1807年6月14日
フリートラント





大陸軍、栄光の頂点


「大陸軍公報79号
  ヴェーラウ、1807年6月18日
(中略)その間、ヴィクトール将軍は彼の戦線中央正面に30門の砲兵部隊を送り出した。この砲兵部隊を率いたセナルモン将軍はその部隊を400歩以上も前方に展開させ、敵を大いに苦しめた。ロシア軍が陽動のために試みた様々な機動もすべて無駄であった」
J. David Markham "Imperial Glory" p167-168


 1807年6月。ポーランドの地に冬営していた大陸軍が、再び動き出した。彼らはまずハイルスベルクでロシア軍と本格的な戦闘を交えたが、防御陣地にこもるロシア軍に対して十分な成果を上げることができなかった。ナポレオンは増援を集めたうえで再度攻撃を試みようと考えていたが、ロシア軍の指揮官ベンニヒゼンはその前に撤退した。
 ケーニヒスベルク方面へ移動するロシア軍をフリートラントで捕捉したのはランヌの予備軍団だった。彼らが時間稼ぎをしている間に、ナポレオンは再度部隊の集結を図る。フリートラントへ――フランス軍は続々と戦場へ向かい、マレンゴの戦勝記念日である6月14日の夕方、ついにこの地でロシア軍を捕捉するのに成功した。
 逃げ遅れたロシア軍に対して決定的な一撃を与えるよう命じられたのは、右翼を率いるネイ軍団だった。しかし、ネイはロシア軍の抵抗にあって苦戦する。支援に向かったのは予備として展開していたヴィクトール第1軍団所属のデュポン師団であり、同軍団の砲兵部隊を率いるセナルモンだった。彼らの掩護を受けたネイは戦線を建て直し、やがてロシア軍はこの方面で壊走状態に追い込まれていった。
 フリートラントの敗北後、ロシアもその同盟国であるプロイセンも、もはやフランス軍に反撃する力はなかった。やがてナポレオンはロシア国境のニェーメン河に浮かぶ筏の上でロシア皇帝アレクサンドル1世と講和を結んだ。ティルジットの和約により、欧州大陸でフランス軍と敵対する勢力は消え去った。残されたのは海の向こうで抵抗を続けるイギリスだけだった。

 フリートラントにおけるナポレオンの勝利に、セナルモン率いる第1軍団の砲兵部隊が大きく寄与したことは間違いないだろう。たとえばデュポン師団第32連隊に所属していたフランソワ・ヴィゴ=ルシヨンは次のように記している。

「これを見て皇帝は、デュポン師団長に近衛砲兵隊の砲四十門を送った。皇帝は指揮官ド・セナルモン将軍に、ロシア軍戦線に向かって砲撃せよと命じた。この近衛砲兵隊はヴィクトル隊[第1軍団]の全砲兵隊と合体し、横一線に砲列を敷いて敵に砲撃を浴びせかけた。デュポン全師団四個連隊が一丸となり、砲兵隊について前進し、これを追い越し、ロシア軍砲兵隊を襲撃した」
ヴィゴ=ルシヨン「ナポレオン戦線従軍記」p309


 また、実際に戦闘に参加したと見られるブラールが「セナルモン将軍が指揮する30門の砲兵部隊が(ロシア軍戦線中央部を)強力に叩いた」(Robert Ouvrard "La bataille de Friedland" Histoire du Consulat et du Premier Empireという内容の記録を残しているとの指摘もある。この戦いにおいてセナルモンによる砲撃が大きな成果を上げたことは間違いなさそうだ。
 問題は、彼が具体的にどのような行動をとったかである。Chandlerは彼の行ったことについて、以下のように記している。

