1815年6月18日夕刻
モン=サン=ジャン





壮年親衛隊の前進


 1815年6月18日。日没が近づいた午後7時過ぎ。フランス軍による最後の攻撃が始まった。ブリュッセルへ続く街道の西側でイギリス連合軍に対して行われたこの攻撃は、フランスの帝国親衛隊によって主導されており、ナポレオンにとっては最後の予備を投入した乾坤一擲の攻撃であった。だが、この攻撃は失敗。イギリス連合軍はフランス軍の前進を阻んだ。ツィーテン率いるプロイセン第1軍団が戦場になだれ込んできたのに伴ってフランス軍は壊走。ナポレオンの没落が決定した。
 ただ、この帝国親衛隊による最後の攻撃の詳細は、実はよく分からない。研究者の本を読んでも、書いている人間ごとに異なる展開を指摘しており、結局のところ何がどうなったのか不明な部分が目立つのだ。ワーテルローほど研究されることの多い戦闘であっても、混乱の中で何が起きていたかを100%正確に描き出すことは無理なのだろう。
 従って、以下の文章では通説とそれに対する反論という形ではなく、どれほど議論が混乱しているかを示すことに主眼を置く。いくつかのテーマについてどれほど面倒な議論が繰り広げられているか、その概要を知るだけでもかなり大変であることを実感してもらえればありがたい。

・フランス軍側参加部隊

ナポレオン:[ウェリントンは敗れた。彼は息も絶え絶えだ。今だ! 今こそ老親衛隊を前進させ、そしてブリュッセルへ進むべきだ]
映画ワーテルロー:スクリーンプレイ
 NAPOLEON! (JAPAN)

 帝国親衛隊のうち、この攻撃に参加したのはどの部隊なのか。実は議論百出ではっきりとは分からない。そもそも親衛隊のうち何個大隊が攻撃を行ったかという点についてすら意見は分かれており、Chandlerによると「研究者は4個、5個、6個、8個と様々な数字を示している」(Chandler "Campaigns" p1088)ということになる。実際はもっと多い数を提示している本もあるし、具体的な数字を示していない研究者もいる。
 映画ワーテルローではこの攻撃を行ったのが恰も老親衛隊(Vieille Garde)であるかのような台詞が出てくる。他にもStephen Popeが「無敵の老親衛隊が敗走する光景は他のフランス軍の注意を集めた」(Pope "Dictionary of the Napoleonic Wars" p515)と書いていたり、EspositoとEltingの「アトラス」に「老親衛隊が前進したのに伴い、ナポレオンは彼らをネイに委ねた」(Esposito & Elting "Atlas" map167)と記されている部分があるが、多くの本では攻撃の主役を演じたのは壮年親衛隊(Moyenne Garde)だとしている。

「彼ら[ナポレオンとウェリントン]が相互に最も近づいたと思われるのは、ナポレオンが遂に壮年親衛隊を攻撃に投じようと決断した午後7時半頃だった」
Andrew Roberts "Napoleon and Wellington" p179-180


 もちろん中には「擲弾兵を壮年親衛隊と呼ぶのは間違いだ」(John Codman Ropes "The Campaign of Waterloo" p319 note70)という理由で攻撃の一翼は老親衛隊が担っていたと指摘する向きもあるが、これはどちらかと言うと少数派。Robertsの他にArchibald Frank BeckeやGeoffrey Wootenなども壮年親衛隊という言葉を使っているし、攻撃を受けたイギリス軍の参加者の中にも後にあれは壮年親衛隊だったと証言している向きがある。

「マクレディ少佐、第30連隊
(中略)その場に傷つき倒れていた者たちに話をしたところ、彼らは皆“壮年親衛隊”ということだった」
Herbert Taylor Siborne "Waterloo Letters" p330


 Napoleon in Battleというサイトの"French guard at Waterloo"というページ(著者はM. Ayala, L. Louvain, K. Smithの3人)には、「彼ら[イギリス軍]は老親衛隊ではなく壮年親衛隊を相手に戦った」と記してあり、老親衛隊をイギリス連合軍が撃破したというのは神話に過ぎないと指摘している。最後の攻撃を行ったのは老親衛隊ではなく壮年親衛隊と考えても問題はなさそうだ。

 だが、より踏み込んでどの大隊が攻撃の先頭に立ち、オーアン道路が通る稜線付近で連合軍と戦闘を交えたのかを調べようとすると、事態は錯綜してくる。そもそもそこまで踏み込んで記していない著者が意外と多いのが実情だ。
 例えば19世紀前半にワーテルローの戦いについて詳細な本を記したWilliam Siborneは、親衛隊が大きく「先導縦隊」と「第二攻撃縦隊」で構成されていたと書いている。前者には「第3擲弾兵連隊第1大隊」(W. Siborne "History of the Waterloo Campaign" p339)が含まれていることなどは記しているが、この二つの縦隊がそれぞれ親衛隊のどの大隊によって構成されていたかについては触れていない。
 他にも大雑把な部隊構成のみ述べて具体的な大隊数などを記さない例として、以下のようなものがある。

「そしてこの部隊[攻撃する親衛隊]は最後の斜面に差し掛かった時、合体して再び2つの縦隊になり、一方は[英]第1近衛歩兵[旅団]の正面に、そしてもう一方の比較的小さな部隊は左へと向かった」
David Howarth "Waterloo: A Near Run Thing" p123

「右翼ではフランス擲弾兵が、イギリスのエリート近衛部隊が布陣するラ=エイ=サントのすぐ西にある稜線へ向かって前進してきた(中略)そして左翼のフランス猟兵縦隊も同様に麦畑に隠れていたイギリス軍旅団の奇襲を受けた」
Pope "Dictionary of the Napoleonic Wars" p515


 詳細は不明だが、いずれの記述でも親衛隊が大きく2つの縦隊に分かれて前進してきたことははっきりと指摘されている。だが、この2つの縦隊の中身はどの部隊で構成されていたのか、それぞれいくつの大隊を含んでいたのか、そうした詳細は分からない。

 もちろん、研究者の中には大隊数を述べている者もいる。だが、これを見ていくとさらに事態はややこしくなるのだ。例えばChandler。彼の書いた本の中では、次のような数字が示されている。

「午後7時ごろ、戦闘の第六幕が、恐るべき帝国親衛隊のほとんど1ダースに及ぶ大隊の接近によって幕を開けた」
Chandler "Dictionary of the Napoleonic Wars" p484

「そして、ウーグモンに対峙するために2個大隊を残した後で(中略)壮年親衛隊の残る7個大隊(中略)はブリュッセル道路に沿った進撃路から向きを変え、平野を斜めに横切ってウェリントンの右翼中央へ向けて移動した」
Chandler "Campaigns" p1088


 一方では1ダース、もう一方では7個大隊という数字を掲げたChandlerだが、さらに彼は"Waterloo: The Hundred Days"の中では攻撃に参加した大隊の名を5つ示している。いったいどれが正解なのかと問い詰めたくもあるが、こうした混乱は別にChandlerだけに見られるものでもない。とにかく、著者が違えば数字も変わるのが実態だ。まず、数の大きな方から上げてみよう。

「これら[親衛隊10個大隊]のうち皇帝は2個か3個大隊の小さな予備部隊を彼の軍が布陣する斜面の麓にとどめ、残りを攻撃に送り出した。間隔を置いて2つの縦隊を形成したこの古参兵たちは、厳しい戦いから勝利をもぎ取ることに慣れた不屈の意思を持って前進した」
Charles Chesney "Waterloo Lectures" p178

「右翼には第3擲弾兵連隊の2個大隊、そして第4[擲弾兵連隊]の1個大隊と、第3猟兵連隊の2個大隊と第4[猟兵連隊]の2個[大隊]が続く。第1擲弾兵連隊――老親衛隊の中核――の2個大隊は左翼についた。(中略)攻撃部隊はまず2つ、ついで3つ、最後には明らかに4つの縦隊に分かれた。その間、左翼にあった第1擲弾兵連隊の2個大隊は戦場を半分ほど移動したところで、最後の予備となるため停止した」
Albert A. Nofi "The Waterloo Campaign" p242-245

