1800年6月14日
リヴァルタ





ドゼーの死


「3日後(6月14日)、ブーデ師団と伴にリヴァルタへ派遣された彼[ドゼー]は、右方向にマレンゴの砲声を聞いた。すぐ砲声に向かって行軍するという主導権を発揮した彼は、彼を呼び戻すためにやって来たボナパルトの幕僚士官とその途上で出会った」
1911 Edition of the Encyclopedia Britannica, Desaix


 マレンゴの戦いにおいて主力から離れるように行軍していたドゼーが、戦闘の音を聞いて自らの判断で向きを変え、砲声が聞こえる方角へ進んだという話は、あちこちで紹介されている。1911年版のEncyclopedia Britannicaだけでなく、最近出版された本の中でも。例えばBlundering to gloryには「ドゼーは命令なしに砲声に向かって行軍し、そして後に明らかになったように、そうすることでボナパルトを救った」(p64)とあるし、Battles That Changed Historyにも「幸いにもドゼーは兵を砲声に向けて行軍させており、到着した時にもう一つの戦いに勝利する時間はまだあるとナポレオンに知らせることができた」(p275)と書かれている。
 だが、これは史実ではない。信頼できる史料を見る限り、ドゼーはそれまでの命令を無視して自発的に砲声に向かって行軍してなどいないし、そもそも彼の耳に砲声が届いていたかどうかも分からない。そして、マレンゴの会戦から半世紀近く経過するまで、彼が「砲声への行軍」を実施したという話自体も存在しなかった。この史実でない「神話」が生まれる過程には、1人の有名な男がかかわっている。

 まずは最も古い史料から見ていこう。マレンゴ会戦前にドゼーはブーデ師団と伴に南方へ派出された。アレッサンドリアのオーストリア軍が南方ジェノヴァ方面へ逃走するのではないかとボナパルトが懸念したことが、この行軍の背景にある。ドゼーと伴に行動していたブーデはその間の行軍や戦闘について、おそらく戦役終了直後に報告書をまとめている。この「ブーデ師団の行軍と作戦に関する報告」こそがドゼーの行動に関する最も古い史料だ。

「24日[6月13日]、モンニエ将軍の師団と別れ、ドゼー将軍が一緒に残った我が師団は、リヴァルタへ向かいセラヴァレまで戦線を延ばすよう命じられた。ポンテ=クローネからスクリヴィア川沿いまで進むため、私はトルトナの左側面にある困難で丘がちな土地を、何よりも激しい雨のために厳しい通路となったところを通過することを余儀なくされた。増水したスクリヴィア川ももう一つの困難となった。夜になったため我々はカラビニエ1個中隊のみしか渡河させることができず、彼らの数人は流れにさらわれて武器を失いただの幸運によって助かった。夜間、渡河した兵はリヴァルタに陣を敷き、ドゼー将軍もそこへ行った。その間、川が渡渉できない場合でも早朝すぐにでもスクリヴィアを渡る手段を提供すべく対応を進めた」
"Campagne de l'Armée de Réserve en 1800, Deuxième partie" p352

「25日午前2時、ドゼー将軍は歩兵による強力な偵察をセラヴァレ方面に行うこと、そしてもし戦力が必要だと信じるなら旅団によってそれを支援するようにとの命令を私に転送してきた。私は[前日]夕方から師団幕僚所属の大尉(レリティエ)率いる第3連隊の騎兵30騎の分遣隊を送り出しており、ドゼー将軍にまずはこの分遣隊の報告を待つ必要があるとの意見を述べた。彼は私の意見に賛成し私に与えた命令を変更した。
 夜明け、水位は渡渉できるところまで下がらなかったが、夜間に分遣隊がトルトナから連れてきた船頭たちの助けを借りて渡し舟が作られた。兵たちは素早く渡河しリヴァルタに陣を敷いた。午前10時頃、水位が下がり、砲兵も浅瀬を渡ることができた。
 その間、ドゼー将軍は前日の行動に続いてどのような配置をするべきかを司令部に問い合わせていた。中間地点にあり、そこからなら多大な時間は要するが確かにアレッサンドリアにも、敵がその方面への退却を試みた場合にはジェノヴァへの出口にも向かうことができるポッツォロ=フォルミガーロへ向かうようにとの命令を、彼は(幸いにも極めて遅くなってから)受けた。
 私の師団がリヴァルタから1マイルしか移動していないところに、第一執政によって送り出された司令官[ベルティエ]の副官が大慌てで駆けつけ、サン=ジュリアーノへ行軍しそこから両軍が夜明け以来戦闘を続けているマレンゴへ向かえとの命令を私にもたらした」
"Campagne de l'Armée de Réserve en 1800, Deuxième partie" p393-395