「ヴィクトールはこの機会をつかみ、30門以上の大砲を彼の軍団が担当する地域の前方に移動させた。セナルモン将軍に率いられた砲兵は何段階かに分けて大砲を大胆に前進させた。まず1600ヤードの距離から始めたが、すぐに射程距離600歩のところまで接近し、そこで密集したロシア軍に対し致命的な斉射を加えるために足を止めた。少し後、砲兵はロシア軍の最前線から300ヤードへ、さらに150ヤードへと迫り、同じように死を生み出した。最終的に汗まみれになった砲兵は、煙を上げる大砲をベンニヒゼンの歩兵から60歩の距離まで接近させた。この至近距離においてはフランス軍のカニスター弾[散弾]は敵に対して恐るべき破壊をもたらし、一瞬のうちにあらゆる部隊は屠殺されていった。残されたロシア騎兵がこの厚かましく死をもたらす砲兵隊の壊滅を試みたが、よく狙った一斉射撃によって人も馬も叩き伏せられ、味方歩兵と同じ運命に見舞われた。
Chandler "Campaigns" p579


 ここで言う「60歩」とは"60 paces"の翻訳であるが、ヤード法なら50ヤード、メートル法に直すと約45.72メートルになる。まさしく至近距離という言葉に相応しい。近すぎると言ってもいいくらいだ。Chandlerは同じ話を別の本にも載せている。

「ヴィクトールはセナルモン将軍率いる30門の大砲を送り出した。大胆に前進した砲兵は最終的にロシア軍と僅か150ヤードの距離で戦闘を交え、ついにはわずか60歩まで迫った」
Chandler "Dictionary of the Napoleonic Wars" p162


 セナルモンの砲兵が60歩という極限の距離まで敵に接近したというChandlerの説は、おそらくFrancis Loraine Petreの本が元ネタになっているのだろう。Petreは次のように書いている。

「混乱はセナルモン率いる38門の大砲によってさらに助長された。6門を予備に置き、ラウーセイユの騎兵と歩兵1個大隊に支援されたセナルモンは着実に前進し、まず600歩の距離から砲撃を始め、それから300、150歩と近づいて最後には60歩の距離から砲撃した。ロシア騎兵は彼の砲兵隊に対して破れかぶれの反撃を試みたが、その接近を静かに待ち構えていたフランス軍砲兵はぶどう弾の斉射で敵を薙ぎ倒した」
Petre "Napoleon's Campaign in Poland, 1806-1807" p324


 他の研究者の中にはChandlerらの意見とは異なる見方を示すものもいる。というのも、ここで言われている"60 paces"は、本来は"60 toise"だったと思われるためだ。"60 paces"なら45.72メートルに相当するが、もし"60 toise"ならそれは116.94メートルだ。ヤード法なら130ヤード弱といった距離で、Chandlerらの言う50ヤードとは全然違う距離になってしまう。
 このような判断をしていると見られる研究者の代表例がEltingである。まず彼の「アトラス」を見てみよう。

「ヴィクトール軍団の砲兵指揮官であるセナルモンは既にデュポンを支援するため12門の大砲と伴に前進していた。しかし、これでは不十分だと判断した彼は第1軍団の残る24門の大砲を使用する許可をヴィクトールから得た。6門を予備に残し、彼は残る30門を15門ずつの砲兵部隊に編成し、デュポン師団の側面に展開してその前進に随伴させた。バグラチオン[ロシア軍左翼指揮官]の戦線からおよそ150ヤード離れたところで地形が狭まり、2つの砲兵部隊を合体させる必要が生じた。120ヤードの距離まで接近したところで彼は止まった。ロシア軍砲兵による激しい砲撃を無視し、セナルモンは25分にわたってバグラチオンの歩兵をカニスター弾で破砕し、そのうち4000人を倒し残りをフリートラントの焼け焦げた街路へと追い払った」
Esposito & Elting "Atlas" map81


 約120ヤードという距離は60トワーズとほぼ同距離と考えていいだろう。Chandlerらの見解より距離は倍以上あるものの、砲兵が砲撃する距離としては異常に近いのも事実。実際Eltingは、これだけ接近して砲撃することはそれまでほとんどなかったのだからこの戦いにおいてセナルモンが行ったのは全く新しい戦術である、と主張している。

