番外1
ミシェル・ネイ元帥





“勇者の中の勇者”


 注:このページの前半に書かれていることについては問題点が多いため、是非とも後半部まで目を通していただきたい。

 ミシェル・ネイは1769年1月10日、ロレーヌのザールルイで生まれた。革命の始まる少し前に軍に入った彼は、主にサンブル=エ=ミューズ軍で活躍し、次第に出世していく。1796年准将、1799年将軍に昇格。1804年には元帥になった。ウルムやイエナ、フリートラントの戦いに参加したほか、スペインでの戦争にも従事。1812年のロシア遠征時に後衛部隊を指揮して有名を馳せた。1813年から14年にかけてドイツとフランスで従軍。ナポレオンの退位後はブルボン王家に仕えるが、百日天下の時にはナポレオンに従い、ワーテルローで戦った。1815年12月、復古王政により銃殺される。
 彼の名はナポレオンの元帥たちの中でも最も有名かもしれない。ロシア遠征時において最後まで退却する大陸軍の殿(しんがり)を務めたことや、ワーテルローの戦いにおける騎兵突撃など、特に第一帝政期の後半においては非常に目立っている人物だ。極めて勇敢であり、「勇者の中の勇者」(Le brave des braves)と呼ばれていたが、軍を指揮する能力という点では平凡だった、というのが一般的な理解だろう。

 彼について語られる時には、しばしばその髪の毛が話題に上る。例えばJohn R. Eltingは"Swords around a Throne"の中でネイについて以下のように述べている。

「赤毛で、血色のいい顔で、背が高く、肩幅広く、国境のザール地方から来た力強いドイツ人だった彼[ネイ]は、戦いにおける死こそが男の宿命だと考えており、『性交』を意味する卑語を大変に好んでいた」
Elting "Swords around a Throne" p145


 ネイが赤毛だったと指摘している著者は他にも多い。

「その赤い髪と火のような気性、そして戦闘における勇気で知られていたネイは、ナポレオンの元帥たちの中で威勢のよさではガスコン人のミュラと並ぶ存在だった」
Stephen Pope "Dictionary of the Napoleonic Wars" p353

「彼は中肉中背で、極めて強く、とても勇敢で、青い目と赤い髪をしており、一流の剣士で乗馬の名手だった」
Archibald Gordon Macdonell "Napoleon and his Marshals" p42

「力強く、赤毛で、熟練の剣士であり白兵戦では危険な敵であった彼は、激しやすく気性の荒い人間だったが、他の力持ちで気性の荒い者と同じようにセンチメンタリストでもあったため、感情が落ち着けば敵に対する態度も和らいだ」
Ronald Frederic Delderfield "Napoleon's Marshals" p73

「その赤い髪から“le Rougeaud”という呼び名で知られていた彼だったが、その性格はもう一つのあだ名である『勇者の中の勇者』に集約されている」
Philip J. Haythornthwaite "Who was Who in the Napoleonic Wars" p240


 ネイは赤い髪をしていた。そしてその髪の色と同様に激しい性格の人間であった。こうした説明はしばしば見られる。だが、本当に彼の髪は赤かったのだろうか。1804年、つまり彼が元帥に任命された時に画家のCharles Meynierによって書かれたという絵を見てみよう。



 余り赤くは見えない。むしろ褐色に近いと言ってもいいだろうか。さらに、ネイと同時代の人間であるFrançois Gérardが書いたと見られる絵もあるが、これもまた髪はそれほど赤くないのだ。



 ネイの伝記を書いたRaymond Horricksはこの問題に触れて、次のように指摘している。

「色に関してもやはりGérardが最高の権威であろう。彼よりもさらに短気そうな印象を与える元帥の絵を描いたLouis Davidを見ても、この点は支持される。子供の時のミシェルは明らかに見事な金髪だった。しかし、成長したところでその髪が明るい赤あるいはニンジン色になった、との説は全く間違っている。彼の髪は豊かな栗色であり、光が当たった時はほとんどとび色に見えた」
Horricks "Military Politics from Bonaparte to the Bourbons" p5


 ネイの髪は赤(red)というより栗色(chestnut)やとび色(auburn)、要するに赤褐色に近い色だった。ではなぜネイが赤毛だという説がこれほど広まったのだろうか。Horricksは兵士たちがネイにつけたあだ名“Le Rougeaud”が誤解の元になったのではないかと推察している。