 もう一つ、古さだけならもっと古い史料がある。ブーデ師団の参謀副官だったダルトンがマレンゴ会戦のあった6月14日に記した報告がそれだ。残念ながらこの報告は午前中の時点で書かれたものであり、ドゼーが行軍の方角を戦場へと変えた瞬間についての言及はないが、その前にブーデ師団がどういう状況にあったかを知るうえで参考になる。

「ドゼー将軍は[ブーデ]師団に対し、ポンテ=クローネを出発しサレッツァーノ経由でリヴァルタへ向かい、それからセラヴァレへ移動するよう命じた。師団がこの命令を受領した時は既に[13日]正午になっていた。師団は続けて出発したが、極めて大量の雨によって道路は極めて通行しづらくなっていた。先頭を進んでいた第9軽[半旅団]と第1ユサール[連隊]がスクリヴィア河畔に到着したのは[午後]5時過ぎだった。この時点で水量が極めて多かったこの川を渡ろうと試みたが、かろうじて馬匹の尾を掴んだ数人の歩兵だけが渡河できた。ある時などは12人が川に流された。苦労して彼らを救い出せたものの、彼らは武器を失ってしまった。将軍は右岸での宿営を強いられた。第30及び第59戦列[半旅団]はゲナン准将の指揮下でサレッツァーノの山地にとどまり、渡河に多大な労力を要し20組もの牡牛を使ってようやく朝9時にスクリヴィア河畔へたどり着くことに成功した砲兵を守った。
 夜の間、ボートを確保して第9軽を渡河させようと試みた。この手段は全歩兵に使った。夕方から夜にかけ、スクリヴィア両岸を経てセラヴァレへと偵察部隊が送り出された。敵がこの位置を占拠していることが判明した。偵察部隊は何人かの共和国兵がノヴィをせっきょしていることも知らせてきた」
"Campagne de l'Armée de Réserve en 1800, Deuxième partie" p351


 一読してブーデの報告と辻褄が合っていることが分かる。ドゼー率いるブーデ師団は13日にポンテ=クローネを出発。スクリヴィア川を渡って西岸にあるリヴァルタへ向かおうとしたが、悪天候と河川の増水によって夜間は足止めを食らった。翌14日は朝から歩兵を、水位が下がった午前10時からは砲兵を渡河させ、ようやく全軍がリヴァルタへ集結。その間、ドゼーが司令部から得た命令に従い、彼らは南方ポッツォロ=フォルミガーロへ前進を始めた。1マイルほど進んだところにボナパルトから伝令が届き、戦場となっている北方へ足を転じることになった。以上がブーデやダルトンの報告に基づいたドゼーの動きだ。
 史料にはどこにも「砲声」の話など載っていないし、ドゼーが司令部の命令を無視して自発的判断で行軍したという話もない。それどころか彼は、北方で戦闘が行われているというのに司令部の命令に従って南方ポッツォロ=フォルミガールへ向かって実際に進軍してすらいたのだ。ドゼーの部隊に方向転換させたのは、他でもないボナパルトの命令である。

 ブーデもダルトンも実際にドゼーと一緒に行動していた人物である。彼らが戦役の最中、または直後に書いたものは、一般的に信頼度が高いと見ていいだろう。なのになぜ「砲声への行軍」という神話が生まれてしまったのか。直接の責任はないが間接的に影響を及ぼしたのがドゼーの副官だったサヴァリー。1828年に出版された彼の回想録が、「命令を受けて戻った」という簡単な話を変な具合に捻じ曲げた。
 サヴァリーはまず13日の行軍について「ドゼーに率いられたブーデ師団は唯一、右側へ向かい丘に沿って列を作って進み、リヴァルタに布陣するためトルトナ上流で渡河した」("Mémoires du Duc de Rovigo, Tome Premier" p264)と記している。さらにオーストリア軍が南方に向かっているかどうかを確認させるため「ドゼー将軍に夜の間にノヴィへ分遣隊を送り出すよう命じた」(p264)ことも書いているが、スクリヴィア渡河に伴う困難については何も記していない。ブーデやダルトンがあれだけ書いているにもかかわらずである。
 翌14日に関する記述は、さらにブーデやダルトンとかけ離れたものとなっていく。