「2個大隊から成る先行部隊は連合軍の左翼中央へと接近した。第2梯団を構成する5個大隊のうち1つは先行梯団と連携するように動いており、結果としてその一部のように見えていた」
Peter Hofschröer "1815 The Waterloo Campaign: The German Victory" p135

「“暗く揺れる熊皮帽の森”を形作った親衛隊7個大隊の縦隊は、正面75人の隊列で騎馬砲兵2個中隊に支援されて前進したが、やがて――明らかに偶然の結果――2つの縦隊に分かれた」
Alan Schom "One Hundred Days" p290

「この8個大隊(あるいは、多分たったの6個大隊)は、それぞれ正面2個中隊から成る多くの縦隊を構成し、右翼が先頭に立つ梯団を組んだ」
John Codman Ropes "The Campaign of Waterloo" p317


 Chesneyは7個か8個大隊、Ropesは8個あるいは6個大隊と数の一定しない著者もいるが、他の著者たちはいずれも7個大隊と記している。ただ、Nofiが上げているのが第1、第3、第4擲弾兵連隊と第3、第4猟兵連隊の大隊であるのに対し、Hofschröerの本に掲載されている地図では右翼から第3擲弾兵連隊第1大隊、第4擲弾兵連隊の1個大隊、第3猟兵連隊の2個大隊、第4猟兵連隊の1個大隊、そして第2擲弾兵連隊第2大隊、第2猟兵連隊第2大隊の名が記されており(Hofschröer "1815 The Waterloo Campaign : The German Victory" p136)、数が同じでも中身は異なるのが実態だ。
 6個の大隊という数字を挙げている例としては以下のようなものがある。

「ネイ元帥は親衛騎馬砲兵の大砲8門を付き従えた壮年親衛隊6個大隊を率いた」
Andrew Uffindel and Michael Corum "On the Fields of Glory" p133

「第3及び第4猟兵連隊の6個大隊あわせて3000人弱が、道路の西方を前進した。(中略)3個大隊の約1500人が第二線に続いた。この部隊はラムールとモンプ率いる第1及び第2猟兵連隊の各第2大隊と、マルトノー少佐率いる第2擲弾兵連隊第1大隊で構成されていた」
Henry Lachouque "The Anatomy of Glory" p487

「このようにして[連合軍に]撃ち破られた部隊はおそらく第3猟兵連隊第1大隊、第3猟兵連隊第2大隊、第4猟兵連隊(1個あるいは多分2個大隊)と第3擲弾兵連隊第2大隊とで構成されていた。(中略)この[上の部隊とは別に行われた]フランス親衛隊の攻撃は、おそらく第3擲弾兵連隊第1大隊と第4擲弾兵連隊から成るたった2個大隊で行われたにも関わらず、別の攻撃がレイユ麾下の師団によって支援されたのより遥かに緊密な支援をデルロン軍団の戦列歩兵から受けていた」
Jac Weller "Wellington at Waterloo" p148-149


 正確に言えばWellerは6個あるいは7個大隊という数字を挙げているのだが、いずれにせよ6個程度と見る著者もかなりいるのは間違いない。そして、これまたLachouqueとWellerの間で構成する部隊について異なる名前が挙がっている。とにかく書く人ごとに数字も違えば中身も違うというのが、この帝国親衛隊による攻撃についての解説なのだ。
 ただ、その中でおそらく最も多くの著者が掲げている数字は、実は5個大隊というものだ。Chandlerが"Waterloo: The Hundred Days"の中で5個大隊の名前を挙げていることは上に指摘した通りだが、他にも以下のような例がある。

「窮極の攻撃のために皇帝がネイ元帥に与えたのは、壮年親衛隊のたった5個大隊(第3及び第4擲弾兵連隊と第4猟兵連隊の各1個大隊、そして第3猟兵連隊の2個大隊)だけだった」
Becke "Napoleon and Waterloo" p222-223

「真実がどうであれ、おそらく6個大隊のうち1つはラ=エイ=サントの南方の主要道路上に配置され、残る5個大隊は壮年親衛隊の擲弾兵が右翼で先頭に立つ梯団を組み、それぞれの間隔に2門の大砲を配置して斜面を上った」
Wooten "Waterloo 1815" p76

「ウェリントンにとって中央の穴を塞ぐには1時間あれば十分だった。そして親衛隊が攻撃をした際にはその襲撃はたった5個大隊でなされたうえ、彼らは傷つきやすい中央ではなくウーグモンからの縦射を受けるもっと西方の間違った場所へ向かわされた」
Michael Glover "Warfare in the Age of Bonaparte" p168

「ネイは(中略)最初にやって来た5個大隊を投入した」
Esposito & Elting "Atlas" map167

「しかしながら、フランス側の史料は5個大隊に相当する“壮年親衛隊”が攻撃を行ったことを裏付けている」
Phillip J. Haythornthwaite "Waterloo Men" p89

「8個大隊(先導した壮年親衛隊の5個大隊と、他の老親衛隊の3個大隊)が攻撃に投じられ、5個大隊が第一線を、3個大隊が第二線を形成した」
Mark Adkin "The Waterloo Companion" p391

「ヴァンサンヌのフランス軍記録保管所によるとこの攻撃に参加した壮年親衛隊の大隊は以下の通り:
 第1大隊/親衛隊第3擲弾歩兵連隊
 第1大隊/親衛隊第4擲弾歩兵連隊
 第1大隊/親衛隊第3猟歩兵連隊
 第2大隊/親衛隊第3猟歩兵連隊
 第1大隊/親衛隊第4猟歩兵連隊
 ウェリントンの兵に向かって行軍したのは5個大隊」
M. Ayala, L. Louvain, K. Smith "French guard at Waterloo"
Napoleon in Battle

 この他にHenry Houssayeも「同数の方陣を構成した壮年親衛隊5個大隊が右翼を戦闘に梯団で前進した」(Houssaye "Napoleon and the Campaign of 1815" p225)と記している。
 5個大隊という数字を出している著者たちの特徴は、他の数字を掲げているケースと異なり、その中身が一致している点にある。上を見てもBeckeの示した大隊名とAyala、Louvain、Smithのデータが一致していることが分かる。Chandlerが記した5個大隊も、第3擲弾兵連隊第1大隊、第4擲弾兵連隊、第3猟兵連隊第1大隊、第3猟兵連隊第2大隊、第4猟兵連隊(Chandler "Waterloo: The Hundred Days" p161-163)となっており、これもBeckeらと同じだ。Adkinもまた同じ部隊名を記している。

 数字の混乱が出てくる理由は様々だろう。第4猟兵連隊の第1大隊については、「リニーの戦いでプロイセン軍によって与えられた損害のために2個あった大隊が一つにまとめられた」(Ayala, Louvain, Smith "French guard at Waterloo" Napoleon in Battleとの説がある。Haythornthwaiteのように第4擲弾兵連隊と第4猟兵連隊について「おそらくどちらも2つの弱体な大隊によって構成されており、それが7個大隊が参加したとの説につながっているのだろう」(Haythornthwaite "Waterloo Men" p89)と見る向きもある。だが、実際に7個大隊という説を唱えている面々の上げた部隊名を見ると、必ずしもそうとも言えない。そもそも戦闘に参加した者の残した一次史料自体が混乱しているようだ。
 結局のところ、真相は闇の中なのだろう。ただ、これまでのところ、モン=サン=ジャンの稜線上で連合軍と戦闘を繰り広げた帝国親衛隊は、壮年親衛隊の5個大隊だったと考えるのが最も妥当だと思える。これに加えて、AdkinやLachouqueが指摘するように第二線を形成するいくつかの大隊が存在した可能性は高いが、この部隊は稜線上で待ち構えるイギリス連合軍に対する攻撃は行っていないようだ。

