1796年3月27日
ニース





レジノ(ネジノ)山の攻防


 アベル・ガンスが作り、後にコッポラが再上映した無声映画「ナポレオン」。ガンスは当初、ナポレオンの人生を全六部という超大作として製作することを考えていたというが、実際に作られたのはナポレオンの少年時代からイタリア遠征が始まる時期までを描いた第一部のみだった。
 この第一部の最後の方で、イタリア方面軍指揮官に任命されたボナパルト将軍が司令部に赴く話が出てくる。イタリア方面軍にいる歴戦の将軍たちが、ボナパルトの到着を控えて苛立ちを露わにしている。彼らは政治的な理由で選ばれた新らしい指揮官を認めたくない様子だ。だが、ボナパルトが到着し、将軍たちを睨みつけると、彼らはその迫力に呑まれたかのように素直に帽子を脱いで姿勢を正す。ボナパルトのカリスマ性を描き出している場面だ。
 この場面で出てくる字幕によれば、場所はイタリア方面軍司令部の置かれたアルベンガ。新指揮官を待っているのはセリュリエ、ラアルプ、ヴィクトール、セルヴォニ、ムール、ドゥジャール、ドマルタン、ジュベール、そしてマセナとオージュローだと言う。彼らのうちドゥジャールは正体不明だが、残りの面々に関しては大半がこちらのサイトに名前が出てくる。セリュリエ、ラアルプ、マセナ、オージュローは師団長。セルヴォニ、ドマルタン、ジュベールは前衛部隊の旅団長。ムールは予備部隊の師団長だ。ヴィクトールもこの時点で旅団長になってオージュロー師団に所属していたようだが(Ramsay Weston Phipps "The Armies of the First French Republic, VolumeIV" p13)上のサイトでは名が出ていない。
 師団長だけでなく旅団長も含めたイタリア方面軍のオールスターが揃っている格好だが、多くの本では少し違った話が紹介されている。例えば日本語で読める本では次のようになる。

「『ミュラ、すぐに師団長たちを集合させろ!』
ボナパルト将軍は三月下旬にニースに着くなり、ミュラ先任副官に命じた。イタリア方面軍の現状を一刻も早く知りたかったのである」
長塚隆二「ナポレオン(上)」p159

「ボナパルトが、居心地のわるそうにしている軍人というより官僚タイプの参謀長を複雑な気持ちで見ているうちに、どやどやと師団長たちがはいってきた。
『野戦の経験もない青二才が!』と思えば、それがつい態度にも出る。脱帽もせずになれなれしく握手を求めようとしたが、暖炉を背にして後ろ手を組む司令官の射すくめるような視線に、彼らは思わずひるんだ。手が機械的に帽子を脱いだ。そして、直立不動の姿勢で個々に名乗りをあげた。
『マッセナです』(三十八歳)
『オージュローです』(三十九歳)
『セリュリエ』(五十四歳)
『ラアルプ』(四十二歳)」
長塚「ナポレオン(上)」p160


 司令部のあった場所はアルベンガではなくニース。そこでボナパルトと出会ったのはマセナ、オージュロー、セリュリエ、ラアルプといった師団長たち。状況もガンスの映画とは多少異なるが、基本的にイタリア方面軍の将軍たちが新指揮官に威圧されたという部分は同じである。同様にニースでボナパルトがイタリア方面軍の将軍たちと出会ったと指摘している本は、他にもある。

「パリの暴徒に対する簡単な勝利を得たばかりのナポレオンは3月26日、靴のない反抗的な群衆を指揮する4人の師団長[セリュリエ、オージュロー、マセナ、ラアルプ]とニースで出会った」
Ronald Frederic Delderfield "Napoleon's Marshals" p33

「1796年3月26日、イタリア方面軍の歴戦の将軍たちはニースにある軍司令部で、政治的駆け引きと、広く言われていた説によれば女性のお蔭
[註]で指揮官の地位に引き上げられた奇妙なちびの砲兵将軍を待っていた。(中略)その中に3人の師団長[セリュリエ、オージュロー、マセナ]もいた」
Archibald Gordon Macdonell "Napoleon and his Marshals" p2

「ボナパルト将軍は1796年3月26日にイタリア方面軍に着任した。年配で彼より経験を積んでいたにもかかわらず、オージュローは他の師団長たちと伴に彼を歓迎した(オージュローが後にマセナに対して『あのちび将軍には本当にびびった』と言ったことにはかなりの根拠があると見られる)」
Elting "The Proud Bandit" Napoleon's Marshals p6

