1815年6月18日朝
ラ=ベル=アリアンス





最後の閲兵


「重苦しい空気のみなぎるプランスノワでは、ナポレオンがちょっと横になるととたんに砲兵将校たちが報告にきた。
『道が雨のためにすっかりぬかるんでおりますので、きょうはとうてい戦闘はできません。砲がぬかるみにはまって動きがとれなくなります』
 ナポレオンはふきげんそうにまた起き上がって、雨雲の垂れこめる夜空を仰いでいた。『地面がかわくには、十二時間日が照らなければだめです』というのが将校たちの意見である」
長塚隆二「ナポレオン(下)」p558


 1815年6月17日夜。降りしきる雨の中、キャトル=ブラから後退してきたイギリス連合軍はモン=サン=ジャンの丘で足を止め、陣を敷いた。ウェリントンはプロイセン軍による支援の約束を受け、ここでフランス軍の攻撃を食い止める決断をした。
 一方、グルーシーにプロイセン軍の追撃を任せたナポレオンは、残りの部隊を率いてイギリス連合軍を追撃していた。彼は連合軍がモン=サン=ジャンで後退を止めたのを確認し、翌18日に戦闘を行うことを決意した。ナポレオンにとって最後の会戦となるワーテルローの戦いに向け舞台が整いつつあった。
 18日朝、雨は止んだ。ずぶ濡れとなり、泥に塗れた両軍の兵士たちは戦闘に向けて準備を進めた。朝方は曇っていたが昼が近づくにつれて空は晴れ上がり、戦役開始当初から続いていた暑気は収まってきた。だが、フランス軍の攻撃は始まらなかった。時間は刻々と過ぎていった。
 ようやく戦闘開始の合図となる砲声が鳴り響き、フランス軍の最初の部隊がウーグモンの館を目指して前進を始めたのは、正午まであと30分を余すのみになってからだった。この間、前日までにワーヴルで再編を終えたプロイセン軍は、着々とワーテルローの戦場へ接近していた。

 ワーテルローの戦いにおいて攻撃開始時刻が遅かったことはフランス軍にとって致命的だったと、多くの研究者が指摘している。しかも、午前11時半に始まったウーグモンへの攻撃はあくまで陽動に過ぎず、本格的な戦闘は右翼の第1軍団が攻撃を始めた午後1時過ぎまで行われなかった。その頃には既にナポレオンの視界にも戦場に近づくプロイセン軍の姿が見えており、状況は絶望的になりつつあった。
 なぜフランス軍の攻撃開始時刻がこんなにも遅れたのだろうか。Chandlerは以下のように書いている。

「ドルーオ将軍が、地面がまだかなり濡れており砲兵が簡単に機動できないうえに敵に跳弾砲撃を行うのも難しいと指摘し、地面が乾くまで数時間攻撃開始を延期するよう進言した時に、ナポレオンはすぐに同意して主攻撃は午後1時になってから行うよう命じた。この決断はこの日のフランス軍にとって最も致命的なものだった。たとえ不適切な支援しか受けられない歩兵攻撃であっても、この日の午前中にウェリントンに対して実施していれば、ブリュッヒャーは戦闘の行方に影響を与えるには遅すぎる時間にならなければ戦場に到着できず、フランス軍は間違いなく勝ったであろう」
Chandler "Campaigns" p1067

「皇帝は、地面がまだ余りにも濡れているため大砲が簡単に動かせないし跳弾砲撃も実施しにくいというドルーオ将軍の見解に同意した。そこで皇帝は地面が乾くのを待つことに決め、主攻撃は午後1時より前には行わないと宣言した」
Chandler "Waterloo: The Hundred Days" p126


 ぬかるんだ地面は重い大砲の移動を妨げ、当時の砲兵がよく行っていた砲弾を地面に跳弾させて敵を攻撃する手法の効果を減衰させる。だからナポレオンは地面が乾くのを待つため戦闘開始を延期した。この説はChandler以外にも多くの人が唱えている。

「泥濘が大砲の配置を困難にして遅れさせるという、砲兵の専門家であるドルーオ将軍の助言を受け、ナポレオンは攻撃を3時間以上遅らせることを決めた」
Andrew Roberts "Napoleon & Wellington" p167

「彼[ナポレオン]は午前9時の戦闘開始を計画していた。しかし、親衛隊指揮官であるアントワーヌ・ドルーオ将軍とデルロンの両者が、地面が泥濘と化していて砲兵の機動が困難なうえに跳弾も効果を期待しにくいと指摘した。ナポレオンも同意した。攻撃は地面がある程度乾くまで数時間延期された」
Albert A. Nofi "The Waterloo Campaign" p189-191

「またもやかつてのナポレオンとは対照的なことだが、彼はプロイセン軍がウェリントンの来援に向かっているという多くの報告を受け取っていたにもかかわらず、地面がもう少し乾くのを待つために連合軍の戦線に対する攻撃を4時間遅らせることを受け入れた」
Geoffrey Wooten "Waterloo 1815" p52-53