・連合軍側参加部隊

「今だ、メイトランド。君の出番だ」
Chandler "Dictionary of the Napoleonic Wars" p484


 帝国親衛隊の攻撃がイギリス連合軍の右翼中央、ラ=エイ=サントとウーグモンの間で行われた点については、どの書物も一致している。連合軍の中でも英第1歩兵師団所属のメイトランド少将率いる英第1歩兵旅団(第1近衛歩兵連隊の第2及び第3大隊で構成)が親衛隊と銃火を交わしたことは、ほぼあらゆる書物の中で紹介されている有名な話だ。
 いや、極端な場合には英近衛部隊の名前しか出てこない場合もある。Chandlerの書いたある本では連合軍側の部隊として登場するのは「イギリスの近衛兵」だけだ(Chandler "Dictionary of the Napoleonic Wars" p484)。Robertsも著作の中で「メイトランドの近衛旅団」とか「第1近衛歩兵」という部隊名以外は何も記していない(Roberts "Napoleon and Wellington" p180)。英近衛部隊こそが帝国親衛隊を追い払った主役になっているのだ。

「弱体化しつつある敵兵の抵抗を排除しつつ、親衛隊は尾根上の戦線を突破し、60ヤード程進撃した。
 そこで彼らは思いもかけぬ反撃にあった。
 尾根の反対側にはなだらかな斜面が広がり、麦が背を伸ばしている。その麦畑の中に、ウェリントンは最後の決戦兵力を伏せておいた。
 メイトランドのイギリス近衛旅団である。(中略)
 麦畑の中で横隊を形成して折り伏していた赤い戦列は、命令一下一斉に立ち上がり、眼前に迫ったフランス親衛隊に向けて銃火の洗礼を浴びせた。(中略)
 面もあげられぬ激しい射撃の前に、攻撃縦隊は動揺した。
『後退、後退!』
 フランス、イギリス両国の近衛隊の勝負は、いとも簡単についた。
 無敵帝国親衛隊が、ついに退却したのである」
森谷利雄「大陸軍その光と影 最終回」(タクテクス第45号)p72


 メイトランド旅団の2個大隊以外に親衛隊と戦った部隊として英語圏で有名なのは、コルボーン中佐率いる第52軽歩兵連隊第1大隊だろう。英第2歩兵師団の英第3歩兵旅団(アダム少将麾下)に所属するこの部隊は、親衛隊の側面を攻撃したことで知られている。Schomのようにメイトランド旅団には全く触れない一方で、「コルボーン中佐の第52連隊が彼ら[親衛隊]の左側面に対して痛烈な射撃とともに襲いかかることで、フランス軍を狼狽させただちにその前進をとめた」(Schom "One Hundred Days" p290)と記す著者もいる。

 だが、これらの部隊だけが親衛隊と戦ったのではない。本によってどこまで詳細に紹介するかに違いはあるものの、メイトランド旅団と第52連隊は親衛隊を撃退した部隊のほんの一部に過ぎないことだけは確かだ。では、具体的にどの部隊が親衛隊と戦ったのだろうか。まず、親衛隊の攻撃が行われた時にウェリントンの右翼部隊がどのような配置についていたかを説明しよう(Adkin "The Waterloo Companion" p392)。ただし、話がややこしくなるので砲兵と騎兵については省略する。
 ブリュッセル道路のすぐ西側にいたのはオムプテーダ旅団で、その背後にキールマンゼーゲ旅団が配置されていた。オムプテーダの西にはクルーゼ少将率いるナッサウ旅団(3個大隊)、その西にブラウンシュヴァイク軍の2個大隊(大隊名は不明)が並ぶ。次に英第3師団のコリン・ハルケット少将率いる英第5旅団が続いており、まず第30連隊第2大隊と第73連隊第2大隊が、そして第33連隊と第69連隊第2大隊が布陣していた。メイトランド旅団はその次で、東に第1近衛歩兵連隊第3大隊、西に同第2大隊がいた。その西側、ウーグモンへと連なる戦線をカバーしていたのが英第2師団に所属するアダム少将の英第3旅団。この部隊は東から西へ第95連隊第2大隊、第52軽歩兵連隊第1大隊、第71軽歩兵連隊、そして第95連隊第3大隊の2個中隊という順番で並んでいた。さらに西方、ウーグモンの背後には英第2師団のヒュー・ハルケット大佐率いるハノーヴァー第3旅団(4個大隊)が展開。そして、連合軍右翼戦線の背後には、最後の予備部隊としてシャッセ中将率いるオランダ第3師団が配置についていた。東側にはデトマー大佐率いる第1旅団(6個大隊)が、西側にはドーブルム少将の第2旅団(6個大隊)がいた。

 以上のうち、オムプテーダ旅団とキールマンゼーゲ旅団についてはどの書物でも親衛隊と戦ったという記述はない。ただし、フランス軍は親衛隊の攻撃にあわせて他の部隊も攻勢に出ており、このあたりの部隊がフランス第1軍団と戦闘を行った可能性は高い。
 次にクルーゼ旅団(ナッサウ第1連隊第1大隊、同第2大隊、ナッサウ後備兵大隊から成る)だが、この部隊がフランス軍と戦闘を交えたと主張している研究者は何人かいる。

「最初の[親衛隊の]梯団が高地にたどり着き、クルーゼのナッサウ兵とかなり士気の低下していたブラウンシュヴァイク兵で構成される連合軍の第一線に接近した。これらの兵たちは動揺しはじめたが、ウェリントン公自身が彼らを落ち着かせた」
Hofschröer "1815 The Waterloo Campaign: The German Victory" p135

「この場にいたブラウンシュヴァイク兵とナッサウ兵はすぐに[親衛隊の攻撃で]後退させられたが、ヴィヴィアンの騎兵部隊によって止められた」
Weller "Wellington at Waterloo" p149


 Ayala、Louvain、Smithも「壮年親衛隊の1個大隊がナッサウ兵3個大隊を破る」(Ayala, Louvain, Smith "French guard at Waterloo" Napoleon in Battleと記して、ナッサウ部隊が親衛隊と戦闘を交えたことを指摘している。どうやらナッサウ旅団の指揮官だったクルーゼ自身が「彼[オラニエ公]は[ナッサウ第1連隊]第2大隊を繰り出し、縦隊を組んで前進させた。残る第1大隊も彼らに加わり、とても勇猛な攻撃が行われた。私はフランス親衛隊が組んだ方陣の一辺が動揺しはじめるのをこの目で見た」(Hofschröer "1815 The Waterloo Campaign : The German Victory" p137)などと書き残しているらしい。
 ただ、ナッサウ兵が親衛隊との戦闘に参加したと書いている著者が少ないのも事実。中にはオラニエ公がナッサウ旅団を指揮して突撃し、マスケット銃弾で負傷したのは、帝国親衛隊の攻撃が始まる前だと記している著者もいる(Uffindel & Corum "On the Fields of Glory" p125-126)。ナッサウ旅団については議論が分かれているようだ。

 それに比べればブラウンシュヴァイクの2個大隊が戦闘に参加したと見る向きは多い。HofschröerとWellerだけでなく、Becke、Nofi、Wooten、Lachouqueらが、ブラウンシュヴァイクの部隊が親衛隊の最右翼部隊と戦闘を交えたことを記している。ChandlerやEsposito & Eltingも同意見だ。

「ラ=エイ=サントに最も近いところでは、第3擲弾兵連隊第1大隊がいくつかのブラウンシュヴァイク兵を撃ち破った」
Chandler "Waterloo: The Hundred Days" p161

