1809年4月23日
レーゲンスブルク





城壁の強襲


 ナポレオンの元帥の中で最も早く戦死したのはジャン・ランヌである。第一次イタリア遠征の際にボナパルトの部下となって以降、ランヌはエジプト遠征、第二次イタリア遠征、アウステルリッツ、イエナ、フリートラントなど様々な戦いにおいてナポレオン直率下で戦った。大陸軍で最も有能な前衛部隊指揮官とも言われている。
 1809年。前年にナポレオンがスペインへ大軍を送り込んだのを確認したオーストリアはそれまで進めてきた戦争準備を加速し、革命以降で4回目となる対仏戦争に踏み切った。バイエルン国境を越えて南ドイツに駐留するフランス軍に攻撃をしかけたオーストリア軍だが、ナポレオンの反撃でその部隊は大きく二つに分断される。
 カール大公率いるオーストリア軍主力はドナウ河沿いの町レーゲンスブルク(仏語ではラティスボン)へ退却し、そこからドナウ北岸へ脱出を図る。追いすがったフランス軍だが、レーゲンスブルクの城壁を頼りに抵抗するオーストリア軍を中々突破できない。そこに現れたのがランヌだった。

「城壁に不完全な突破口が開けられ、ランヌは突破口まで突進し梯子をかけて城壁へ登る50人の志願者を募った。50人の兵が挑戦したが、彼らは全員戦死するか怪我を負った。彼はさらに50人の志願者を募ったが、これも同じ結果に終わった。3度目の志願者を募集しても、応える者はいなかった」
Donald D. Horward "Roland of the Army" Napoleon's Marshals p208


 砲撃によって城壁の一部が崩れ、突破口が開かれた。だが、そこまでたどり着くのは至難の業だ。誰もが前進を躊躇したこの時にランヌが取った行動は、後に極めて有名になる。それは一世一代の見せ場と言ってもいいだろう。一体彼は何をしたのか。一部の著者は次のように記している。

「ついにランヌは梯子を掴み、あらゆる場所に降り注いでいる銃弾の嵐の中へと駆け出し、崩れ落ちた建物にしっかりと梯子を立てかけると兵たちについてくるよう命じた。兵は銃火を冒して彼の周囲に集まり、城壁を登り、都市の中へなだれ込んで軍のために城壁を開いた」
Joel Tyler Headley "Napoleon and His Marshals" Napoleonic Literature

「『よろしい』。ランヌは言った。『私は元帥になる前は擲弾兵だったのだ』。そして梯子を脇の下に挟むと、たった一人で城壁に向かった。いつものように彼は全ての勲章を含めた正装を身につけていた。すぐに幕僚の一団が彼を救うために駆け出し、ある副官が礼儀正しく梯子を運ぶことを申し出た。元帥はこれを拒否し、二つの軍の間にある開けた場所で梯子を巡る取り合いが演じられた。彼らの愛する元帥が城壁まで梯子を運ぶ名誉を巡って幕僚と口論している光景を見ることは、擲弾兵たちには耐えられるものではなかった。そして全連隊が襲撃に加わった。元帥が彼らを率い、幕僚たちがそのすぐ後に、擲弾兵が幕僚の背後に続き、彼ら全員は一団となって抗しきれない勢いで町へ突入した」
Archibald Gordon Macdonell "Napoleon and his Marshals" p163-164


 ランヌは軍勢の前で見得を切ったうえで自ら梯子を掴み、先頭きって城壁へ向かった。彼は城壁に「梯子を立てかけ」、兵士たちを「率い」てレーゲンスブルクへ突入したというのだ。そして、HeadleyやMacdonell以外にも、簡単ながらランヌが部下を率いて突破口へ向かったと記しているものがある。

「彼[ランヌ]はラティスボン強襲を率いた(真っ先に梯子を登ろうとさえした)」
Philip J. Haythronthwaite "Who was Who in the Napoleonic Wars" p180

「退却する軍を追撃するため、ランヌ軍団の兵たちはラティスボンを何度も攻撃した。そしてとうとう、ランヌ元帥自身が率いた襲撃で要塞は落ちた」
Robert M. Epstein "Napoleon's Last Victory" p69

「ランヌが実行した梯子を使う大胆な攻撃が成功したことで、搦め手の門を開くことが容易になった」
Francis Loraine Petre "Napoleon and the Arch-Duke Charles" p190


 ここに書かれた文章を読む限り、実際にランヌはレーゲンスブルク城壁に開いた突破口まで前進し、そこから梯子を登って街中へ入ったように思える。ただ、上に記した文章をよく読むと、実はそこまではっきり断言している研究者はいない。誰も彼も妙に曖昧な言い方で終始しているのが特徴なのだ。そして、他の著者の本を見ると、ランヌが「見得を切った」場面はともかく、その後についてはもっと微妙な言い回しになっているものが目立つ。

「最前線に立ったランヌ元帥に率いられた三度目の攻撃によって暗くなる前に町はフランス軍の手に落ちたが、フランス軍は1000人の損害を蒙り、さらに橋はオーストリア軍の手に残ったままだった」
Stephen Pope "Dictionary of the Napoleonic Wars" p403

「占領の試みが二回失敗した後、ランヌ自身が梯子を手に持って鼓舞した三度目の強襲が成功した。搦め手の門が開かれフランス軍はラティスボンへなだれ込んだ」
Chandler "Dictionary of the Napoleonic Wars" p360


 ランヌはあくまで部下を「鼓舞」しただけ。だとすると、突破口へ向かったのは誰だったのか。実は城壁への前進を先導したのは別の人物だと記しているものもある。

「とうとう小さな突破口が開かれ、二人のランヌの副官が擲弾兵の一団を率いてシュトラウビング門を確保するために城壁を越えた」
Esposito & Elting "Atlas" map99


