番外4
1分間120歩の伝説





突進


 NHKの番組「名将の采配」で、アウステルリッツの戦いが取り上げられたことがあった。その中でナポレオンの軍隊が素早く移動できた理由について「1分間に120歩という他国の軍隊より速いペースで歩いていたため」との説明がなされていた。
 この説は日本以外も含めて広く唱えられている。一例が"Brassey's encyclopedia of land forces and warfare"で、そこには「[フランス革命軍]は行軍の歩数を1分間70歩から120歩に上げた」(p663)と書かれている。また"The Art of War for the New Millennium"なる本の第4章にも「速度とは時間の効果的活用法である。ナポレオンはこのことを知っており、そして彼はまた兵に1分間70歩の行軍をさせるのが軍事的標準であることも知っていた。かくして(中略)ボナパルトは彼の兵に1分間120歩の行軍をさせた」とある。
 ネット上でもこの説はしばしば見かける。英語wikipediaの行進曲の項目では、「1分間120歩の行軍テンポは、軍をより早く移動させられるようナポレオンによって採用された」とあるし、さらには英語のナポレオニック関連サイトとして有名な"Napoleon Series"の中にある"Napoleon and the Grande Armée: Military Innovations Leading to a Revolution in 19th Century Military Affairs"という記事でも「フランス軍は操典で信奉されていた1分間70歩の正統な歩数を捨て、1分間120歩の素早い行軍に切り替えた。これに伴いフランス軍は日に20−30キロを行軍できるようになった」と言明している。

 根強く語られるこの話が「珍説」であることは間違いない。普通に考えれば、他の軍より速いペースで移動すればそれだけ疲労が溜まり、戦闘の際に不利になることが想像できる。逆に、もしフランス軍が1分120歩のペースで歩いても疲労しなかったのだとしたら、オーストリア軍やロシア軍だって同じペースで歩くことができただろう。そもそも1日に何キロ歩くかという問題が、1分間の歩数で決まると考える方がどうかしている。道路の状態、部隊の規模や車両数など、もっと別の問題の方が遥かに重要だとは思わないのだろうか。
 George Nafzigerは"Imperial Bayonets"の中で、隊形変更などの際に各軍が採用している歩数のペースについて紹介している。それによると、フランス軍が1791年の操典で採用した1分間の歩数は以下の4種類だ(p56)。

Pas ordinaire, 76
Pas de route, 85-90
Pas accéléré, 100
Pas de charge, 120

 見ての通り、76歩から120歩まで様々な種類の歩数がある。四六時中、120歩で歩いていた訳ではない、というかそもそも「普通のペース」Pas ordinaireは1分間76歩。120歩はあくまで「突撃のペース」とされている。
 もっと問題なのは、革命以前の旧体制時代の操典にも1分間120歩のペースが規定されていたことだ。1776年の操典には既にPas de manoeuvreという1分間120歩のペースが存在しているし、1766年(ナポレオンの生まれる前)の操典にもやはりPas redoubleという1分間120歩のペースがあった。フランス革命軍が1分間120歩の行軍ペースを採用したというのは間違いだし、ましてナポレオンが取り入れたなどというのは全く論拠がないことになる。
 こうした規定が存在していたことはgoogle bookに載っている本からも裏づけられる。革命前の1776年に出版された"Ordonnance du Roi pour régler l'exercice de ses troupes d'infanterie"にはPas de manoeuvreの説明として「その速度は1分間120歩」(p33)とはっきり書かれている。さらに古い1769年出版の"Instructions militaires sur le service de garnison et de campagne"にはpas rédoubléが「1秒に2歩、つまり1分に120歩」(p105)であることが述べられている。
 "Dictionnaire de l'armée de terre, Tome Quatrième."によれば、pas redoubléに相当するものは既に1675年からDoubler le pasの名で知られていたという(p4518)。つまりNafzigerの指摘よりもさらに古く、ナポレオン誕生の100年近くも前から、フランス軍には1分120歩の行軍ペースが存在していたのだ。
 さらにNafzigerによれば、フランス以外の国でも1分間70歩を遥かに上回るペースが規定されていた。英国ではquick stepという1分間108歩の移動ペースがあった。英軍の規定では歩幅がフランス軍より大きかったため、このペースはフランス軍の120歩と比べても決して遜色はない。他にもプロイセンのGeschwindschritt(108歩)、ロシアのskoryi szag(100-110歩)やudwonyi szag(140-160歩)、オーストリアのDoublirschritt(120歩)など、列強の歩数がフランス軍とそれほど変わりがなかったことが分かる。