「1796年3月27日にあった極めて重要なナポレオンとの最初の出会いのたった2日前に、セリュリエは彼の師団に属する大隊の一つが起こした反抗に対処しなければならなかった。それは空腹、放置及び補給の欠如によってイタリア方面軍が反抗的な群衆と化していたことを示す一つの例だった」
David D. Rooney "The Virgin of Italy" Napoleon's Marshals p443


 Eltingは明確に3月26日にオージュローがボナパルトと出会ったと記しているわけではないが、文脈を見る限りではそうした意味のように思える。また、Rooneyはセリュリエがナポレオンと出会った日付について、脚注でChandlerの「戦役」p53を紹介している。実際にボナパルトと師団長たちが出会った場面について書かれているのは、同書のp54だ。

「3月27日、奇妙な取り合わせの3人[セリュリエ、オージュロー、マセナ]が[ボナパルト]将軍の視察を受けるべくついに姿を見せた」
Chandler "Campaigns" p54


 さらにChandlerはこの最初の出会いについてガンスや長塚が描いているのと似た話も紹介している。

「この3人の経験を積んだ兵士たちが、まだ27歳にもならないほんの子供が彼らの指揮官になるという話を聞いた時に最初に示した反応は、危惧の念を含む驚きだった。ボナパルトは高慢な『政治的』軍人であり、悪名高いバラス――総裁の一人――の影響を通じて高い地位を手にすることを好んでいるように見えた。この若者は最近、バラスの元愛人であるジョゼフィーヌ・ボーアルネと結婚したばかりだった。彼が彼女の肖像画に対して示す若々しい情熱は年配の者たちの冷笑を招いた。小柄で痩せた姿はある同時代人の記録によると『将軍というより数学者のように見えた』。(中略)彼の軍事的な才能に対する評価については留保したものの、3人の師団長たちはすぐに指揮官の熱心さと決意に強い印象を受けた。マセナは書いている。『すぐ後に彼が将軍帽を被ると、まるでその姿は2フィートも大きくなったように見えた。彼は我々に師団の位置、各部隊の熱情と実働兵力について質問し、どのように行動するかを指示して、翌朝には閲兵を行いその翌日に敵を攻撃すると宣言した』」
Chandler "Campaigns" p56


 Margaret Scott Chrisawnは著作の脚注で、日付については触れていないが、オージュローら師団長が揃ってボナパルトと最初の対面を行ったと指摘している。

「オージュローがマセナ、セリュリエ、ラアルプのいるところで初めてボナパルトに出会った際の有名な台詞『あのちび将軍には本当にびびった』についてはLaurence Couturaudの"Augereau, l'enfant maudit de la gloire (Paris, 1990)" p41を見よ」
Chrisawn "The Emperor's Friend" p35


 以上の文献は、日付など細部の違いはあっても、いずれもボナパルトがイタリア方面軍に着任した直後に師団長たちと出会ったと記している。他にも「ボナパルトが、顔色の悪い小柄な身体から迸るカリスマと積極的かつ現実的な計画とで年長の師団長たちをたちまち心服させたのは本当だ」(有坂純「ナポレオンの第一次イタリア遠征」歴史群像No.59 p69)と書いている人もいる。師団長らが顔を揃えで新指揮官のボナパルトと対面した。これが一般に知られている話だ。
 だが、ここで注意すべきなのは、上の文献のどれを見ても一次史料が見当たらない点だ。RooneyやChrisawnが紹介しているのは二次史料だし、Chandlerはマッセナの証言をどこから引いてきたのかについて触れていない。「根拠がある」というEltingも具体的な根拠は示していない。本当にボナパルトと師団長たちの会見があったのか、裏付けが存在しないのだ。

 そして、世の中には違う話を紹介している研究者もいる。以下がその例だ。

「4月10日、彼[ボナパルト]はサヴォナでマセナと会った。会合は真心のこもったもので、ボナパルトはマセナに命令を下した」
James Marshall-Cornwall "Dear Child of Victory" Napoleon's Marshals p273

「ボナパルトはアルベンガを発し、移動の途中でオージュローと会ったうえで4月9日にサヴォナに到着した。彼は町の上にある丘のマドンナ=ディ=サヴォナを訪れ、そこでラアルプとおそらくマルモンに会った。そして彼らをサヴォナへ連れ帰り、さらにマセナを呼んだ」
Phipps "The Armies of the First French Republic, Volume IV" p15


