ=トゥール将軍を増援し、激しい砲撃を続けながら、あたかも軍を渡河させようと意図しているかのように、同時に異なる2ヶ所で小川を越えて歩兵2個大隊、小規模な騎兵部隊、及び重砲兵1個中隊を押し出しました。しかしこのやり方で自らを晒す必要がある兵たちには、隘路の出口で整列した後は前進しないよう命令をしていました。この機動は敵が右翼を増援するのを妨げることで期待した効果をもたらし、ド=ラ=トゥール将軍に敵のこの翼側を完全に打ち破る機会を与えました。
 日没時には敵のその部分の陣地を彼は全て奪いました。もし戦闘が1年でもっと日の長い季節に起きていたなら、勝利はもっと完璧で素晴らしい性格のものになっていたでしょう。なぜなら敵の中央と左翼は、右翼が引き下がった後にその陣地を保持することはできず、オーストリア軍騎兵は退却する彼らを最も決定的な優位とともに攻撃したでしょうから。しかしながら夜の到来でそれは不可能となりました。従ってピシュグリュ将軍は、河のこちらがわでマンハイムの防衛線を形成している防御施設から撤収し、守備隊とのあらゆる連絡線を放棄したうえで、レーバッハ(ノイシュタットからマンハイム上流でラインに流れ込んでいる小川)の背後への退却を成し遂げました。
 いまやマンハイムは密接に包囲され、マインツ前面の防御宿営地を襲撃して以来行ってきたクレアファイト元帥の機動の目的は完全に達成されました。
 オーストリア軍はこの戦闘で27人の士官と700人から800人の兵が死傷しました。彼らは600人から700人の捕虜と6門の大砲を奪いました。
 フランス軍の死傷者は、敗者と捕虜のあらゆる報告によれば、とても多かったようです。
 会戦の間、ゲムスハイム右側の軽兵部隊に配置されたナウンドルフ将軍は、強力な部隊をカイザースラウテルンへの街道へと押し出しました。
 クレアファイト将軍はきょうも行軍し、左翼をマンハイム上流のラインに、右翼をトゥルクハイムとノイシュタット間の山地に置いて宿営します。
 ピシュグリュ将軍の退却は彼とジュールダン将軍との連絡をより困難にしました。後者はクロイツナッハとビンゲン間のナーエ川背後に布陣しているヴァルテンスレーベン将軍に向かって、軍の一部とともに前進しました。12日、彼はクロイツナッハの拠点を攻撃しましたが、数多くの兵と大砲2門を失って撃退されました。
 マンハイム前面の第1平行壕は防御施設から極めて短い距離で掘られ、攻囲は最大級の活力で実施されています。
 敬具
 C・クロファード
 グレンヴィル卿殿

google book "A collection of state papers, Vol. III. Part II." London Gazette p52-54


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