 突破口から街中へ突入したのはランヌ自身ではなく、ランヌの副官である。EspositoとEltingによるこの指摘は他の著者によっても繰り返されている。

「彼[ランヌ]は三度目の試みを行うための志願者を募った。誰も応じようとしなかったため、彼は自ら梯子を掴むために突進した。彼の幕僚たちが彼を思いとどまらせたが、その行為は無駄ではなかった。志願者たちは梯子を掴もうと殺到した。元帥の二人の副官に率いられ、すぐにラティスボンの城壁はフランス軍の兵士たちによって溢れ返り、町は落ちた」
Richard Phillipson Dunn-Pattison "Napoleon's Marshals" p114

「『よろしい』。ランヌはぶっきらぼうに言った。『私もかつては擲弾兵だった!』そして彼は梯子を担ぎ、開けた場所へと進んだ。彼の幕僚たちが慌てて後を追い、梯子をつかんでそれを彼から奪おうとした。ランヌは頑強に抵抗し、一同はオーストリア軍の銃火に晒された開けた場所で互いに押し合った。  フランスの元帥が梯子を巡って幕僚たちと争う光景は歩兵にとっては耐えられないものだった。彼らは開けた場所へ飛び出し、城壁の下へ突進して十数個の梯子を立てかけると互いに城壁への一番乗りを目指して張り合った。二人のランヌの幕僚が最初に城壁に登り、そして十分以内に強襲部隊が反対側になだれ込んで主要門の防御部隊を背後から襲った」
Ronald Frederick Delderfield "Napoleon's Marshals" p120


 ランヌは突破口を越えてレーゲンスブルクに入ったのではない。彼は城壁の下までたどり着いたわけでもない。梯子をかかえて城壁に向かったのは、ランヌの副官を含めた部下たちだった。ランヌは最終的に彼らの強襲を見送る側になったのである。

「彼[ランヌ]は腰をかがめて梯子を持ち上げ、突破口へ向かおうとした。彼がほんの数歩進むより前に、彼の副官たちが邪魔に入った。ランヌは怒ってどくように命じたが彼らは動こうとしなかった。マルボ[ランヌの副官]はランヌから梯子を奪い取ろうとしながら言った。『元帥閣下、どうかおやめください。あなたの副官がまだ一人でも生きている間にあなた自身が梯子を城壁へ運ぼうとして僅かな怪我でも負ったら、それは我々にとって不名誉になります』」
James R. Arnold "Crisis on the Danube" p201

「彼[ランヌ]は数秒のうちに全員を失うことを知りながら、彼ら[副官たち]に梯子を取らせた。『行け』。ランヌは言った。『そしてラティスボンを奪ってこい!』。他の試みが失敗した局面でも、個人的な手本を示したことは成功につながった。モランの兵たちは、スキピオの部下がやったように群れを成して突進した」
Margaret Scott Chrisawn "The Emperor's Friend" p219

「混乱と大きな損害を蒙りながら最初に梯子を登り城壁の上に立ったのは、マルボと彼の戦友であるラ=ベドワイエールだった」
Chandler "Campaigns" p693


 では、ランヌはその後どうしたのだろうか。実は彼は、突破口へ突進した兵たちを見送った後で、残りの部隊を率いて最寄の門へと前進していたのだ。突破口から入った兵たちが門を開けたとき、そこからなだれ込んできたフランス軍を指揮していたのがランヌだった。

「彼ら[ランヌの副官たち]は城壁に到達して突破口を登り、それに50人の擲弾兵とシャルル・モラン師団の他の兵たちが続いた。その間、ランヌはモラン師団の残りを率いて正面の門へ進み、その巨大な扉を打ち壊した。オーストリア兵は武器を置いて投降した」
Horward "Roland of the Army" Napoleon's Marshals p208

「当初はハンガリー擲弾兵が彼ら[突破口から突入した部隊]に抵抗したが、それも長続きしなかった。城壁を越えた歩兵は二つの主要門を奪い、残りの部隊を率いるランヌがラティスボンへ入れるよう門を開いた」
Chrisawn "The Emperor's Friend" p219

「燃える家屋があちこちで崩れ落ちる中、フランス軍はシュトラウビング門の近くにある小さな広場へと前進した。ここを守っていたオーストリア軍大隊は背後から奇襲を受けることになった。フランス軍はハプスブルク軍に降伏を要求したが、両軍は至近距離でマスケット銃を向け合う格好になった。彼らが互いに全滅させあう前に、門の外から聞こえてきた斧の音でオーストリア軍少佐は包囲されたことに気づき、すぐに彼の大隊に武器を置いて降伏するよう命じた。門が開かれ、ランヌ元帥に率いられた第25戦列歩兵連隊の1個大隊が勢いよくラティスボンの街路になだれ込んできた。城壁に対する強襲への参加は阻まれたものの、このガスコン人[ランヌ]が門を攻撃する工兵部隊を率いることは阻止できなかった」
James R. Arnold "Crisis on the Danube" p202


 ランヌは突破口から突入することはなかった。中から開かれた門を通ってレーゲンスブルクに入ったのだ。レーゲンスブルクを落とし、カール大公の軍勢をドナウ北岸へと追い払ったランヌは、ナポレオンに従ってウィーンへと進軍する。そしてレーゲンスブルク陥落から約1ヶ月後、アスペルン=エスリングの戦いに参加した彼は重傷を負い、やがて死亡した。

――大陸軍 その虚像と実像――