「彼[ボナパルト]はもはやオーストリア軍が移動していることを疑わなかった。そして彼はドゼー将軍に対し、ブーデ師団と伴に夜明け前にノヴィへ前進せよと命じた。
 我々はすぐに武装し、リヴァルタの陣を引き払い、ノヴィに向けて行軍した。ところか夜がほとんど明けないうちに、我々の右後方遠くから砲声が繰り返し聞こえてきた。我々は平野におり、見えるのは僅かな煙だけだった。この音に驚いたドゼー将軍は、彼の師団の行軍を止め、私に大急ぎで先行しノヴィを偵察するよう命じた」
"Mémoires du Duc de Rovigo, Tome Premier" p266-267


 ブーデらによれば夜明け後も(おそらくは午前中いっぱい)スクリヴィア渡河に手間取っていたはずなのに、サヴァリーは夜明け前から南方への行軍を始めたとしている。さらに彼は夜明けと同時に砲声が聞こえてきたとしているが、実際に戦闘に参加したガルダンヌ("Campagne de l'Armée de Réserve en 1800, Deuxième partie" p374)、ダンピエール(p375)、リヴォー(p379)、ヴィクトール(p383)は午前9時、ワトラン(p386)とランヌ(p389)は午前8時という、夜明けよりはずっと遅い時間を報告書に掲載している。
 サヴァリーはさらにノヴィの偵察を終えた後で「ノヴィには異常がないこと、ドゼー将軍は移動を中止して新たな命令を待っていることを、第一執政に伝えるべく急いだ。(中略)私が乗馬に拍車を入れて全速を出していると、幸運にも司令官の副官であるブリュイエに遭遇した(中略)。彼は戦場へ急ぐようにとのドゼー将軍宛ての命令を持っていた(後略)」("Mémoires du Duc de Rovigo, Tome Premier" p267)と記している。
 サヴァリーはブーデやダルトン同様、当事者の一人である。だがその記述は余りにも他の2人と矛盾しすぎている。渡河を巡る困難、リヴァルタを出発した時間、砲撃が始まった時間、そしてドゼーが自発的に行軍を止めたこと。これらいずれにおいてもサヴァリーはブーデやダルトンとは違う説を主張しているわけだ。サヴァリーの回想録が会戦から四半世紀以上後に出版されたことも踏まえるなら、彼の記述は正直言って信用できないと見た方がいいだろう。
 とはいえサヴァリーは一応当事者であり、そのためか彼の回想録を採用している本もある。たとえばJames R. ArnoldはMarengo and Hohenlindenの中で「ドゼーはアレッサンドリア方面からの戦闘の音を聞いた。彼は行軍を止め、副官アンヌ・サヴァリーをアレッサンドリア南東20マイルにあるセラヴァレ[ママ]方面偵察のため送り出した。(中略)副官が不在の間、砲撃は激しさを増した。ドゼーはこの騒音が何を意味するか判明するまで、動かずにじっとしている決断をした」(p174)と書いている。
 だが、いくら一次史料だからと言って鵜呑みしてはいけない。特にこの件に関するサヴァリーの文章は、他の記録と矛盾する怪しい記述ばかりだ。夜明け前に南方へ向かう命令を受けたという点についても、ドゼーとは逆に北方へ派出されたラポワプが命令を受けた時間が午前10時である("Campagne de l'Armée de Réserve en 1800, Deuxième partie" p364)ことを考えるのなら、いくら何でも早すぎる。サヴァリーの記述を採用している本は、史料批判が足りないと見なすべきだろう。

 それでもまだサヴァリーに従っている本はマシな方だ。サヴァリーは「ドゼーが自発的に足を止めた」と言っているものの、「自発的に砲声に向かった」とは書いていない。「砲声への行軍」という神話を生み出した張本人は、第三共和政下で大統領まで務めた男、Adolphe Thiersである。彼の大作Histoire du Consulat et l'Empireこそが神話の源だ。彼はそこで以下のように書いている。