「ヴィクトール率いる第1軍団の砲兵指揮官アレクサンドル・ド=セナルモン准将が、集中した火力と機動力を組み合わせた新しい砲兵戦術を開陳したのは1807年のフリートラントの戦いにおいてであった。有能な将軍たちは既に一世紀も前から大砲を集中し、固定した砲兵部隊を作ってきた。しかし、この戦いでセナルモンは30門の大砲をロシア軍歩兵から120ヤード以内の距離まで前進させ、ロシア側の激しい砲撃を無視して25分にわたって敵をカニスター弾で叩き、約4000人を死傷させ敵の戦線中央を破壊した」
Elting "Swords around a Throne" p262


 この戦術が新奇であるか否かはともかく、ChandlerとPetre、さらにEltingのいずれもセナルモンがロシア軍に極めて接近して砲撃を行ったと主張している点は共通している。こうした主張はいずれもセナルモンが戦闘後にまとめた報告書に由来しているもののようで、その意味では一次史料に基づく主張と見なせるだろう。
 ただ、ここに問題がある。どうやらセナルモン以外に「至近距離まで接近して砲撃を加えた」と主張している関係者はいないようなのだ。上で紹介したヴィゴ=ルシヨンもブラールも、セナルモンの砲兵が活躍したことは指摘しているが、彼らがどの程度の距離まで接近して砲撃を行ったかについては何も述べていない。敵方であるロシア側の一次史料を見ても同じ傾向がある。例えばイギリス軍から連絡将校としてロシア軍司令部に派遣されていたロバート・ウィルソンの残した記録によると、この砲撃は以下のようになる。

「[午後]5時半、20門の大砲が攻撃開始の合図となる一斉射撃を行い、同時に別の30門の砲兵部隊がロシア軍左翼に砲撃を始めた。
 砲撃についての報告が到着したかしないかのうちにフランス軍の縦隊が森から出発し、右翼の部隊が密集した梯形を組んで駈足で前進してきた」
Robert Wilson "Campaigns in Poland 1806 and 1807" p159


 攻撃を受けたベンニヒゼンが戦闘の翌日に皇帝アレクサンドル宛てに記した報告書では以下のようになる。

「午後3時にはブオナパルテ自身が軍の残りを率いて戦場に到着した。彼は森に守られながら右翼をかなり強化し、6時には新たな攻勢に踏み切って我が軍左翼を掩蔽した40門の大砲で構成した砲兵部隊で砲撃した。我が軍は退却をする必要に迫られた。退却は秩序をもって行われ、我が軍の後衛部隊は全兵士がアルレ河を渡り終えるまで敵の全軍を食い止めた」
Wilson "Campaigns in Poland 1806 and 1807" p250-251


 ウィルソン、ベンニヒゼンのいずれも自軍左翼に対する砲撃についてわざわざ言及しているくらいだから、この砲撃がロシア側にとっても印象深いものであったことは間違いないだろう。だが、両者ともフランス軍砲兵が至近距離まで接近したなどとは一言も書いていないのも事実。Eltingが主張するような「新戦術」が行われたかどうかを裏付ける史料とは言えないだろう。
 実際のところ、セナルモンはどの程度敵に接近したのか。彼自身の主張を除くと他にこの点に触れた一次史料が見当たらない状況では、明確な答えは出せない。ただ、状況証拠から推察することは可能だろう。それを行っているのがRory Muirだ。彼は「セナルモンの砲撃」に関して、以下のような分析を行っている。

