1798年7月21日
ギザのピラミッド





ピラミッドの戦い(アントワーヌ=ジャン・グロ)


 注:後半に訂正があるので、そこまで読んでいただきたい。

「やがて巍然として天空に聳立する金字塔(ピラミッド)を煙雲飄渺の間に望見するや、馬を陣頭に驅り、凛然大呼して曰く、
『嗚呼、兵士よ。四千年の齢は彼の塔上より汝等を瞰下す。汝等何ぞ奮起せざるを得んや』
と」

近代デジタルライブラリー 「奈翁全伝第2巻」 p379-380

 ナポレオンの台詞として(日本で)有名なものといえば、「余の辞書に不可能の文字はない」と並んで上記の「四千年の歴史が諸君を見下ろしている」というヤツがあげられるだろう。実際には「余の辞書に」云々の原文は"Impossible n'est pas français"だと言われており、だとすればどこにも「辞書」という文字はない。では、「四千年の歴史」の方はどうなのだろうか。
 日本語wikiquoteではナポレオンの台詞として真っ先に「兵士諸君、ピラミッドの頂から、四千年の歴史が諸君を見つめている」を紹介し、この台詞が「1798年7月21日、エジプト遠征に際して、ギザのピラミッドの前で」発せられたものだとしている。原文は"Soldats, songez que du haut de ces pyramides, quarante siècles vous contemplent"だそうだ。
 これが正解なら何の苦労もない。wikipediaから引っ張ってきて論文でも何にでも利用すればいい。だが、そうはいかないのが現実だ。wikipediaに書かれている歴史関連の記述を信用すると拙いことはこれまでにもあちこちで指摘してきた。当然ながら今回の件も同じ。予め言っておくなら、日本語wikiquoteに紹介されているものは、その原文も、その言葉が発せられた日付も、多分史実ではない。
 ただ、この件についてはwikipediaにも同情の余地はある。なぜならフランス政府の肝いりでまとめられた文献の中に、このwikiquoteを裏付けるような記述があるからだ。ナポレオン3世の命によって編集された"Correspondance de Napoléon Ier"に、共和国暦6年熱月3日(1798年7月21日)のピラミッドの戦い前の発言として、以下のような文章が紹介されている。

「会戦の際に、ナポレオンは兵たちにピラミッドを指し示して言った。『兵士諸君、四十の世紀が諸君を見つめている』」
"Correspondance de Napoléon Ier, Tome Quatrième" p240

 政府の公式編纂書簡集に書かれているのだからこれでOK、と考える人がいるのも仕方ない。しかし、それは歴史に向き合う態度としては決して褒められたものではないのだろう。中国の歴史を語る際に、所謂「正史」だけに依拠することがどれほど拙いかは、正史が政治的目的をもって取りまとめられたことを考えればすぐに分かる。同じことが、ナポレオン1世の甥っ子が率いる政府によってまとめられたナポレオン書簡集についても言えるのだ。
 ナポレオンの書簡集を読む際に最も気をつけるべきなのは、書簡集に記されている「引用元」だ。ここにMémoiresとかSainte-Hélèneなどの文字が出てきた場合、安易に信用してはならない。もちろんこの「四十の世紀」もセント=ヘレナでナポレオンが語った言葉だ。実際にはベルトランがまとめた"Guerre d'Orient, I."のp160に全く同じ文章があるので、ベルトラン本の方がオリジナルだろう。
 他にグールゴーが記したものの中に「この会戦の開始時、ナポレオンはとても有名になった以下の言葉を兵士たちに送った。『あのピラミッドから四十の世紀が諸君を見つめている』」"Mémoires pour Servir à l'Histoire de France sous Napoléon, Tome Deuxième" p239)との文章がある。ナポレオンがセント=ヘレナでベルトランやグールゴーといった随員たちを前にこの話を語っていたことが分かるだろう。

 ではこの言葉は、流刑にあって暇をもてあましていたナポレオンがセント=ヘレナででっち上げたものだ、という結論でいいのだろうか。よくない。話はそう簡単にはいかないのだ。そのあたりを追求したのが、Roger Alexandreなる人物。彼が1901年に出版した"Les mots qui restent"という本から、ナポレオンとピラミッドについて記したものがこちらで読める。これを参考にしながら、一体どこから「四十の世紀」云々という言葉が生まれてきたのかを説明してみよう。
 Alexandreの本を読んで分かるのは、ナポレオンがセント=ヘレナで語るより以前からこの台詞が存在していたことだ。彼が最初に紹介しているPierre Dominique Martinの本は1815年出版。その中に以下のようなフレーズを含まれている。