「正面と側面に砲撃を浴びながら、最初の大隊はブリュッセル道路のすぐ西で攻撃を行い、ブラウンシュヴァイク兵を壊走させ、ハルケットの打ちのめされた部隊を追い払った」
Esposito & Elting "Atlas" map167


 だが、どの本を読んでもこのブラウンシュヴァイクの2個大隊というのが具体的にどの大隊であったのかは記されていない。ワーテルロー戦役に参加したブラウンシュヴァイク部隊の歩兵は8個大隊(前衛大隊、近衛軽歩兵大隊、第1軽歩兵大隊、第2軽歩兵大隊、第3軽歩兵大隊、第1歩兵大隊、第2歩兵大隊、第3歩兵大隊)あったが、2日前のキャトル=ブラの戦いで指揮官であるブラウンシュヴァイク公を失ったこの部隊はワーテルロー会戦ではウェリントンの都合によってバラバラに予備から前線へと投入されたようで、結果としてどこでどの大隊が戦っていたのかがよく分からないのだ。また、中にはブラウンシュヴァイク部隊は親衛隊と戦っていないとの見方を示す研究者もいる。

 ウェリントンの戦線でブラウンシュヴァイク部隊の次に展開していたのがコリン・ハルケット旅団。この旅団には4個大隊が所属していたが、各大隊ともこれまでの戦闘で大きく損耗していたため、会戦のこの局面では2個大隊が一組になって方陣を組んだりしていたようだ。第30連隊第2大隊と第73連隊第2大隊が東に、第33連隊と第69連隊第2大隊は西に配置された。彼らについてもまた多くの著者が親衛隊との戦闘に参加したことを認めている。

「第30歩兵連隊は(中略)稜線上で方陣を組んでいた。フランス軍の軽砲兵が散弾の射程距離内まで前進してきた時、連隊は尾根の背後へ後退するよう命令された。(中略)こうした事態はフランス軍の縦隊がマスケット銃の射程距離に入る前に生じた。彼らの出現だけが壊走をもたらした。前進する帝国親衛隊の士官たちはその状況を当然のように見ていた」
Howarth "Waterloo: A Near Run Thing" p124


 コリン・ハルケット旅団の兵たちも、親衛隊が自らの方向へ向かって前進してきたことを強く主張している。例えば第30連隊のトーマス・モニペニー中尉は以下のように述べている。

「彼らがいくつの縦隊を組んでやって来たのかは知らないが、我々が彼らの攻撃を受けたことは間違いなく断言できる」
Haythornthwaite "Waterloo Men" p89


 また、コリン・ハルケット旅団と一緒にシャッセのオランダ第3師団が親衛隊と戦ったという話も広く指摘されている。特に活躍したのはデトマー旅団(ベルギー第35猟兵大隊、オランダ第2歩兵大隊、オランダ第4民兵大隊、オランダ第6民兵大隊、オランダ第17民兵大隊、オランダ第19民兵大隊)のようで、英国贔屓のWellerですら渋々ながら「シャッセのオランダ=ベルギー師団に所属するデトマー旅団が、おそらくいい仕事をした」(Weller "Wellington at Waterloo" p149)と書いている。彼らの活躍に焦点を当てたページもある。もっとも、もう一つのドーブルム旅団は戦闘には参加しなかったようだ。

 メイトランド旅団の戦闘参加を疑う向きはいない。アダム旅団のうち、コルボーンの第52連隊が親衛隊の側面を衝いたことも、ほぼ全研究者が認めている。問題はアダム旅団の残る部隊だ。メイトランド旅団と第52連隊の間にいた第95連隊第2大隊についてはあまり言及する人は多くないのだが、Siborneは以下のように指摘している。

「コルボーンの前進を見た彼[ウェリントン]は自分の意図を先取りしたその動きに満足した。そして彼はすぐに第95連隊第2大隊を第52連隊の左翼へと前進させた」
Siborne "History of the Waterloo Campaign" p346


 それに対し、第52連隊の右翼にいた第71連隊については見方が分かれている。第52連隊と並んで親衛隊に攻撃を行ったとの指摘もあるし、そうではなく第52連隊を「支援した」とする研究者もいる。あるいは前進してきた親衛隊を撃退する場面では何の活躍もできなかったと見る向きもある。第71連隊よりさらに西の方にいた第95連隊第3大隊の2個中隊については、親衛隊への攻撃に参加したと見る向きはほとんどいない。

 最後に、アダム旅団よりさらに西に展開していたヒュー・ハルケット旅団についても、一部の部隊が親衛隊と戦ったと記している人がいる。

「第52連隊の銃剣突撃が決着をつけた。ヒュー・ハルケット旅団に所属するオスナブリュック後備兵大隊も、この攻撃に加わった」
Hofschröer "1815 The Waterloo Campaign: The German Victory" p137


 もっとも、この稜線上における戦闘にヒュー・ハルケットのハノーヴァー旅団が参加したと書いているのはHofschröerくらいしかいない。むしろオスナブリュック後備兵大隊が名をあげたのは、壮年親衛隊が敗走した後に残って抵抗していた別の親衛隊大隊を攻撃してカンブロンヌを捕虜にした場面であろう。

 以上、親衛隊の攻撃を撃退するうえで中心的な役割を果たしたのがコリン・ハルケット旅団、メイトランド旅団、アダム旅団というイギリス軍部隊であることは間違いなさそうだ。これにデトマー旅団というオランダ=ベルギー部隊を加えてもいいだろう。他の部隊に関しては、研究者によって見方が分かれているというのが実情だ。

・具体的な戦闘経過

 どの部隊が戦闘に加わったのかについて様々な意見があるそもそもの原因は、具体的な戦闘の経過について研究者たちが異なった見方をしているため。研究者が混乱しているのは、目撃者の証言など一次史料自体が混乱していることが背景にある。
 連合軍側の目撃者は、親衛隊が縦隊で前進してきたと話している。さらに、この縦隊は前進している途中で二つに分かれた。そして、その右翼側を進む部隊がメイトランド旅団によって撃退され、左翼側の縦隊は第52連隊に側面を衝かれて敗走した。このように主張する研究者の代表例としてRopesがいる。

「多分、メイトランド旅団に対する親衛隊の攻撃失敗は、全縦隊の先導大隊であった4個(あるいは3個)大隊を構成していた第3及び第4擲弾兵連隊(老親衛隊)双方を混乱に巻き込んだと見られる。しかし、確実にそうだとは決して言えない。分かっているのは、メイトランドの近衛兵の突撃で戦場から追い払われなかった兵たちの中には、確かに第3及び第4猟兵連隊(壮年親衛隊)がおり、おそらく戦友たちに降りかかった運命を知らないまま、着実にイギリス軍右翼中央へと向かう進路を進んでいた」
Ropes "The Campaign of Waterloo" p323


 親衛隊のうち右翼側の部隊(擲弾兵連隊)がメイトランドと戦い、左翼側(猟兵連隊)はその後で第52連隊に側面を攻撃されたというのがRopesの主張だ。結果として、メイトランドのすぐ東側に布陣していたコリン・ハルケット旅団は親衛隊と戦っていないことになる。事実、Ropesはコリン・ハルケット旅団を攻撃したのは別のフランス軍部隊だと記している。

「事実、この時点におけるハルケット旅団に対するドンズロー[フランス第1軍団]の兵たちの攻撃は極めて激しく、一時は大きな混乱を引き起こした」
Ropes "The Campaign of Waterloo" p322


 だが、コリン・ハルケット旅団に所属する兵たちが、自らも親衛隊と戦ったと主張していたことは上に指摘した通りである。研究者の中にはおそらくそうした主張を勘案した記述をしている人もいる。例えばSiborneがそうだ。

「帝国親衛隊の攻撃縦隊の前進中に、1個大隊が集団から右翼側へ離れ(中略)ハルケットの左翼正面へと向かった」
Siborne "History of the Waterloo Campaign" p341