「こうした伝統的な話はセナルモン自身が記した戦闘報告書に基づいている。大雑把な概要については、おそらくかなり正確な記述であろう。しかし、細部においては誇張されている可能性があり、特に言及されている距離についてはあまりにも短すぎる。セナルモンの30門の大砲はあわせて2516発の砲弾(1門につき平均84発)を射出したが、このうち僅か368発(約7分の1)だけがカニスター弾だった。彼の大砲が本当に150ヤードから250ヤード以内に接近して砲丸のみを撃ち続けたというのは、カニスター弾が同距離あるいはもっと長い距離からでも射撃できるように作られていることを踏まえるのならば、とても考えられない事態だ。またセナルモンの部隊が蒙った被害も、彼が敵のマスケット銃の射程距離内まで接近したという話を支持しない。何しろ戦死したのは士官1人と兵10人、負傷が士官3人と兵42人だけにとどまっているのだ。ロシア軍が何もせずに殺戮されるのを待っていたことも考えられるが、よりありそうなのはセナルモンの豪胆さに関する話が、他の砲兵たちによって見習われることを期待したナポレオンによって助長された、という可能性だろう」
Muir "Tactics and the Experience of Battle in the Age of Napoleon" p40


 Muirの見解はどのくらい妥当性があるのだろうか。ナポレオン時代の戦術について記されたGeroge Nafzigerの"Imperial Bayonets"を参考にしながら少し考えてみよう。
 まずカニスター弾の使用量が少ない点について。Muirが上げている使用したカニスター弾368発という数字はArchibald Frank Beckeが記した資料に基づくもの(つまり二次史料)らしいのでどこまで正確か判断しかねるが、とりあえずこの数字を前提に置くならば30門の大砲がそれぞれ約12発のカニスター弾を撃ったことになる。当時の大砲は最速で1分間に3発の弾丸を発射できたそうだが、これはあくまで訓練などの場合であり、戦場ではもっと頻度が落ちただろう。およそ1分に1発と考えるのなら、12発のカニスター弾は12分で使い切る計算となる。
 では、カニスター弾はどの程度の距離から射撃されたのだろうか。1816年にナポレオン戦争の経験に基づいてスペインで書かれた戦闘の要諦によると、大き目の散弾を使ったカニスター弾は距離1500ヤードから780ヤード(1400メートル弱から700メートル強)で、小さい散弾を使ったカニスター弾は780ヤード以下で使うべきだとある("Imperial Bayonets" p268)。Chandlerによるとセナルモンの砲撃は最初は1600ヤードから始められたそうで、この段階ではカニスター弾の射程距離外であるが、その後は全部カニスター弾を撃ってもいい距離になる。Eltingの言う通り至近距離で25分も射撃を続けていたのなら各大砲ごとに少なくとも25発(全体で750発以上)、その距離まで接近する以前の砲撃分も含めるならさらに多くのカニスター弾が使われている計算になる。だが、実際に使われたカニスター弾は368発だった。
 実際のところ、カニスター弾の命中率はどの程度なのだろうか。国や大砲の種類ごとに違うようだが、様々な調査によると400メートル程度でも10%前後、高い場合は50%ほどにも達していたという("Imperial Bayonets" p258)。いずれにせよ、セナルモンが伝えられているほど敵に接近したのであればカニスター弾の使用量はもっと多くなければおかしい。