 そもそもNafzigerはこれらの歩数を、隊形変換などの際に使われたものとして紹介している。確かに隊形変換のように短時間で行わなければならないものについては、1分間あたりの歩数も重要な意味を持つだろう。だがそれは、1日当たりの行軍距離とは何の関係もない。あくまで戦術レベルの問題であり、戦略的な機動は1分間の歩数とは異なる要因によって決まっていた。
 "Imperial Bayonets"のp286-288にはEscalleの"Des marches dans les armées de Napoléon"やJarryの"Treatise on the marches and movements of armies"といった先行研究に基づく軍の移動に関する分析が紹介されている。それによると軍の移動を決める要因には(1)道路網と地形(2)機動に関する軍の有機的構造(3)補給物資その他の位置(4)前進する際の隊形――などがあったという。
 欧州には主要道路以外にも蜘蛛の巣のように張り巡らされた二線級の道路があったが、その質は悪かったうえに、それらを示すいい地図もなかった。また山や森、河などボトルネックになりやすい地形も存在した。悪天候になれば、特に二線級の道は泥の海と化した。
 軍の有機的構造という点ではフランス軍が優れていた。いち早い軍団制の導入などが行軍の早さに寄与したと見られる。また、革命で生まれた軍隊ならではだが、特に士官たちの私物を持ち運ぶ車両数が少なかったことも、行軍速度の向上に役立った。「必要性、欠乏、および革命的平等主義ゆえに、フランス軍は王国時代の軍が連れていた輸送車列を廃した」(p287)のである。また、傭兵中心であった王政国家の軍隊には比較的高齢な(時に60歳以上の)兵がいたのに対し、国民軍だったフランスは若者ばかりで、それが素早い移動を可能にした面もある。
 補給物資の位置は、革命以前の軍隊ではしばしば問題になった。ヴァン=クレヴェルトの主張に基づくなら、実際にこれが問題になったのは要塞攻めの時、ということになるのだろう。革命を経てそれまでの常備軍が国民軍に変わり、その規模が一段と巨大化したのに伴い、軍隊は要塞を封鎖する部隊を残したうえでさらに敵の領土深くへ侵攻することができるようになった。
 最後に前進する際の隊形だが、これは連合軍が主要街道に絞って前進するケースが多かったのに対し、フランス軍は周辺にある二線級の道も使って移動したことを意味する。主要街道以外が使いづらかったのは不満足な地図しかなかったことなどが理由だが、フランス軍は欧州の中でももっとも優秀な地図製作要員を保有しており、こうした問題点をある程度克服できた。また他国の士官が大きな町に宿泊したがったのに対し、革命軍では士官たちも快適さにこだわらなかったため、主要街道以外を通ることに躊躇いがなかったようだ。

 フランス軍の移動速度が速かったのは、上記のような様々な要因が絡み合った結果である。他国がフランス軍の速さに追いつこうとする場合、できること(地図製作スタッフの充実)とできないこと(より平等主義的な行動をする士官)があったのが判る。それだけ難しい問題が背景にあるというのに、それを「1分間120歩」で説明してしまおうというのは、あまりに知的に怠惰であり、かつフランス以外の国々を馬鹿にしている解釈だ。戦争においては敵を侮るのは禁物。少なくとも、「120歩」の伝説(珍説)を唱えるような人間に軍の指揮を任せたくはない。

――大陸軍 その虚像と実像――