 Siborneによれば親衛隊の右翼主力はメイトランドと戦い、さらにコリン・ハルケット旅団の第33及び第69連隊も彼らに射撃を浴びせたということになる。左翼が第52連隊に側面を攻撃されたという点はRopesと同じ。加えて、右翼の中の1個大隊がコリン・ハルケット旅団の左翼(第30及び第73連隊)へ向かったことになるから、本当は攻撃部隊は2つではなく3つに分裂したことになる。
 Siborneの書物は特に英語圏でワーテルローに関する第一級の史書と見られたせいか、彼と同じような説明をしている本は他にもいくつか見つかる。

「ラ=エイ=サントに最も近い場所にいたフランス軍の一部による攻撃は、連合軍の大砲とシャッセ将軍の部隊によるマスケット銃の斉射の組み合わせで食い止められ、多くの兵を倒され壊走させられた。さらに西ではフランス軍の一部がオーアン道路の60ヤード以内まで接近したところで、ウェリントンの命令を受けたイギリス近衛部隊が隠れていた斜面の背後から立ち上がった。(中略)そして、僅か20ヤードの距離からイギリスの兵士たちは縦隊の先頭に次々と斉射を行った。(中略)10分も経たないうちに、[左翼側の]猟兵縦隊も同じ運命に見舞われた」
Chandler "Campaigns" p1088-1089

「至近距離から、彼[ウェリントン]のエリート部隊はナポレオンの兵に対し斉射を食らわせ、彼らを止めた。そしてイギリス近衛部隊は銃剣突撃を行い、攻撃のこの部分を押し返した。第30及び第73歩兵連隊による斉射が他の1個大隊を追い払った(中略)。次いでフランス軍の第2梯団がウェリントンの戦線に接近し、アダム旅団に近づいた。第52歩兵連隊がフランス軍の側面へ移動することで、帝国親衛隊の隊列の一部を混乱に陥れた」
Hofschröer "1815 The Waterloo Campaign: The German Victory" p137


 いずれも、事実上フランス軍が3つの部隊に分かれ、それぞれが連合軍に撃退されたことを記している。だが、フランス軍が縦隊で前進してきたというのは基本的に連合軍側の目撃証言に基づくものでしかない。フランスのプティ将軍は、実は別の証言を残している。

「プティは第1擲弾歩兵連隊の2個大隊を指揮していた。彼は親衛隊が隊形を組み前進するのを見ており、後に多くの生存者とも話をしている。彼は以下のように述べている:『彼ら(親衛隊)は(ジュナップ)道路の左側を通り、そこで大隊ごとに方陣を組んだ。例外は2つの第4連隊で、その残存戦力が少なかったためにそれぞれ1つの方陣を組むことになった。(中略)彼らは、既に述べた通り方陣を組んでいたが、お互いに極めて接近していった。(中略)兵はこのようにして駆け足で前進した(中略)そして、敵のマスケット銃による斉射が我々の方陣に突き刺さった』」
Adkin "The Waterloo Companion" p420


 親衛隊はSchomの言うような「正面75人の」縦隊で前進してきたのではない。約600人の大隊が3列の深さで方陣を形成していたのであれば、一辺約50人ほどの正方形の隊列で進撃したことになる。また、それは一部の研究者が記しているように2つ(あるいは右に分離した1個大隊を含めるなら3つ)の梯団を組んで前進したのでもない。参加した大隊ごとに方陣を組んだ以上、少なくとも5つの方陣が連合軍の待ち構える稜線に向かって進んだ筈だ。
 しかし、親衛隊のどの大隊が連合軍のどの部隊と戦い、その結果がどうなったかについては、これまた研究者によって異なる解説をしているのが実情。以下では親衛隊の右翼側(つまり東側)にいた部隊から順番に、各研究者がどのようなことを書いているかを紹介しよう。

 最右翼の大隊は、Ayala、Louvain、Smithによると第3擲弾兵連隊の第1大隊ということになる。彼らによれば、この部隊はまずブラウンシュヴァイク兵とイギリス軍の2個大隊を撃ち破った。

「生き残った者は行進を続け、ブラウンシュヴァイク兵を敗退させて敵のクリーヴスとロイド麾下の砲門を奪った。ブラウンシュヴァイク兵はどうにか“ヴィヴィアンの騎兵旅団の支援と掩護”を受けて再編することができた。一方、擲弾兵は僅かに左へ向かいコリン・ハルケット少将の第5旅団の左側面へ向かった。イギリスの第30歩兵連隊“ケンブリッジシャー”第2大隊(ベイリー中佐指揮の635人)と、第73ハイランド歩兵連隊第2大隊(ハリス中佐指揮の498人)は“混乱に陥り退却した”」
Ayala, Louvain, Smith "French guard at Waterloo"
Napoleon in Battle

 そして次にクルーゼのナッサウ旅団3個大隊が敗れ、最後に予備として控えていたシャッセ師団のデトマー旅団(6個大隊)が突撃して、ようやくこの親衛隊1個大隊を撃退することに成功したという。

「デトマー旅団は第3擲弾兵連隊の大隊方陣に対し、銃剣突撃を行った。勇敢なオランダ人たちは親衛隊を打ち破り、生き残りを斜面の下まで追いやった」
Ayala, Louvain, Smith "French guard at Waterloo"
Napoleon in Battle

 彼らの主張通りなら、この親衛隊1個大隊はブラウンシュヴァイク軍2個大隊、イギリス軍2個大隊、ナッサウ軍3個大隊の計7個大隊を軒並み蹴散らしたうえで、最後にオランダ軍6個大隊によってかろうじて撃退されたということになる。ほとんど神がかりというしかないような活躍ぶりだが、そこまで極端なことを主張する人はそれほど多くない。もう少し地味な展開としては、以下のようなものがある。

「第3擲弾兵連隊第1大隊はブラウンシュヴァイク部隊を圧倒し、一時的に放棄されたロイド少佐率いる王立砲兵隊旅団とクリーヴス大尉の砲兵隊(KGL)を奪った。そして僅かに進路をずらし、ハルケット旅団を圧迫して一緒に方陣を組んでいた第30及び第73連隊を押し込んだ(中略)。そしてシャッセはデトマー旅団(兵力3000人)を送り込み、[砲撃で]弱まっていたフランス軍縦隊の左翼に対し銃剣をかざして突入させた。第3擲弾兵連隊第1大隊は隊列を崩し、撃ち破られ、斜面の底へと放り出された」
Becke "Napoleon and Waterloo" p224

「フランス軍の右翼にいた第3擲弾兵連隊が最初に連合軍の戦線に達し、ブラウンシュヴァイク軍2個大隊とコリン・ハルケット少将の第5旅団を攻撃した。ブラウンシュヴァイク兵は退却し、第30及び第73連隊は動揺した。(中略)シャッセの兵はフランス軍を激しく攻撃して彼らを尾根の下へ追い払い、その間にウェリントンはメイトランド旅団の方へ急いで戻った」
Nofi "The Waterloo Campaign" p246

「先導大隊――壮年親衛隊の第3擲弾兵連隊第1大隊――は斜面の頂上に達し、ブラウンシュヴァイク兵と英第30及び第73連隊の生き残りと遭遇した。擲弾兵は彼らを押し込み、ブラウンシュヴァイク兵は隊列を乱してウェリントン自身がその再編に当たる羽目になった。(中略)しかし、デトマー旅団が再編した第30及び第73連隊の左側を埋め、戦線を維持するため擲弾兵連隊に対し秩序ある突撃を行った」
Wooten "Waterloo 1815" p76


 この他にEsposito & Eltingもフランス軍の最右翼にある1個大隊がブラウンシュヴァイク軍とハルケット旅団を壊走させたが「オランダ=ベルギー旅団と砲兵隊を率いて到着したシャッセが、側面攻撃によってフランス軍を圧倒した」(Esposito & Elting "Atlas" map167)と記している。こうした著者に共通しているのは、第3擲弾兵連隊第1大隊がブラウンシュヴァイク兵とイギリス軍2個大隊相手に勝利をおさめながらも、デトマー旅団の反撃で最終的には壊走したという展開である。
 だが、これが通説かというとそうとも言い切れない。Chandlerは微妙に異なる次のような話を記している。

