ヴルムザーの報告
1795年9月16日



 ヴルムザーからトゥグートへ
 フライブルク、1795年9月16日。

 恐れ多くも閣下からの今月7日付の手紙が昨日、ディートリヒシュタイン伯から私に渡されました。陛下が私に与えてくださった敬意と愛情の印に対し、私ほど心から感動し感謝した者はいないでしょう。そして私が自身の行為と陛下の賢明な助言への恭順によってこれらの感情に常にふさわしくあろうとすることを、どうか信じてください。
 ここへの到着以来、元帥クレアファイト伯との相互支援の方法について注意深く聞く必要があり、そのためフランス軍の渡河を最初に知らされた時に、私はその対応に必要だった多くの兵力をラインを経て移動させていました。この支援手段により、彼らをどうにか完全に打ち破ることはできなくても、少なくとも彼らが帝国奥深くへ突入するのは妨げられると期待しています。どのようなときでも私が占拠している場所では極めて困難であるライン渡河が、現下の状況では極めて危険を冒しているものであり、そしてとても鋭い意思にもかかわらず、勝利しなければならない陛下の軍の栄光を危険に晒すことを恐れて作戦を行わねばならないため、時間稼ぎを行うことにした点を、陛下は完全にご理解しているでしょう。待っている間、私はもし状況が求めるのなら後の支援手段について連携するため、クレアファイト元帥のところへラウアー将軍を派遣したばかりです。多くの意見によれば、我々がスイスの中立を遵守すると確信している敵が、ジェノヴァのリヴィエラやごく最近にクレーフェ領で行ったようにバーゼル領で行動することがあり得るそうです。ここでいくつかの予防措置を準備する必要があるこの出来事も、私が思うに閣下の関心に値するものでしょう。
 コンデ公については本日、陛下に対しての要請で言及しました。

 追伸。
 スイスからの情報によれば、フランスはサルディニアにサヴォワとニース伯領を返還することに当初は同意したと、ネッケルの娘がパリから書いてよこしたそうです。
 私の直前の手紙で予想した事態になれば、我々はマイン上流へ移動しなければならず、縦隊がアンスパッハ辺境伯領の一部を通ることになるため、必要な予防措置を取り、我々の通過に敵対された場合には強行突破する必要があることをお含みおきください。プロイセンと彼らに従っている諸侯に関して宮廷はどのような行動計画を一般に採用するのでしょうか。

google book "Thugut, Clerfayt und Wurmser" p212-214


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