「だがブーデの全師団と伴にいるドゼーは未だ来ていなかった。彼は間に合うのか? 会戦の行方はそれ次第だった。第一執政の副官たちは朝から彼を捜して駆け巡っていた。だが副官たちが彼にたどり着くずっと前に、ドゼーはマレンゴの平野に最初の砲声が響いたところですぐ足を止めた。遠方からの音を聞いた彼は、送り出されジェノヴァ街道のあるノヴィ方面に捜し求めていた敵が、実はマレンゴにいるとの結論を出した。(中略)サヴァリーからノヴィ近辺に敵の形跡がないことを知らされたドゼーは、自身の推測が正しいと確信し、それ以上遅れることなくマレンゴへと行軍し、第一執政に彼が来ていることを知らせるため何人かの副官を先行させた」
"Histoire du Consulat et l'Empire, Tome Premier" p442-443


 前半部はまだ問題は少ない。基本的にサヴァリーの見解を採用しているだけだ。問題は後半部。サヴァリーによればドゼーは「移動を中止して新たな命令を待っている」状態にあった筈。なのにThiersは彼が「自分の憶測が正しいと確信し、それ以上遅れることなくマレンゴへと行軍」したと書いている。ここに歴史上初めて「ドゼーが砲声への行軍を実施した」という文章が現れた訳だ。
 といってもThiersのこの説には何ら具体的論拠が示されていない。いや、それどころかこの説は、発表直後からブーデらの報告書を知っている人間によって厳しい批判を浴びた。一人はマレンゴ会戦に自らも参加し、後に元帥にまでなったヴィクトールだ。彼はThiersの本が出版された翌年に出した本の中で、この問題について痛烈な皮肉交じりの指摘をしている。

「ティエール氏は、ボナパルトからの命令を受け取る前にドゼーがマレンゴに向けて出発したと主張している。デュポンやブーデの報告、そして何よりドゼーがサン=ジュリアーノに到着した時間が、そうではなかったことを明白に証明している。だが、グルーシー元帥に痛撃を与え、たとえある1日に失敗したとしてもそれまで25年間に素晴らしい貢献を成し遂げた老人を悲しませるためには、真実を棚に上げる必要があり、そしてティエール氏は躊躇いなくそうした。実に寛大な話ではないか!」
"Extraits de Mémoires inédits de feu Claude-Victor Perrin" p268


 ティエール本出版の9年後には、マレンゴで突撃したあのケレルマンの息子であり、やはり歴史家兼政治家であったフランソワ=クリストフ=エドゥアール・ド=ケレルマンがThiers説を批判している。彼は「ドゼー将軍は砲声に呼び戻されたと言われている。これはマレンゴの戦いについて広まったあらゆる話に付け加えられた誤りである」("Histoire de la campagne de 1800" p155)と指摘。「第一執政の命令によって彼[ドゼー]が呼び戻されたのが真実」だと改めて主張している。
 だが、それから長い時間をかけて生き延びたのは、こうした信頼できる史料に基づく主張ではなく、論拠に欠けるThiersの説、いや、説といえるだけの論拠もないただのフィクションの方だった。なぜか。おそらく史実よりフィクションの方が人々に受け入れられ易かったからだ。不利な戦況をひっくり返し、第一執政と彼の政権を窮地から救った人物。その人物はボナパルトの友人であり、なおかつボナパルトを助けた瞬間に戦死したという話までついてくる。それほどの人物が、実は単にボナパルトの命令通りに動く駒であった、というのでは面白くない。自らの判断で行動した有能優秀な人物であった方が面白く、劇的である。そのような人々の望みが、Thiersのフィクションを生き延びさせたのだろう。
 マレンゴの話がワーテルロー戦役とコインの裏表になっていることも、このフィクションが広まった要因の一つだろう。マレンゴではドゼーが自らの判断で砲声に向かい、勝利を招いた。ワーテルローではグルーシーが砲声を無視して命令通りに動き、大敗北がもたらされた。様々な固有の事情を無視し、両戦役を極めて単純化してしまうことで、分かり易い教訓話が出来上がる。
 でもこの「教訓話」はただのフィクション。裏づけとなる史実はない。そんなものが今でもなお生き延び、再生産されていることには、眩暈のような気持ちを感じる。

――大陸軍 その虚像と実像――