 泥濘と化した地面を理由に攻撃開始時刻が延期されたというこの説は、遡ればセント=ヘレナ島でナポレオン自身が指摘したものに由来するらしい。昔からかなり有名な説だったようで、19世紀から20世紀前半にかけて出版された本にもこの話が紹介されている。

「皇帝自身の口述に由来する戦闘記録によると、攻勢作戦の開始を遅らせた理由の一つが、夜間に降っていた激しい雨の後で軟弱になりぬかるんでいた地面の状態にあったという。砲兵と騎兵の機動が不可能なほどであったため、地面がある程度通常の堅さを取り戻すまでは待つ方が望ましいと考えられた」
William Siborne "History of the Waterloo Campaign" p228

「砲兵士官たちの報告によると、大砲が泥濘と化した戦場を動けるようになるのは数時間が必要であったため、部下の兵たちが早い時間から用意していたにもかかわらずナポレオンは戦闘の準備を遅らせた」
Charles Chesney "Waterloo Lectures" p162

「前日午後と夜における激しい雨のおかげで砲兵が素早く効果的に移動するには柔らかくなりすぎていた地面の状況を踏まえ、ドルーオは2、3時間の延期を進言した。自身砲兵士官であり、砲兵の活用に長けていたナポレオンはこの忠告を受け入れ、主攻撃を午後1時まで延期することを決めた」
John Codman Ropes "The Campaign of Waterloo" p292

「強力なフランス軍砲兵が自由に機動するためには戦場が乾くために待つ方が都合よかった」
Archibald Frank Becke "Napoleon and Waterloo" p172


 多くの研究者は、ナポレオンが地面の状態が好転するまで攻撃開始を遅らせたというこの説を前提としたうえで、彼の判断を批判している。なぜ攻撃開始を遅らせたのか。ぬかるんだ地面が乾くことがそんなに大切だったのか。こうした声は多い。

「それにしても、いかに悪天候のためとはいえ、かなり日が高くなるまでウェリントン攻撃を引き延ばしたのは不可解というよりほかはない。ブリュッハーがグルーシーの追撃をふりきってウェリントンと合流したら、その兵力の差は決定的であるし、そのまえに一刻も早くイギリス・オランダ連合軍を潰滅させる必要があったからである」
長塚「ナポレオン(下)」p558

「砲兵の機動! これが理由で攻撃を延期したというのは、少々解せない。不可能と思われたアルプス越えを行い、イタリアを征服した若きボナパルト将軍と、これが同一人物なのかという疑問が湧く。エジプトへ遠征し、ロシアへの気宇壮大な作戦を展開した将軍が、たかが泥濘のために攻撃開始を延ばすなぞ、ちょっと信じがたい。そういえば『余の辞書に不可能なし』とは、彼の常とう句ではなかったか?
 エミール・ルードヴィヒは言う。これがアウステルリッツの頃のナポレオンならばどうであったかと。ナポレオンは、老け込んでしまったのだ――と。
 仏の歴史家アンリ・ウーセイエは、ナポレオンのエルバ脱出から敗北までを克明に記した大著『1815年』の中で、泥濘による攻撃延期は、砲兵参謀ドルーオ将軍の進言によるものだとしている。ウーセイエは、その詳細な脚注部で、当時の状況が、事実、砲兵の機動には余りに困難であり、ドルーオの進言や、それを受け入れたナポレオンの考えは、実に理性的であったと述べている。但し、これが、ワーテルロー戦の運命を決する延期であったことも、つけ加えている。攻撃開始は実際には正午近くとなり、この間の数時間が、プロイセン軍の来援を許す結果となったというのである」
森谷利雄「大陸軍その光と影 その19」(タクテクス22号)p87


 結果としてワーテルローの戦いはプロイセン軍の到着によってフランス軍の敗北が決まった。もしフランス軍に勝機があるとしたら、プロイセン軍が来援する前にイギリス連合軍を打ち破ることしかない。それだけに、戦闘開始の遅れは致命的だった。ナポレオンに対する批判は基本的にそういう後知恵から出ているものだが、筋は通っている。中にはナポレオンは膀胱炎に伴う熱と痛みで苦しんでいたため「休息する機会を得るために」(David Howarth "Waterloo: A Near Run Thing" p41)攻撃延期に同意したと記している人もいる。

 だが、この地面が乾くのを待つために攻撃開始を遅らせたという説には異論を示す研究者がいる。"The Waterloo Companion"を書いたMark Adkinは次のような指摘をしている。

「この議論の問題点は、地面か乾ききるために数時間にわたる夏の暑い日照が必要であることが容易に判断できる点にある。この時の天候は適当なものではなかった。早朝に雨が止んだ後も雲が空を覆っていた。午前9時の攻撃を11時まで、あるいはたとえ午後1時まで遅らせたとしても、暑い太陽がなければ地面の状態に大きな違いは決して現れない。ナポレオンであれフランス軍の他の誰であれ、少し考えれば確実にそのことに気づいたであろう」
Adkin "The Waterloo Companion" p413