「彼[ボナパルト]は急いで軍の閲兵を行い、そして戦場の彼をいつも特徴づけていた短く精力的な熱弁の中で、兵士たちの熱狂を限界まで高めた。
 彼はピラミッドを示しながら『フランス人よ、あの遺跡の頂から四十の世紀が諸君を見つめていることを思え』と言った」

"Histoire de l'expédition française en Égypte, Tome Premier" p200

 セント=ヘレナに同行した人物の中にMartinの名を見た記憶はない。彼がセント=ヘレナにおけるナポレオンの発言を聞いてこの本を記したと考えるのは、出版年を考えても難しいだろう。つまり、ピラミッドの戦いにおいてボナパルト将軍が「四十の世紀」云々という台詞を言ったとの話が語られるようになったのは、ナポレオンがセント=ヘレナに流される以前からの現象だったのである。
 google bookで調べると、それを裏付けるもっと古い例も見つかる。例えば1810年に出版された本には、グロの描いたピラミッドの戦いの絵(このページの一番上を参照)に関する解説として「これは陛下が以下の言葉を発した時のものである。『この遺跡の頂から、四十の世紀が我々を見つめている』」"Annales du musée et de l'école moderne des beaux-arts" p23)と記されている。
 さらに古い1808年出版の本にも、「歴史的事実」として「カイロから6リューのところにたどり着いた際に、司令官[ボナパルト]は23人のベイたちが60門の大砲に守られたエムバベの高地に全戦力を集結させたことを知った。彼はすぐに次のような偉大な考えによって兵士たちの勇気を高めた。『このピラミッドの頂から四十の世紀が我々を見つめていることを思え』」"L'honneur français, Tome Premier" p19)との文章がある。
 ならばナポレオンがピラミッドの戦いにおいて「四十の世紀が」云々と言って兵士を励ましたのは事実ではないか。そう結論づけたくなる人もいるかもしれないがそうはいかない。もっと前、実際に戦いが行われた1798年に近づくと話が変わってくるのだ。

 Roger Alexandreが紹介している一例が、ベルティエが記して共和国暦8年(1799―1800年)に出版された"Relation des campagnes du général Bonaparte en Égypte et en Syrie"。同書には「マムルーク騎兵はまばゆい武器に身を包んでいた。彼らの左翼後方には、数多の帝国や勇者たちに彩られた三十世紀に及ぶ時間に直面しながらも破壊できない巨体を示してきたかの有名なピラミッドがあった」"Relation des campagnes du général Bonaparte en Égypte et en Syrie" p18)と書かれている。だが、そこには「諸君を見下ろしている」という言葉は見当たらない。
 他にもAlexandreはCharles Norryの"Relation de l'expédition d'Egypte"(1800年出版)、Louis Laus de Boissyの"Bonaparte au Caire"(1799年)、Jacques Miotの"Mémoires pour servir à l'histoire des expéditions en Égypte et en Syrie"(1804年)など早い時期に出版された様々な本を調べてみたが、ピラミッドの戦いにおけるボナパルトの「四十の世紀が諸君を見下ろしている」という発言は見つけられなかったという。
 ちなみに私もいくつか探してみた。一つはフランソワ・ヴィゴ=ルシヨンの「ナポレオン戦線従軍記」。彼もボナパルトの発言については何も触れていない。Jean-Pierre Doguereauの"Guns in the Desert"にも目を通したが状況は同じ。ついでにボナパルトやその関係者の書簡を集めて1819年(つまりナポレオンとは無関係な政権の時期)に出版された"Correspondance inédite officielle et confidentielle de Napoléon, Égypte, Tome I."もチェックしたが、やはり件の台詞は発見できなかった。

 では、あの台詞はどこから出てきたのか。Alexandreが紹介しているのはLouis Dubroca(Alexandreは匿名の作者としている)が記した"Histoire de Bonaparte, premier consul"(1801年)だ。そこでは熱月25日(8月12日)、つまりピラミッドの戦いから20日以上経過した時期にボナパルトがピラミッドを訪れたことについて記されているらしい。Dubrocaはそこで、1798年11月27日のモニトゥール紙にも紹介されているボナパルトのピラミッド訪問について言及したうえで、以下のように付け加えているそうだ。