「ラ=エイ=サントに最も近いところでは第3擲弾兵連隊第1大隊がいくつかのブラウンシュヴァイク部隊を撃ち破ったが、コリン・ハルケット卿は彼の旅団を糾合し、陣地を持ちこたえた。ハルケットは重傷を負って倒れたが、彼はシャッセ将軍がデトマーのベルギー=オランダ旅団を彼の左側に、砲兵隊を彼の右側に展開する時間を稼いだ」
Chandler "Waterloo: The Hundred Days" p161


 ここではコリン・ハルケット旅団は他の著者が記すように擲弾兵連隊の攻撃を受けて後退したりしていない。フランス擲弾兵連隊による成果は、僅かにブラウンシュヴァイク部隊を退却させたことだけに限定されてしまっている。同じような話はHaythornthwaiteも記している。

「親衛隊の右翼に位置する部隊は、第3擲弾兵連隊第1大隊を先頭にコリン・ハルケット旅団の生き残りに向かって前進した。(中略)帝国親衛隊は足を止めて射撃を行い、イギリス軍もそれに応じた。さらに銃剣突撃の準備をしている時、彼らは砲兵が敵に砲撃を浴びせるのとフランス軍が後退するのを硝煙の向こうに見た。(中略)ハルケット旅団は退却するフランス軍をある程度追撃したが、継続的に浴びせられるフランス軍の砲撃から身を隠すため、元いた場所に戻らなければならなかった。(中略)さらに多くのフランス軍が接近してきたのに伴って旅団は4列横隊を組み、その左翼をいくつかのブラウンシュヴァイク部隊が支援した。彼らもまた一度は砲撃を受けて隊列を乱していたが、今は誇り高く陣を守っていた」
Haythornthwaite "Waterloo Men" p89-91


 さらに、実は親衛隊による攻撃はもっと地味なものだったとする研究者もいる。彼らは、そもそも親衛隊の右翼部隊はブラウンシュヴァイク兵とは交戦していないと主張しているのだ。親衛隊の相手はコリン・ハルケット旅団とデトマー旅団だけということになる。

「不幸なことにフランス軍の先導部隊である第3擲弾兵連隊第1大隊がマクレディ[旗手]と第30及び第73連隊の彼の戦友たちに向かって前進してきた場所は、今ではライオンの丘となっている。(中略)まもなくマクレディの隊列は混乱して後退した。幸いなことに『銃剣将軍』と渾名される精力的なオランダの男爵ダヴィド=ヘンドリック・シャッセ中将が、彼の師団に所属するシャルル・クラーマー=ド=ビシャン大尉麾下の砲兵隊を連れてきた。(中略)シャッセはさらにヘンリ=デトマー大佐のオランダ=ベルギー歩兵旅団を戦闘に投入した(中略)。すぐに全ては終わり、第3擲弾兵連隊は敗れた」
Uffindel & Corum "On the Fields of Glory" p133-135

「10分間に及ぶ行進の末、擲弾兵連隊の2個大隊は方陣から4列横隊に隊形を変えたばかりのコリン・ハルケット旅団のマスケット銃射程距離に接近した。彼らの右翼ではドンズローの先頭部隊が、明らかに動揺をきたしているブラウンシュヴァイク兵とその左にいるクルーゼのナッサウ兵に向かって斜面を登っていた。(中略)マクレディによると(中略)『彼ら(親衛隊)は停止し射撃した――要領は悪かったが。我々は斉射を行い――控え銃に戻したうえで――鯨波を上げ突撃をしようとした。消え行く硝煙の向こうに群れを成して逃げ行く帝国軍の背中が見えた時に我々が覚えた驚きは言葉では表せない』(中略)デトマーが突撃した時には、深刻な抵抗は既に排除されており、第30連隊は武器を置いて休息を取ろうとしていた」
Adkin "The Waterloo Companion" p393-397


 彼らの本では親衛隊はブラウンシュヴァイク兵と戦っていない。しかも、Adkinの主張に従えば親衛隊はそもそもコリン・ハルケット旅団の部隊を後退させることにすら失敗している。Ayala、Louvain、Smithの描き出した第3擲弾兵連隊第1大隊の鬼神の如き戦い振りに比べると、一回の斉射だけで退却してしまうAdkinの親衛隊はとても同一の部隊だとは思えないほどだ。たった1個大隊の動向ですら、これだけ様々な見方があるのが現実なのだ。

 フランス第3擲弾兵連隊第1大隊の左翼に展開していたのが第4擲弾兵連隊だ。Ayala、Louvain、Smithによれば元々1個大隊しかなかった部隊となるし、Haythornthwaiteによれば弱体な2個大隊が一まとめになって行動していたという。この部隊がどのように行動していたかについては3つの見方がある。一つは右翼の第3擲弾兵連隊第1大隊と一緒に行動していたとの説。二つ目は左翼側の部隊と協力してメイトランド旅団に攻撃をかけたという説。三つ目が独自に戦闘を行っていたという説だ。
 一つ目の説としては以下のようなものがある。

「彼ら[第3擲弾兵連隊のギルマン大隊と第4擲弾兵連隊のたった1つの大隊]は力を合わせ、死者や残骸、残った生垣などを乗り越え、ブラウンシュヴァイク公とコリン・ハルケット卿の計4個大隊を押し返した」
Lachouque "The Anatomy of Glory" p488

「第3擲弾兵連隊第1大隊と第4擲弾兵連隊は、斜面の最後の数メートルを上ったところで、酷くうち減らされた第30歩兵連隊、第73歩兵連隊、第33歩兵連隊、第69歩兵連隊所属の大隊と直面した」
Adkin "The Waterloo Companion" p393


 これ以外にWellerがフランス軍右翼側の攻撃について第3擲弾兵連隊第1大隊と第4擲弾兵連隊の2個大隊によって実施されたと指摘している(Weller "Wellington at Waterloo" p149)。どの著者もこの2個大隊がコリン・ハルケット旅団らを攻撃したと書いている。
 一方、Chandlerは以下のように記している。

「[第3擲弾兵連隊第1大隊が攻撃を行った]少し西方では、フランス軍第4擲弾兵連隊と第3猟兵連隊第1大隊がオーアン道路の60ヤード以内まで突入していた。低い斜面の背後に伏せて彼らを待ち構えていたのは、メイトランドの近衛旅団だった」
Chandler "Waterloo: The Hundred Days" p161-162


 SiborneやHofschröerのように1個大隊のみが右翼側へ進路を取ったと指摘している著者たちも、ある意味でChandlerと同じ考えだろう。2つめの大隊はメイトランドへ攻撃をしかけたというのがこうした著者たちの理解だ。
 最後に、第4擲弾兵連隊は独自の戦いを繰り広げたとの見方もある。この場合、彼らの相手をしたのはコリン・ハルケット旅団の右翼側(西側)にいた第33連隊と第69連隊第2大隊の2個大隊。だが、双方の戦いぶりについては色々な見方がある。以下の面々は、連合軍がこの攻撃を撃退したと見ている。

「この危機においてコリン・ハルケット卿が手腕を振るった。彼は第33連隊の軍旗を掴み、それを頭上で振り回しながらしっかりと踏み止まった。この行為は兵士たちを落ち着かせ、彼らは第4擲弾兵連隊を撃退した」
Becke "Napoleon and Waterloo" p224