 マセナがボナパルトと出会ったのは3月26日あるいは27日のニースではなく、4月9日あるいは10日のサヴォナである。これがMarshall-CornwallとPhippsの見解だ。オージュローと出会ったのもニースではないし日付もおそらく4月に入ってから。3人あるいは4人の師団長が並んで指揮官を出迎えたのではなく、指揮官が前線へ移動する過程で彼らと順次出会った。そのように指摘する研究者がいるのだ。
 なぜそうなるのか。Martin Boycott-Brownによると理由は簡単だ。ボナパルトが着任した時点で師団長たちの大半はニースから遠く離れた最前線にいた。わざわざ着任挨拶のためニースに戻る暇はなかったようで、彼らの大半は手紙を使って歓迎の挨拶をしている。当時の手紙を見れば、そのことが推察できるという訳だ。

「サヴォナ、共和国暦4年芽月9日(1796年3月29日)
 イタリア方面軍司令官殿。
 あなたの手紙は前日に受け取りました。イタリア方面軍の指揮権をあなたが受けたことに対し、心からの敬意を表します。私があなたの軍事的才能に対して長い間正当な評価をしてきたことはご存知でしょう。これまで指揮を取ってきた将軍たちと同様に、私はあなたの信頼に値するものになると思っております」
Correspondance inédite officielle et confidentielle de Napoléon Bonaparte, Italie. Tome Premier. p23


 マセナはボナパルトが到着した数日後になって、ニースから100キロも離れたサヴォナから手紙を出しているのだ。当時、ニースからイタリアへ伸びるリヴィエラ海岸の道路は極めて状態が悪く、移動にはかなりの時間を要した。マセナがニースまでわざわざ出迎えに行くのは困難だったし、そもそも出迎えをして直に対面していたのならこのような手紙を書く必要はない。同じことはオージュローにも言える。

「ラ=ピエトラ、共和国暦4年芽月10日(1796年3月30日)
 司令官殿。
 あなたの今月8日(3月28日)付の手紙を受け取り、あなたが全軍の指揮を取るため着任したことを知りました。あなたの市民としての良識及び軍事的才能を知るものとして、その指揮下に入ることを祝します。あらゆる命令においてあなたの意図を達成するため全力を尽くしましょう。私の熱意、精力、そして大義への献身に期待していただきたい」
Correspondance inédite officielle et confidentielle de Napoléon Bonaparte, Italie. Tome Premier. p25


 オージュローもニースから離れた場所で歓迎の手紙を書いている。やはり直接出迎えていたのなら書く必要がない手紙である。少なくともこの二人が一緒に着任したばかりのボナパルトと対面したことはありそうにない。
 Boycott-Brownによればセリュリエに関してもやはりボナパルトの着任時点でニースにいなかった可能性があるという。ラアルプもマセナ指揮下にある師団を率いていたため、マセナ同様にニースから遠く離れた場所にいたと考える方が妥当だろう。要するに、並んでボナパルトを出迎えたと言われている4人の師団長たちは、実際は全員ニースから遠く離れた場所で任務に追われていたのである。

 当事者が残した手紙を見る限りどう考えても否定せざるを得ないような話が、どうして多くの本に記されることになったのか。一つ、ヒントになりそうなのがChandlerが記しているマセナの「将軍帽を被ると、まるでその姿は2フィートも大きくなったように見えた」という発言。Chandlerの本には引用元が記されていないが、その淵源となった史料はおそらく以下のものだろう。

「彼[ボナパルト]がイタリア方面軍に到着した時、将軍たちの誰一人として彼のことは知らず、そしてマセナが私に話してくれたところによると、最初に司令官のところを尋ねた際にも彼らはほとんど感銘を受けなかった。小柄で体つきが弱々しかったことも、好意を引くものではなかった。手に妻[の細密画?]を持って皆に示したことも、何よりその極端な若さも、この任命がやはり政略の結果に違いないと将軍たちを信じ込ませることになった。『しかしその直後、彼が将軍用の帽子を被ると、まるで2ピエも大きくなったように見えた』とマセナは付け加えた。『彼は我々に師団の位置と装備、各部隊の士気と兵力を問い質し、我々に進むべき道を示し、翌日には全部隊を検分したうえで2日後には戦闘を行うため敵に向かって行軍する、と宣言した』。彼は将軍たちに向かってかなりの威厳、明確さ、及び天賦の才を示しながら話たため、彼らは遂に真の指導者を得たのだと確信しながらその場から引き下がった」
Mes souvenirs sur Napoléon p204-205