 この日の朝、攻撃延期を決めた時間において空はまだ曇っていた。地面は簡単には乾きそうにない天候状態であった。従って、地面が乾くのを待つために攻撃を遅らせるという判断をナポレオンが下した筈がない。Adkinはそう指摘している。実際、戦場からは少し離れているが、この日のシャルルロワの天候を見ると午前8時時点では雨は止んだもののまだ「曇り」の状態であり、攻撃延期が決まった後の10時半になってようやく「晴れつつある」状況だったという(Nofi "The Waterloo Campaign" p133)。天気予報が発達している現代ならともかく、当時においてはいずれ晴れることを期待して決断を下すのは難しかっただろう。
 ではなぜナポレオンは攻撃開始を遅らせたのか。実は遅らせたのではなく、攻撃を始めたくとも始められなかったのだ、という説がある。フランス軍はナポレオンが予定していた攻撃開始時刻になっても、まだ戦場に到着していなかったのだ。

「しかし、びしょぬれの地面のために兵たちは10時半になってもまだ完全に布陣を終えることができなかったため、ナポレオンは主攻撃をまず朝の11時に、そしてさらに午後1時に延期した」
Alan Schom "One Hundred Days" p280

「既に記した通り、ナポレオンは攻撃を9時に始める計画だった。しかし、その時間になっても動きののろいレイユ軍団はちょうどル=カイユを通り過ぎているところだったし、多くの親衛歩兵とケレルマン、ロボー、デュリュットの部隊はいまだその背後にいた」
Esposito & Elting "Atlas" map163

「午前10時の段階になってようやくフランス軍は戦場の南方に集結し、配置につくための準備が整った」
Andrew Uffindell & Michael Corum "On the Fields of Glory" p152


 この日の午前中、フランス軍が時間をかけて次第に戦場に布陣する様子はイギリス軍にも見えていた。

「午前の時間が過ぎていく中で、ウェリントンの陣で稜線上や前方斜面にいた者たちは、ナポレオンの軍が彼らの稜線上に集められ両軍を隔てる谷間へと下り始めるのを畏怖の念を持って見つめていた」
Philip J. Haythornthwaite "Waterloo Men" p44


 イギリス側のある目撃者は「午前11時には両軍は谷間によって隔てられた場所に布陣した」(James Shaw Kennedy "Notes on the Battel of Waterloo" p85)と述べている。確かにフランス軍もこの時点で大半は布陣を終えたようだが「少数の部隊と重砲兵隊はまだ配置を終えていなかった」(Uffindell & Corum "On the Fields of Glory" p153)。いや、それどころか「もしデュリュットの言葉を受け入れるなら、いくつかのフランス軍部隊は[ウーグモンへの攻撃が始まった]午前11時半になってもまだ配置についていなかった」(Adkin "The Waterloo Companion" p160)
 なぜこれほどまでにフランス軍の布陣は遅れてしまったのだろうか。ナポレオンは会戦前日の夕方、軍に対して翌朝9時に戦闘を始めるために配置につくよう命じている(Peter Hofschröer "1815 The Waterloo Campaign: The German Victory" p70)。だが、実際には命令の実行は困難だった。「前夜をジュナップやグラベや付近の農場で過ごした兵たちは、集結して武器を磨きスープを調理するのに多くの時間を必要とした」(Hofschröer "1815 The Waterloo Campaign: The German Victory" p70)ためだ。

「彼らは戦場から遠いところでは12キロメートルも離れたびしょぬれの野営地に散らばっていた。多くの部隊は薪や食糧を探したり、暖かく雨をしのげる場所を求めて分散していた。フランス軍の憲兵司令官に相当する人物は、あまりに多くの兵が規律に反した行動を取ることを抑えきれなかったために辞任した」
Adkin "The Waterloo Companion" p413

「これらの兵全てが必要な6キロメートルから8キロメートルを移動して配置を終えるにはおよそ4時間半が必要だった。泥まみれな地面のせいで余分な1、2時間が加わり、さらに武器を磨いて食事をするために2時間を要した。(中略)軍は午後1時まで戦闘配置を完了することができなかった。しばしば遅延の理由として指摘される地面の状況は、実際は原因の一部を占めるに過ぎなかった」
Hofschröer "1815 The Waterloo Campaign: The German Victory" p70


 ナポレオンは「たかが泥濘のために攻撃開始を延ばす」つもりなどなかった。彼はいつまでたっても戦場にやって来ようとしない彼の兵士たちを待っていたのだ。そして、ナポレオンは兵たちの配置が完了していないうちに早々に戦闘に踏み切る。「レイユの軍団は、壮年親衛隊と老親衛隊が到着する前にウーグモンに対する陽動攻撃を始めた」(Adkin "The Waterloo Companion" p414)ほどだ。
 ワーテルローのナポレオンは、実に彼らしい行動を取った。彼は部隊の布陣が完了するのを待たずに攻撃を始めたのだ。その前のめりな積極性は過去の彼の作戦行動を特徴づけてきた傾向と同じだ。彼は「老け込んで」などいなかった。この朝も、いつもと同様に積極果敢であったのだ。

――大陸軍 その虚像と実像――