「破壊できないこれらの巨体を時間を費やしながら見ている間に、ボナパルトは後世を注視している巨大で高貴な魂の思考についての着想を得た。『これらのピラミッドの頂から四十の世紀が我々を見つめている』」
"Histoire de Bonaparte, premier consul"

 ボナパルトが「四十の世紀」云々の言葉を発したのはピラミッドの戦いの時ではなく、それから3週間も後にピラミッドを訪ねた時だった。例の台詞は大会戦を控えた「司令官ボナパルト」が部下を奮起させるために言ったものではなく、巨大遺跡を見物に来た「観光客ボナパルト」が感嘆と伴に語った言葉だった、ということになる。
 Dubrocaの本以外にも同じような話が紹介されている。一例がJean Chasの"Tableau historique et politique des opérations militaires et civiles de Bonaparte"(1801年)。Dubrocaと全く同じ文章がp44に載っているのだが、その直前にある以下の文章を読めば、ピラミッド会戦で勝利してマムルーク軍をエジプトから追い出した後になってこの台詞が語られたものであることが分かる。

「ボナパルトはイブラヒム・ベイの軍を粉砕するために布陣し、敵はシリアへ逃走した。軍は砂漠まで彼らを追撃し、その兵たちは散り散りに逃げた。フランスの将軍はエジプトのピラミッドを訪れるため勝利の追撃を中止した」
"Tableau historique et politique des opérations militaires et civiles de Bonaparte" p44

 またCousin d'Avallonの"Bonapartiana"(1801年)にも「これらのピラミッドの頂から四十の世紀が我々を見つめている」"Bonapartiana" p31)との台詞があるが、それがピラミッドの戦いの時であるとは一言も記されていない。要するにピラミッド会戦から時間があまり経過していない時期の史料には、セント=ヘレナでナポレオンが言ったことを裏付けるものは見当たらないのである。

 wikiquoteのどこが間違いなのか、もうお分かりだろう。ボナパルトが件の台詞を吐いたのは1798年7月21日ではなく8月12日。単なるピラミッド見物だったのだから、フランス兵の大軍が同行したとは思えない。彼がエジプトへ連れてきた科学者は含まれていた可能性があるが、それを入れても随行者はそれほど多くなかっただろう。兵士たちがいなかったのだから、ピラミッドが見下ろす対象も「諸君(vous)」ではなく「我々(nous)」になる。wikiquoteの原文も誤っている訳だ。
 場所も違う。ピラミッドの戦いが行われたのはナイル左岸のエムバベ村近く。現在はカイロ市街に飲み込まれているが、インババ橋の西岸周辺だと考えれば大きな問題はない。ギザの巨大ピラミッド群からは12キロメートルも離れている。ちなみに12キロ離れた場所から高さ140メートル弱のピラミッドを見た場合、その大きさは1.7メートル強離れたところから1円玉(直径2センチ)を見るのとほぼ同じになる。一番上に掲げているグロの絵がどれほど不正確であるかも分かるだろう。
 ピラミッドの戦いであの台詞が言われたのではないことは、1798年に近い時期に出版された会戦に関する回想録などでこの言葉への言及がないことからも窺える。いや、もっと後に出版されたものでも(ヴィゴ=ルシヨンのように)現場にいた人間があの台詞を無視している例はある。「四十の世紀」とピラミッド会戦を結び付けているのは、歴史書だったり絵画の解説文だったりといった当事者以外が書いているものと、そしてナポレオン自身である。
 そう、この「伝説」の製作者は、やはりナポレオン。ただし、セント=ヘレナのナポレオンではない。彼がこの話をでっち上げたのは、正確に言えば「でっち上げさせた」のは、彼がまだ一般にボナパルトと呼ばれていた1802年のこと。同年に出版された"Voyage dans la Basse et la Haute Egypte"には以下の文章がある。

「敵を発見するや否や、軍は隊列を組んだ。ボナパルトが最後の命令を下した時、彼はピラミッドを指差しながら言った。『進め、そしてあの遺跡の頂から四十の世紀が我々を注視していることを思え』」
"Voyage dans la Basse et la Haute Egypte, Tome I" p40-41