 この本の著者はJean-Antoine Chaptal。ナポレオン政権で1800年から1804年まで内務大臣を務めた人物である。さて、この本は一次史料になるのだろうか。
 Chaptalは政治家であって軍人ではない。従って彼が現場に居合わせたとは思えない。Chaptalが書いたから一次史料だ、と言うのは無理だろう。だが、政権中枢にいた人物としてマセナから話を聞く機会はあったと思われる。発言者を特定したうえで書かれている部分については一次史料と言っても構わないだろう(インタビューを一次史料と見なすようなものである)。
 問題は、一次史料といってもピンキリなこと。まずChaptalの本が出版されたのが1893年と随分遅いのが問題になる(本人ではなくその子孫が出版した)。早い時期に出た本なら信用してもいいだろうが、遅いものはよほど特殊な事情がない限り、どうしても信頼性には劣る。
 だが最大の問題はマセナが話したとされる内容そのものにある、マセナはイタリア方面軍に司令官としてやってきたボナパルトを最初に訪ねた際には何の感銘も受けなかったと話しているが、そもそもここがおかしい。彼とボナパルトは初対面ではなかった。彼らは既にツーロンの時に肩を並べて戦っているし、その翌年にはマセナがイタリア方面軍師団長、ボナパルトが同砲兵指揮官としてやはり一緒に戦っている。マセナは当然、ボナパルトのことを知っていたと考えるべきだろう。
 そもそも上に記した1796年3月29日付の手紙でマセナは「私があなたの軍事的才能に対して長い間正当な評価をしてきたことはご存知でしょう」と述べている。以前からボナパルトのことを知っていたからこそ、「長い間」彼の能力を評価することができたのだ。このマセナの手紙を載せているCorrespondance inédite officielle et confidentielle de Napoléon Bonaparteは1809年出版で、Chaptalの本より80年以上も前に世に出ていることも重要だ。
 もう一つ、見逃してはいけないのが、Chaptalの本のどこにも「マセナがニースでボナパルトを出迎えた」と書いてないこと。書かれているのは「ボナパルトがイタリア方面軍に到着した時」という文章だけだ。Chaptalの本を論拠にマセナら将軍たちがボナパルトをニースで出迎えたと主張することはできない。Chandlerの本に書かれていることは裏付けが乏しいと言わざるを得ない。
 なお、Chandlerは実際にはChaptalの本を読んでいないと思われる。でなければ「マセナは書いている」などとは記述しないだろう。Chaptalが記しているように「マセナが話したところによると」という表現になる筈。要するにChandlerが自分の本で引用したこの文章は、どこか別の二次史料から引っ張ってきたものなのである。

 ではこの「伝説」はいつ頃から語られるようになったのだろうか。Chandler以前にもMacdonnellなどが紹介しているので20世紀前半には広まっていたのは間違いない。問題は、そこからどこまで遡れるかだ。調べてみると驚くべきことに1860年出版の本、つまりChaptalの本が出版されるより30年以上も前の時点でこの「伝説」が既に存在していたことが分かる。

「ボナパルトは1796年3月27日にニースの司令部に到着した。そこには給料も支払われず、パンも衣服もないが、勇気と経験は装備していた軍隊と、その指揮官たちであるマセナ、オージュロー、ラ=アルプ、セリュリエ、ミュラ、ジュベールらがいた。彼らは当初は27歳にも満たないこの軍司令官に対してほとんど好意を持たずに対応した。しかし彼が自らの計画を彼らに示すと、マセナは会議を去る際にオージュローに言った。『我々は本物の指導者を見つけた』」
Abrégé de l'histoire de France. p340


 一読しただけで「ボナパルトの副官として彼に同行してイタリアへ来た筈のミュラが、どうしてマセナたちと一緒に名前を挙げられているんだ」とツッコミを入れたくなる文章だ。要するにおよそ信頼性に乏しい記述なのだが、なぜだかこの本以降もいくつもの本で(登場する将軍たちの名に異同はあるものの)同じ話が繰り返されている。こうなるとChaptalの本は自身の回想に基づいているというより、広まっていた伝説をなぞっただけのようにも見える。
 さらに遡ると、以下のような文献も見つかる。