「その間、第4擲弾兵連隊の1個大隊から成る帝国親衛隊第2梯団が第3擲弾兵連隊第1大隊の左翼にやって来て、いまだに4列横隊を敷いていたコリン・ハルケット旅団と白兵戦を繰り広げた。その衝撃で戦線はほとんど崩壊しかかったが、コリン・ハルケット自身が倒れるまで軍旗を掴んで第33連隊を勇気づけたことによってかろうじて持ちこたえた」
Wooten "Waterloo 1815" p76


 それに対し、むしろこの戦闘においてはフランス軍の方が優位にあったと見る者もいる。

「数分後、第2の大隊[第4擲弾兵連隊]が一時的にウェリントンの戦線中央部に突入した」
Esposito & Elting "Atlas" map167

「この[第3擲弾兵連隊第1大隊の攻撃に伴う]血みどろな遭遇戦の間、75メートル西方ではフランス第4擲弾兵連隊が第33及び第69歩兵連隊とぶつかり合っていた。激しい射撃戦で双方の大勢の兵が倒れた。(中略)第4擲弾兵連隊は、両側面の味方部隊が撃退され退却を余儀なくされるまでびくともしなかった」
Uffindel & Corum "On the Fields of Glory" p135

「たった2門の大砲と擲弾兵による射撃を蒙り、英第33歩兵連隊“第1ヨークシャー”(エルフィンストーン中佐、576人)と第69歩兵連隊“南リンカーンシャー”(マットルベリー少佐、565人)は“恐るべき混乱”の中で後退、あるいは退却した。第33及び第69連隊は“酷く撃ち破られ”ハルケットは負傷して倒れた」
Ayala, Louvain, Smith "French guard at Waterloo"
Napoleon in Battle

 対峙した両軍の兵士たちがどのように戦ったのか、ここでもまた話は混乱している。連合軍は敵を撃退したのか、戦線を持ちこたえたのか、それとも手酷くやられて退却したのか。真相はまさに藪の中だ。

 続く第3猟兵連隊の第1及び第2大隊については、多くの著者がメイトランド旅団と戦った部隊であると説明している。もちろん、上にも述べたようにRopesやPopeはフランス擲弾兵部隊がイギリスの近衛部隊と戦闘を交えたと記している。他にChandlerは第4擲弾兵連隊がメイトランド旅団攻撃に加わっていたと記しているし(Chandler "Waterloo: The Hundred Days" p162)、Wellerは第3擲弾兵連隊第2大隊がいたと指摘している(Weller "Wellington at Waterloo" p148)。だが、研究者の多くは擲弾兵連隊はメイトランド旅団攻撃に加わっていないと見ている。

「そして、ちょうど第3猟兵連隊がオーアン道路に到着する直前、彼らは薄く赤い線と直面した。さらなる前進を遮ったのはイギリス近衛部隊だった」
Becke "Napoleon and Waterloo" p226

「道路に沿ってメイトランドの英第1近衛歩兵が4列横隊で折り伏していた。馬に乗ったウェリントンがその背後にいた。第3猟兵連隊が50歩から60歩の距離まで接近するや否や、彼らは正面の黄金色をした麦畑から赤服の壁が立ち上がるのを見た」
Uffindel & Corum "On the Fields of Glory" p136

「次に来たのは第3猟兵連隊だった。メイトランドの近衛兵がちょうど背後に伏せている稜線へ上っていった彼らは、正面に明らかに敵がいないことを見て取った」
Nofi "The Waterloo Campaign" p246

「[オーアン]道路へと接近する彼ら[第3猟兵連隊第1及び第2大隊]の正面には何もいないようだったが、それもウェリントンの声が戦闘の騒音を圧して響き渡るまでだった――“今だ、メイトランド、君の出番だ!”」
Wooten "Waterloo 1815" p77

「次に稜線を攻撃した親衛隊の部隊は第3猟歩兵連隊第1及び第2大隊だった。(中略)フランス軍が25メートルまで近付いたところで[ウェリントン]公は叫んだ。“今だ、メイトランド! 君の出番だ!” ほとんど肩を接するようにして4列横隊を組み、正面250メートル以上に広がった1400人以上の歩兵が立ち上がった。彼らは相手を粉々にするような斉射を放った」
Adkin "The Waterloo Companion" p397


 メイトランド旅団の第1近衛連隊は「1815年7月29日に『近衛擲弾兵連隊』の称号を得た」(Uffindel & Corum "On the Fields of Glory" p136)が、当時はイギリス軍自身がフランス親衛隊の擲弾兵連隊を撃退したのだと誤って信じていたようだ。だが、後にフランス軍側の記録が明らかになるにつれ、彼らが退けた相手の正体は猟兵連隊の2個大隊という見方が広がった。
 なお細かい話であるが、この時ウェリントンがどんな号令をかけたかについてもまた様々な見方がある。Haythornthwaiteによれば「彼の言葉は“起て、近衛兵!”だったかもしれないし、“今だ、メイトランド、君の出番だ!”の可能性もある;グロノー[第1近衛連隊旗手]は“近衛兵、起って突撃!”だったと考えている;しかし有名な“起て、近衛兵、狙え”はおそらく間違いだろう」(Haythornthwaite "Waterloo Men" p93)。要するに正解は分からないということだ。

 そして、おそらく稜線まで進んだ最後の部隊と見られるのがフランス第4猟兵連隊だ。この部隊は梯団を組んで前進するフランス軍の最左翼(そして一番後方)にあった。この部隊の運命については比較的研究者の指摘は似通っている。この部隊はまず、第3猟兵連隊を撃退して前進してきたメイトランド旅団を混乱に陥れ、退却させたようだ。

「イギリス近衛部隊が突撃を続けて丘の斜面をいくらか下ったところでメイトランドは、帝国親衛隊の第2攻撃縦隊が右翼から前進してきており、彼の旅団が側面から迂回される切迫した危機に晒されていることに気づいた。(中略)全大隊は後方へ下がってしまった。後退に伴う混乱は避けられなかった」
Siborne "History of the Waterloo Campaign" p342

「戦友を救出するため前進してきたのは第4猟兵連隊だった。イギリス近衛部隊は足を止め、フランス軍に追撃されながら元いた場所へと戻った」
Becke "Napoleon and Waterloo" p226

「壮年親衛隊の最後の襲撃部隊である第4猟兵連隊が前進してくるメイトランド部隊を押し止めるために到着し、メイトランドの兵たちは混乱の中で稜線へ駆け戻った」
Uffindel & Corum "On the Fields of Glory" p136

「斜面の底近くで追撃により混乱状態になっていた[イギリス]近衛部隊は第4猟兵連隊から成るフランス軍第5梯団にとぶつかり、隊列を乱してかなりの混乱に陥ったままハルケットとアダム旅団の間にある尾根へと駆け戻った」
Wooten "Waterloo 1815" p77

「第5の大隊は猛烈な砲撃の中を押し進み、メイトランドを退却させた」
Esposito & Elting "Atlas" map167

「またもや勝利に酔った銃剣突撃は混乱と慌しい退却に終わった。今回は砲煙の向こうからメイトランドの右側面ぼんやりと姿を現した帝国親衛隊最後の方陣、第4猟兵連隊の到着が原因となった」
Adkin "The Waterloo Companion" p397

「しかしメイトランドの近衛兵は第4猟兵連隊の1個大隊が接近したために突然止まった。第4猟兵連隊は攻撃を行ったフランス親衛隊の最後の梯団だった。
 数の多いイギリス近衛部隊は弱体な敵と白兵戦を演じる代わりに混乱状態に陥り、突撃した時と同じくらいの速さで元いた場所へと斜面を駆け戻った」
Ayala, Louvain, Smith "French guard at Waterloo"
Napoleon in Battle

 メイトランド旅団を慌しく後退させた第4猟兵連隊だが、今度は彼ら自身が側面を衝かれることになった。第4猟兵連隊の左側面に回りこんでそこに攻撃を加えたのは、上にも記した通りコルボーン中佐率いる英第52連隊である。

