クロファードの報告
1795年11月13日



 プフェダースハイムのクレアファイト元帥の司令部、1795年11月13日

 閣下、
 昨日夕、前回の報告を出した後でピシュグリュ将軍の軍の一部がフランケンタールにあるオーストリア軍の陣地を攻撃したことを謹んでお知らせします。この町の正面の地形は敵が極めて近距離まで発見されることなく接近する余地があり、彼らはこの利点を生かして、特にそこが大軍で占拠されていなかったため奪回をほぼ確実にするよう、攻撃を始める前に兵の大群と30門以上の大砲を前方へと送り込みました。恐ろしい散弾とマスケット銃の射撃の後で彼ら[の攻撃]は成功しましたが、確保した重要地点を保持するための配置をしている間にオーストリアのド=ラ=トゥール将軍が歩兵2個大隊、騎兵10個大隊とともに前進し、最大の激しさで町を攻撃し、敵をそこから追い払い、約300人の捕虜を得て500人から600人の死傷を与えました。
 この際にオーストリア軍は士官8人、約200人の下士官と兵が死傷しました。
 ピシュグリュ将軍は右翼をラインに、左翼をトゥルクハイムに布陣しました。従ってマンハイムはまだラインのこちら側では囲まれていません。
 敬具
 C・クロファード
 グレンヴィル卿殿

google book "A collection of state papers, Vol. III. Part II." London Gazette p51-52


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