「この言葉は通常、髪の色について使われることはない。フランス人は赤毛の人間を単純に“un rouge”と呼ぶ。“Rougeaud”とは赤ら顔の人や血色のいい人を意味する」
Horricks "Military Politics from Bonaparte to the Bourbons" p6


 Haythornthwaiteの書いている“le Rougeaud”とは、赤毛ではなく赤ら顔の意味だったのだ(Haythronthwaiteのフランス語理解には誤りが多いと指摘する向きもいる)。ネイは「髪の毛が赤い」元帥ではなくて、「顔の赤い」元帥として兵たちに知られていたことになる。
 ネイが激しやすい性格だったことも、こうしたあだ名がついた一因となったのだろう。特に戦闘の最中のように興奮している時には、その顔色は一段と赤くなった可能性もある。当時の兵にとって何よりネイを特徴づけるのは赤い「顔」だった。「赤毛」ではなかったのだ。



 以上の話を記したのはまだgoogle bookなどネット上で閲覧できる情報が十分になかった頃だ。しかし最近は様々な形でナポレオン戦争当時や直後の文献をネットで見られるようになった。そこで改めてネイのあだ名について調べてみたところ、上に記したのとは全然違うことが判明したのである。

 まず、そもそも"Le Rougeaud"というあだ名は古い時期の文献には全く見つからなかった。google bookで検索しても、ネイに関連して"Le Rougeaud"というフレーズが出てくる文献は早くて19世紀末の出版。大半は20世紀に出た本に紹介されている言葉であり、ネイが生きていた19世紀初頭はおろか19世紀前半の本ですら発見できない。代わりに存在したのは、微妙に綴りが異なる"Le Rougeot"というあだ名である(あだ名の存在を指摘したネイ元帥のシェヘラザードさんに感謝したい)。このあだ名は以下のような本に載っている。

「縦隊についていった[ネイ]元帥は、古参兵たちから威勢のいい言葉で歓迎された。彼らは自分たちの真っ只中にしばしば彼らを勝利へ導いたle rougeot(註)を再び見出し、喜んでいた。
 註:古参兵が自分たちの間で彼に与えた信頼と友情のあだ名」
Pierre-Agathe Heymès "Relation de la campagne de 1815" p6

「[ナポレオンがエルバ島から戻ってきた時に]ネイがかつての上官を故意に殺せただろうか? かつてそのような試練を経験をすると予想していた将軍がいただろうか? そして気乗りしないウディノを押し切り、逃げ出したマクドナルドを追撃した兵士たちが、彼らが"Rougeot"と呼ぶ人物に敬意を払い、ネイが殺人に手を染める間ただ待機しているようなことがあり得ただろうか?」
Louis Antoine Fauvelet de Bourrienne "Memoirs of Napoleon Bonaparte, Volume IV" p308

「我々が皆ジリーの戦いで得た捕虜の混乱を収めるのに専念していた時、夕方7時頃、突然囁き交わす声が聞こえてきた。『le Rougeotだ! le Rougeotが来たぞ!』(それは古参兵たちがネイ元帥につけた洗礼名だった)」
Hippolyte de Mauduit "Les derniers jours de la Grande Armée, Tome Second" p19

 Heymèsの本はNapoleonic Literatureによると1829年の出版と推測されている。Bourrienneの本は1829−31年、Mauduitの本は1848年出版だ。"Le Rougeot"の方が"Le Rougeaud"より古いと考えても問題ないだろう。ネイの副官だったHeymèsなど、当事者の証言であることも重要な意味を持つ。ネイのあだ名は"Le Rougeaud"ではなく"Le Rougeot"の方が正しいと考えてもよさそうだ。
 ではなぜ"Le Rougeot"ではなく"Le Rougeaud"という記述がこれほど広がってしまったのか。上で"Le Rougeaud"という表現が19世紀末まで遡れると書いたが、実はそれ以前の歴史書にはまだ"Le Rougeot"の方が残っていた。一例が1862年に出版されたAdolphe Thiersの本だ。

「しかし兵たちは、勇者の中の勇者が何か失敗をやらかしたことを見て取り、Rougeot――輝かしい元帥を彼らはそう呼んでいた――はこっぴどく叱られたと互いに囁きあった」
Adolphe Thiers "Histoire du consulat et de l'empire, Tome Vingtième" p157