 続いて、セナルモンの部隊が蒙った損害を調べてみよう。Muirが上げた死傷者56人という数字も元はBeckeの示したものらしいが、Paddy Griffithは66人としている。セナルモンが使用した大砲は30門だったとの見方が最も多いので、これを前提として彼の部隊全体がどのくらいいたのかを推定しよう。大砲の種類は不明だが、Nafzigerによるとグリヴォーバル・システムを使っていた当時のフランス軍砲兵部隊の人数は12ポンド砲だと1門あたり11人、6ポンド砲なら9人、曲射砲でやはり11人となっている("Imperial Bayonets" p244)。平均10人ほどだとするなら、セナルモンの砲兵部隊全体は約300人おり、このうち2割前後の死傷者が出たという計算になる。
 セナルモンの砲兵部隊は、実際には15門ずつの2個中隊に分けられていた。スペインでは各大砲は隣の大砲と10歩(pace)の間を空けて配置されたという("Imperial Bayonets" p267)。フランスも同程度だったと想定すれば、セナルモンの砲兵部隊は各中隊がそれぞれ140歩(約117ヤード=約107メートル)の範囲に展開していたことになる。
 さて、セナルモンの攻撃を受けたロシア軍の歩兵部隊はどうしていたのだろうか。彼らがこの時にどのような隊形を取っていたのかは分からない。セナルモンが味方騎兵の随伴を受けていれば、ロシア軍は騎兵突撃に備えて方陣を敷くことが必要になっただろうし、そうすればセナルモンの砲兵にとって絶好の目標と化していただろう。実際、Petreは脚注でセナルモンが騎兵を撃退した際に、彼らはフレール旅団の1個大隊と第4竜騎兵師団に支援されていたと指摘している("Napoleon's Campaign in Poland" p324)。しかし、セナルモンがロシア軍歩兵を砲撃していた時に味方騎兵が敵を牽制していたと記している研究者は他にはほとんどいない。もし騎兵の脅威がなかったならば方陣を敷く意味はなくなる。他に歩兵がとれる隊形としては縦隊、横隊、散開などがあるが、長時間にわたる射撃戦を行う場合には一般的に横隊を取ることが多い。ここではロシア軍がセナルモンの砲兵に対し射撃戦を実施しようと待ち構えていたと仮定して話を進める。
 定数を満たしたロシア軍大隊が横隊に展開すると、その幅は368フィート(約110メートル)に達したという("Imperial Bayonets" p43)。ちょうどセナルモンの砲兵中隊が展開した幅とほぼ同一だ。もっとも、実際に戦闘を行ったロシア軍大隊の兵力は定数を割り込んでいただろう。それでもセナルモンの砲兵1個中隊がロシア軍1個大隊を前に置いて砲撃を行ったと考えるのにはそれほど無理はなさそうだ。逆に言えば、ロシア軍側は1個大隊がセナルモンの1個中隊に対して射撃を行ったと考えられる。
 フリートラントの戦いで実際にセナルモンの攻撃を受けたロシア軍の兵力は不明だ。ただ、1806年末時点でポーランド方面に展開していたロシア軍歩兵が147個大隊、7万8000人に達していたことは分かっている(Petre "Napoleon's Campaign in Poland" p38-39)。1個大隊当たり約530人だ。フリートラントの戦い(1807年6月)時点では1806年暮れより損耗していたことは間違いないが、冬営期間中に補充が行われた可能性まで考えれば、極端に1個大隊の兵力が減少したとも考えにくいだろう。ここでは一応、1個大隊500人と想定しよう。
 500人が横隊に展開した場合、射撃できるのは全体の3分の2である(3列横隊のうち第3列は主に銃の装填を担当していた)。つまりロシア軍歩兵は一回の斉射ごとに333人が撃ったことになる。不発などが1割ほどあったと過程すれば、実際に敵に向けて飛んでいった弾丸は約300発だろうか。訓練された歩兵は1分間に5発から6発撃つことができたといわれているが、これも訓練時の数値であり、戦闘時としては1分間に2発程度だったと考えるのがいいだろう。つまり、セナルモンの砲兵1個中隊が1分間に撃たれた弾丸は600発、2個中隊全体では1200発になる。
 セナルモンが最も敵に接近したと言われている120―130ヤードの距離において、歩兵が使っていたマスケット銃の命中率はどの程度だったのだろうか。Nafzigerが実験記録や実際の戦闘などから想定した距離と命中率のグラフ("Imperial Bayonets" p35)に基づいて推測すると、約25%になる。1分の間に1200発が撃たれ、このうち単純に4分の1が命中したならば、それだけで300人、つまりセナルモンの砲兵全員が少なくとも負傷する計算になってしまう。もし25分にわたって砲撃を続けたというのが事実なら、砲兵一人当たり命中弾は25発。死者続出だ。
 もっと慎重な前提を置いてみよう。ロシア軍歩兵は方陣を敷いており(火力は4分の1)、その大隊兵力も250人まで減っていたとする(さらに2分の1)。この場合、命中するのは上の計算の8分の1、つまり1分の間に37.5発となる。だが、それでも25分間も撃っていれば命中弾数は約940発。とても60人前後の死傷者で済むとは思えない。