「これらの言葉はとても力強い確信と熱情と伴に語られたため、最古参の隊長たちですら26歳の将軍の約束にもはや何の疑いも抱いていなかった。ラ=アルプ、オージュロー、セルヴォニ、そして特にマセナは、苦い失望を抱きながらではあったが、彼らのロアーノでの勝利を忘れたかのような宣言を聞くことができた。彼らが絶えず示した沈黙、服従、そして従順さは、ボナパルトが初対面の時点で彼らを支配していたことを告げていた」
Histoire de France, Tome Treizième. p151


 冒頭の「これらの言葉」とは、例の「諸君を世界一の沃野へ連れて行こう」という布告のことである。この布告自体がセント=ヘレナでナポレオンがでっち上げたものではないかと言われているのだが、この本の著者であるCharles Lacretelleはその布告に対して部下の将軍たちがとりたてて文句を言わなかったことを理由に「ボナパルトが初対面の時点で彼らを支配していた」と推測をしている。もしかしたら、後の時代の誰かがこのLacretelleの「推測」を勝手に「事実」と見なし、それがさらに「マセナたちがニースでボナパルトを出迎えた」という「伝説」につながったのかもしれない。



(註)Chandlerも書いているが、ボナパルトのイタリア方面軍指揮官任命に際してはバラスとの関係が大きく影響したという俗説は広く一般に知られている。特にバラスの元愛人であったジョゼフィーヌとボナパルトがイタリア遠征直前に結婚していたことが、こうした妄想が出てきた所以であろう。例えば、最近出た本の中にも次のような記述がある。

「熱狂情念の虜となったナポレオンはそんなことには気づきもしない。ある日、恩義ある上官であるバラスに、ジョゼフィーヌとの結婚の意思をうちあけた。
 ビックリ仰天したのはバラスである。この男は俺とジョゼフィーヌとの関係を承知していてこんなことをいっているのか? まさか! 第一、ジョゼフィーヌという希代の尻軽女の本性を知りもしないだろうし、彼女の悲惨な財政状態にも無知のようだ。
 しかし、バラスはあえてそうしたことを教える必要はないと判断した。ここはナポレオンに貸しをつくっておいたほうがいいかもしれない。ジョゼフィーヌから聞いたところによると、ナポレオンはイタリア方面軍最高司令官への任官を熱望しているという。よろしい、イタリアに行かせてやろうじゃないか。ジョゼフィーヌも一緒につけて進ぜよう。さあ、これだけの『恩』はめったにないぞ。奴はもはや俺の忠実な犬になるしかない」
鹿島茂「情念戦争」p134-135


 だが、この話はおそらく史実ではない。そもそもイタリア方面軍指揮官にボナパルトを推薦したのは、バラスではなく総裁カルノーだ。

「しかし、正直さでは疑う余地のないカルノーが、ボナパルトをイタリア方面軍の指揮官に推したのはバラスではなく自分だと話しているし、この証言は[ボナパルト]将軍を他の名前は知られていない候補者より好んだために非難されたのが他ならぬカルノーであったという事実からも裏付けられる」
Phipps "The Armies of the First French Republic, Volume IV" p5


 Phippsはさらに、ジョゼフィーヌとの結婚とイタリア方面軍指揮官への任命との間には関連性がないということも主張している。

「[1796年]2月7日に結婚の予告が明らかにされ、そしてボナパルトが[イタリア方面軍指揮官に]任命された日から一週間後の3月9日に結婚が執り行われた。2月7日時点ではシェレールをイタリア方面軍指揮官の地位から解任する案は存在しなかった。それどころか、28日になっても彼を引き続き指揮官の地位にとどめようとする試みがなされたほどだ」
Phipps "The Armies of the First French Republic, Volume IV" p5


 結婚が決まった時点ではイタリア方面軍指揮官の地位は空席でなく、その後もシェレールが継続して指揮を取る筈だったのである。シェレールが強く辞任を申し出た結果、後任選びが必要となり、作戦立案に当たる陸地測量部(Bureau Topographique)でボナパルトの上司だったことがあるカルノーが彼を推薦した。「情念戦争」のような一般向け書物でしばしば紹介されている「バラスが元愛人との結婚に対する引き出物としてイタリア方面軍指揮官の地位を与えた」という話は、言ってしまえば「下司の勘繰り」に過ぎないのではないだろうか。

――大陸軍 その虚像と実像――