「私[コルボーン]は左翼の中隊に左旋回するよう命じ、他の中隊もそれに倣うようにした。(中略)この機動によって我々は移動するフランス帝国親衛隊の縦隊とほぼ平行に布陣することになった」
Adkin "The Waterloo Companion" p398


 第52連隊のこの機動については多くの本が記している。

「そして、予想もしなかったことに、コルボーン中佐の第52連隊が左旋回を行い、フランス軍の前進路と平行な位置についた」
Chandler "Campaigns" p1089

「第52軽歩兵連隊の“短気”な指揮官、ジョン・コルボーン中佐は、4列横隊になった彼の連隊を配置についていたところから旋回させた。最左翼の中隊を軸にして、彼は部隊が第4猟兵連隊の西側面と向き合うように回転するべく部下を急がせた」
Uffindel & Corum "On the Fields of Glory" p136

「コルボーンは第52連隊を旋回させ、斜面を登っていた帝国親衛隊最後の梯団の側面を衝き、尾根にあと僅かと迫ったところで突然その動きを食い止めた」
Wooten "Waterloo 1815" p77

「連隊左翼がフランス軍主力縦隊の戦闘と向き合った時、部隊はしばらく動きを止め、それからコルボーンが“左旋回”の命令を下した(中略)そして全戦列は、閲兵場にいるかのように機動し、左へ旋回して帝国親衛隊の側面を向いた」
Howarth "Waterloo: A Near Run Thing" p124-125

「さらに西方、ウーグモンの突出部が遥か南方にある場所では、[ウェリントン]公の命令を予想したコルボーン中佐が同じく4列横隊を敷いた第52連隊第1大隊を帝国親衛隊の左側面に向けて前進させていた」
Weller "Wellington at Waterloo" p147

「その間、彼ら[帝国親衛隊]の左ではコルボーンが(中略)冷静に第52連隊に横隊を組ませ(中略)彼らの側面に向かって前進した」
Chesney "Waterloo Lectures" p179

「第52連隊の中佐であるジョン・コルボーン卿は、一瞬の躊躇もなく自らの責任で行動することを決め、彼の部隊を帝国親衛隊の側面に対し平行に展開すると、すぐに射撃を浴びせた」
Ropes "The Campaign of Waterloo" p323-324


 側面に射撃を受けた第4猟兵連隊はしばらく抵抗したが、やがて持ちこたえられなくなり退却した。最終的には第52連隊を先頭にアダム旅団が突撃を行い、帝国親衛隊を敗走に追い込んだという。第4猟兵連隊の攻撃失敗によって、壮年親衛隊による攻撃は全て撃退されたことになる。
 この戦闘においてむしろ研究者の意見が食い違っているのは、上にも述べたが第52連隊の両側面(左翼は第95連隊第2大隊、右翼は第71軽歩兵連隊)にいた部隊がどこまで戦闘に参加したかである。どちらも第4猟兵連隊の撃退に加わっていたと見ているのがAyala、Louvain、Smithだ。

「ラムジー麾下のイギリス砲兵隊騎馬砲兵部隊(大砲6門)、第95“ライフル銃兵”連隊(長射程のライフルで武装した数百の狙撃兵)、ボルトン麾下のイギリス砲兵部隊(大砲6門)、第71(ハイランド)軽歩兵連隊(936人)と第52軽歩兵連隊第1大隊“オクスフォードシャー”(1130人、ワーテルローでは最大の大隊!)が最後の一撃を加えた。勇敢な猟兵と擲弾兵は“数の圧力に押され”後退した」
Ayala, Louvain, Smith "French guard at Waterloo"
Napoleon in Battle

 もっともこれは少数意見のようだ。例えば第95連隊第2大隊だが、確かに以下のように彼らが第52連隊と並んで戦ったと記している研究者もいる。

「彼の横隊を帝国親衛隊の側面と平行に展開させたコルボーンもまた足を止め、敵に破滅的な射撃を喰らわせた。そして、ほぼ同時に、彼らの左翼へやって来た第95連隊第2大隊のライフル銃兵たちも銃を構え、正確この上ない射撃を縦隊のさらに前方へと浴びせた」
Siborne "History of the Waterloo Campaign" p347


 他にHofschröerが「第95連隊第2大隊も加わった」(Hofschröer "1815 The Waterloo Campaign : The German Victory" p137)と記しているほか、Nofiは「ウェリントンが第95ライフル銃兵連隊のところへ駆けつけ銃剣突撃を命じた」(Nofi "The Waterloo Campaign" p249)と指摘している。ただ、中には以下のように書いている人もいるのだ。

「しかしながら、彼らが行動を始めるより前に、コルボーン中佐が彼の第52連隊と伴に戦闘を決めていた」
Haythornthwaite "Waterloo Men" p93


 第52連隊の右側にいた第71連隊になると、もっと慎重な見方を示す研究者が多い。Hofschröerは彼らが「支援に回った」(Hofschröer "1815 The Waterloo Campaign : The German Victory" p137)としか述べていないし、Beckeも「第71連隊は第52連隊を誇り高く支援した」(Becke "Napoleon and Waterloo" p226)との言い回しにとどめている。Siborneはもっとあからさまだ。

「第71連隊と第95連隊第3大隊[第71連隊の西方にいた部隊]の双方とも、旅団の側面移動を終わらせて実際の突撃が行われるより前に敵に対し射撃を開始することはできなかった」
Siborne "History of the Waterloo Campaign" p348


 要するに第71連隊は親衛隊に対する攻撃に間に合わなかったと言っている。なぜ彼らは第52連隊の機動についていくことができなかったのだろうか。Haythornthwaiteは以下のように書いている。

「こうした混乱の最中にどうやら第71連隊は退却していたようである。ヒル将軍の副官である第34連隊のリチャード・エガートン少佐は大隊指揮官であるトーマス・レイネルに対して、他の部隊も前進しているのだからそれに参加してほしいと懇願し、ようやくそうさせた」
Haythornthwaite "Waterloo Men" p93


 第4猟兵連隊との戦闘を担った部隊の正確な構成については、おそらく真相は分からないままだろう。戦闘の混乱と、帝国親衛隊が退却した後に始まった連合軍全体の前進とを考慮に入れるのならば、何が事実かを確定するのが困難であるのも当然と思われる。とにかくはっきりしているのは、アダム旅団の部隊のいくつかがこの攻撃に参加していたことであろう。

・結論

 親衛隊はなぜ敗北したのか。細かい戦闘の経緯については諸説あるが、負けた最大の理由が数で劣っていたという事実に帰せられることは間違いないだろう。攻撃を行った部隊が何個大隊あったかについて正確に断言はできないが、迎え撃った連合軍より数が少なかったのはほぼ確実である。Adkinによれば、実際に攻撃をしかけた親衛隊の戦力が2850人だったのに対し、連合軍の方はナッサウ旅団やブラウンシュヴァイク部隊を除いても5500人と倍近くに達していたという(Adkin "The Waterloo Companion" p402-403)。いくらエリート部隊でも、数の暴力を前にしては手の打ちようがなかった。

 ワーテルローはナポレオン戦争の中でも特に詳細な歴史が調べられている戦役だろう。まだ戦闘参加者が生きている頃から様々な情報が集められ、まとめられていた。中でもクライマックスと言うべき帝国親衛隊の攻撃は、多くの研究者の関心を呼んで詳細に調査されていたと思われる。にもかかわらず、戦闘の細部については異なる見方を示す人が多い。研究者が多く、著作が増えるほど、意見の不一致もまた広範に見られるようになっているとすら思える。
 元々、歴史の中で起きたある一局面を完全に再現することなど不可能なのだろう。何があったかについては現場に居合わせた人間たちの間ですら異論が存在するのが現実だ。帝国親衛隊の攻撃は、歴史を再現するうえでの困難を象徴的に示す事例なのだろう。

――大陸軍 その虚像と実像――