 もちろん、上の計算は机上の空論に過ぎない。セナルモンの報告が正しく、彼の行ったことが「新戦術」と呼ばれるに相応しい行為であった可能性も残っている。実際、現実の戦場ではNafzigerの想定よりもさらにマスケット銃の命中率は低かったと指摘する研究者もいるのだ。
 デーヴ・グロスマンは「戦争における『人殺し』の心理学」で、ほとんどの人間の内部には同類たる人間を殺すことに強烈な抵抗感が存在するため、たとえ戦場であっても敵を殺せないことが多いと指摘している。第二次大戦中にS・L・A・マーシャルが行った面接調査によると、戦場で実際に発砲していたアメリカ兵は全体の15―20%に過ぎなかったという。加えて、発砲はするものの狙いをわざと外していた兵士も大勢いたようだ。パディ・グリフィスによるとナポレオン戦争や南北戦争の頃の1連隊は、平均30ヤードの射程距離から掩蔽のない敵連隊にマスケット銃を発砲しても、平均して1分に1人か2人しか殺せなかったという。
 もしグロスマンらの指摘が正しいとすれば、セナルモンの部隊が蒙った損害が極めて少なかった理由は、ロシア兵の大半がフランス兵に当たらないように銃を撃っていたためということになる。1個連隊の兵士が30ヤードの距離から撃っても1分に1人か2人しか殺せなかったとすれば、1個大隊の兵士が百数十メートルの距離から25分射撃をして11人しか死者が発生しなかったとしても不思議はない。
 Muirはロシア側が戦闘できないほど混乱していたか、あるいはそもそもそんな距離まで近づいてはいなかったと指摘している。グロスマンらの考えでは、たとえ至近距離でも死者はほとんど出ないということになる。どちらが正しいのか、ナポレオン時代の戦場の実相がどうだったのか、正直言ってよく分からないというのが本音だ。



 海外のナポレオニックサイトNapoleon Seriesの掲示板でセナルモンの報告書と手紙が掲載されていたので、関係する部分を以下に載せる。翻訳に自信がないのでフランス語のままだが、ご容赦願いたい。

・参考1 1807年6月15日付でセナルモンが第1軍団長宛てに記した報告書(抜粋)

... L'artillerie, arrivée à environ 250 toises de l'ennemi, y fit une ou deux décharges, après quoi les pièces, jusque vers la fin du combat, se tinrent constamment à 150 toises et à 100 toises, ne tirant plus qu'à mitraille jusqu'à ce que l'ennemi eut effectué sa retraite après une perte immense d'hommes...
Pertes : 1 officier tué, 3 blessés ; 10 canonniers tués, 42 blessés.
Consommation : 2 516 cartouches, dont 368 à balles.


・参考2 1807年6月26日付で書かれたセナルモンの手紙(抜粋)

... Je portai mes deux batteries pour prendre position à 200 toises au plus de l'ennemi, et après une vingtaine de salves, cet ennemi ne bougeant pas quoique nous vissions ses rangs s'éclaircir de minute en minute, je fis marcher les deux batteries à la prolonge et leur fis prendre position à 60 toises au plus de la ligne russe...

 会戦翌日の報告書では、最初は敵から250トワーズの距離で、その後は150から100トワーズの距離で砲撃を行ったと記しているのに対し、会戦から12日後に記された手紙の中では、最初は200トワーズの距離から砲撃し、最後は60トワーズまで接近したことになっている。

――大陸軍 その虚像と実像――