 この本の著者はVivant Denonだが、冒頭にボナパルトへ献辞が捧げられている。同書の英訳本"Travels in Upper and Lower Egypt"はもっと露骨で、表題のところに「彼[ボナパルト]の直接の支援の下で出版された」と記されている。ボナパルトがDenonにそう書くように強いたのか、それともDenonが作り上げた「伝説」をボナパルトが受け入れて広めるのを応援したのか、詳しいことは分からない。だが、ボナパルトがエジプト戦役を伝説で彩るべく極めて早い段階から工作していたと言うことはできるだろう。
 この工作は成功した。何しろ200年以上経過した21世紀になっても、そしてインターネットという極めて新しいメディアの中にも、この「伝説」がきちんと生き残っているのだから。100年も前にAlexandreが「そりゃ違う」と指摘しているのだが、彼の声はほとんどの人の耳には届かなかったようだ。



 以上、20世紀初頭に出版された本を元に「四十の世紀が諸君を見ている、という台詞はピラミッドの戦いの際に発言されたものではない」との説を紹介してきた。だが、実はこの推測を根底からひっくり返す史料が1976年に現れていたことが分かった。エジプトに遠征した東方軍のchef de l'atelier d'habillement(おそらく衣服関連の責任者)であったFrançois Bernoyerが遠征中に書き記した19通の手紙をまとめた"Avec Bonaparte en Égypte et en Syrie"がそれである。
 同書の49ページから掲載されているのは、Bernoyerが共和国暦6年熱月4日(1798年7月22日)にギザで記した手紙である。日付を見れば分かる通り、ピラミッドの戦いの翌日に書かれたものだ。アレクサンドリアからギザまでの道行きについて記したその手紙の中に、ピラミッドの戦いに関する以下のような文章が載っている。

「彼[ボナパルト]は最後の命令を与えるために将軍たちを集め、ピラミッドを指し示しながら言った。『行け、そしてあの遺跡の頂から四十の世紀が諸君を注視していることを思え!』」
"Avec Bonaparte en Égypte et en Syrie" p59

 これは決定的な証拠だ。ピラミッドの戦い翌日に書かれた手紙にこのフレーズが出てくる以上、Alexandreが主張する「本当はピラミッドの戦いから3週間ほど後に発言されたものだ」という主張は成り立たない。ボナパルトは間違いなくピラミッドの戦いの際に「四十の世紀が諸君を見ている」という台詞を口にしていたのである。
 さらに重要なのは、Bernoyerの書き記した台詞と、出版物としては最も早くこの台詞を紹介していたDenonの本に載っているフレーズがほぼ同じであること。Bernoyerによればこの時ボナパルトが言ったのは"Allez, et pensez que du haut de ces monuments, quarante siècles vous observent!"であり、Denonとの違いはnousがvousになっているだけ。最も古い2つの史料がほとんど同じ表現になっている訳で、それだけ史実であった可能性が高いと考えられる。ボナパルトは「伝説」をでっち上げたのではなく、「史実」を(多少脚色しながら)述べていたのだ。
 衣類関連の責任者であったBernoyerが戦いの前に司令部にいたとしてもおかしくはない。彼はそこでボナパルトの発言を聞いたのだろう。また、非戦闘要員(画家)だったDenonも、最前線ではなく司令部にいた可能性がある。一方、ヴィゴ=ルシヨンのような戦闘要員は司令部ではなく前線部隊にいたため、ボナパルトのこの台詞を耳にする機会がなかったのだろう。多くの回想録でこのフレーズに触れられていないのは、大半の兵士がこの言葉を聞かないまま戦闘に突入したためかもしれない。

 実際に何が起きたのか、それを知りたければ様々な史料(文献だけでなく考古学なども含めた幅広い意味での史料)に当たる必要がある。だが、全ての史料が手に届くところにある訳ではない。過去には存在したが今では消失している史料もあるだろう。逆にBernoyerの手紙のように、過去にはほとんど知られていなかったが後に出版物となった史料もある。そして、歴史においては、たった1つの史料の存在が緻密な分析を全てひっくり返してしまう場合だってあるのだ。今回はまさにその典型例である。それだけに、史料を批判的な目で見ながら、なおかつ史料への敬意を失わないことが、歴史について調べるうえでは欠かせない。

――大陸軍 その虚像と実像――