 しかしこのThiersの本をほとんど最後に、google bookからネイのあだ名としての"Le Rougeot"が消えていく。19世紀後半から末期にかけて"Le Rougeot"が"Le Rougeaud"に置き換わる動きが広がったようだ。

 理由は何か。ここから先は単なる想像に過ぎないが、もしかしたら19世紀末の歴史家が古めかしい表現である"Le Rougeot"を"Le Rougeaud"に「現代語訳」したのかもしれない。いくつかの仏和辞書を立ち読みで調べてみたが、Rougeaudの訳語は載っていたのに対しRougeotはそもそも辞書に見当たらない単語だった。こちらのネット仏英辞書でも、RougeaudはRed-facedと翻訳されるが、Rougeotと入れてもnot foundとなる。
 より詳しい仏仏辞書を見ると、Rougeotの類語としてRougeaudを紹介している事例が見つかる。あまり使われなくなった言葉を置き換える時に、その類語を活用したと考えれば筋が通る。かくしてネイを表す言葉としての"Le Rougeot"は"Le Rougeaud"に変化した、のではなかろうか。だとしたら「現代語訳」に対して噛み付いたHorricksの指摘は見当外れである可能性が出てくる。本来の言葉とは違う言葉について、それが一般的には「赤ら顔」の意味だからネイは「赤毛」でなく「赤ら顔」だと結論づけるのは、論拠に乏しい机上の空論になりかねない。類語とはいえ"Le Rougeot"と"Le Rougeaud"の意味が微妙に異なる可能性があるからだ。
 その一例が、こちらのネット仏英辞書。ここで調べてみると、Rougeaudがred-faced(赤ら顔)やruddy(血色の良い)と翻訳されるのに対し、Rougeotはreddish(やや赤い)と翻訳されている。必ずしも顔色を表す用語ではないかもしれないのだ。ただし、こちらの仏仏辞書ではRougeotをRougeaud同様、赤い顔色と記している(バルザックの老嬢からの引用もある)。辞書をいくら引っくり返しても結論は出そうにない。

 むしろ当時の人間がネイを"Le Rougeot"と呼ぶ時にどのような意味を込めていたかを調べる方が重要だろう。残念ながら上に紹介した同時代人の記録には、どこにもあだ名の由来が記されていない。赤ら顔か、赤毛か、直接的な証拠は見当たらないのだ。代わりに間接的な証拠になりそうなものはある。1833年出版のMémoires du Maréchal Neyに紹介されているあだ名がそれだ。この本には以下のように書かれている。

「戦争に疲れた晩年、元帥はほとんど禿げかけていた。かつては兵士たちが、彼の明るい金髪を指して赤毛のピエール"Pierre-le-Roux"とか赤い獅子"Lion Rouge"というあだ名をつけていた……皇帝が小伍長と呼ばれていたように……そして戦を決める局面になると遠方から彼の砲声が聞こえてきたものだ。兵士たちは言い交わした。気合を入れろ、赤い獅子が唸っているぞ。赤毛のピエールが来れば何もかもうまくいく」
"Mémoires du Maréchal Ney, Tome Premier" p41

 また、1914年に出版されたOctave Levavasseurの"Souvenirs Militaires"にも「彼が閲兵時に通り過ぎるのを見た兵士たちは、そのあごひげと髪の色から彼を赤毛"le roux"と呼んだ」(Levavasseur "Souvenirs Militaires" p321)との記述があるという(シェヘラザード氏の指摘による)。
 ここで使われているあだ名は"Le Rougeot"ではなく「赤毛のピエール」だったり「赤い獅子」だったり、あるいはずばり「赤毛」だったりする。いずれのあだ名もネイの髪の毛に由来することは間違いない。あだ名に使われるほど、ネイの髪の毛が兵士たちにとって印象的であった可能性があるのだ。となると"Le Rougeot"もまた髪の毛に由来するあだ名であったと考えてもおかしくはないだろう。
 結論。ネイのあだ名は(厳密に言えば)"Le Rougeaud"ではない。本来のあだ名は"Le Rougeot"。そしてその名前の由来は、Horricksの指摘とは異なり、顔色ではなく髪の毛の色にある可能性の方が高い。

――大陸軍 その虚像と実像――