1800年3月17日
パリ





第一執政ボナパルト


「ナポレオン當時秘書に向ひて曰く、
『汝は我がメラスを敗らんとする地を知れりや』
 と。秘書驚きて知らざる旨を答へしに、彼昂然として、
『さらば伊太利の地図を開け。予之を汝に示すべし』
 と命じ、伊太利の地図を卓上に開かしめ、赤黒のペンに依りて敵軍と佛軍との位置を教え、且つ其の戰略を示して曰く、
『メラスは本營をアレキサンドリアに設く。ゼノア降らざれば予はアルプス山を越えて、彼予の伊太利に在るを偵知する前、其背後に出でヽ墺國との交通を斷ち、スクリビヤの平原に彼を追はん。而して予は彼をサンヂリアノーに破らん』
 と。これ實にかの有名なるマレンゴーの作戰計畫にして、彼は此時既に前途の勝算を胸に刻み居りぬ」
奈翁全傳 第二卷 p415-416


 20世紀初頭に出版されたナポレオン関連の伝記の中で紹介されている上記の挿話は、マレンゴ戦役について書かれた他の本の中にもしばしば登場する。ボナパルトが、戦役の始まる遥か前から、戦役がどのような経過をたどるかについて正確に予測し、指摘していた、というものだ。元ネタはブーリエンヌである。

「[1800年]3月17日(中略)彼[ボナパルト]はショーシャールのイタリア大地図を室内に広げるよう私に求めた。彼はその上に横たわり、私に同じようにするよう求めた。そして彼は、頭部が赤と黒のピンを地図に刺した。私は静かに彼を観察し、少なからざる好奇心と伴にこの戦役計画の結果がどう出るかを待った。敵部隊を配置し、自らの兵を連れて行きたい所に赤いピンをとめたうえで、彼は私に言った。『私がどこでメラスを叩くことになると思う?』――『どうしてそんなことが分かりますか?』――『分からないのか、よく見ろバカ者! メラスはアレッサンドリアに司令部を置いている。ジェノヴァが降伏するまで彼はそこにとどまるだろう。アレッサンドリアには弾薬庫、病院、砲兵と予備がいる。私はアルプスを(グラン=サン=ベルナールを示しながら)ここで越え、メラスに襲い掛かり、彼のオーストリアとの連絡線を遮断し、彼とこのスクリヴィアの平原で接触する(と言って赤いピンをサン=ジュリアーノに刺した)』」
Mémoires de M. de Bourrienne, Tome Quatrième p85-86


 事実だとすればボナパルトは天才というよりほとんど神様である。サン=ジュリアーノは、マレンゴの戦いに関する地図を見れば分かるように、彼がマレンゴ会戦でオーストリア軍に対して逆襲に転じた場所。ブーリエンヌの話が史実なら、ボナパルトはこの場所でメラスを倒すことを実際の戦いの3ヶ月も前から見通していたことになる。でも、神ならぬ人間にそんなことが可能なのだろうか。そもそもブーリエンヌのこの話は信頼できるのか。
 多分できない。それを窺わせるのはブーリエンヌの記述に出てくる「グラン=サン=ベルナール」の文字だ。ブーリエンヌの言い分を信じるなら、ボナパルトは3月中旬の時点で、イタリア遠征の際にグラン=サン=ベルナール峠を越えるつもりだったということになる。だが、1800年中に書かれたナポレオンの命令などを書簡集で見る限り、それはあり得ないのだ。

 まず3月22日に書かれたライン方面軍の戦役計画の中に「ディジョンの予備軍のうち最初の3個師団、およそ歩兵2万4000人と騎兵2000騎はジュネーヴへ向かい、そこからサン=ゴタールを通る」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Sixième. p202)という文章が見つかる。この時点でボナパルトは、グラン=サン=ベルナールではなく、それよりずっと東にあるサン=ゴッタルド峠を越えるつもりだったのだ。
 同じ22日付のモローへの手紙は少し異なっており、「そなたの予備をディジョンの予備軍精鋭と伴に派出し、サン=ゴタールとシンプロンを経てスイスに入り、ロンバルディアの平原でイタリア方面軍と合流して作戦を行う」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Sixième. p204)となっている。サン=ゴッタルドだけではなく、その西方にあったシンプロン峠もアルプス越えの経路に入っていた。だが、グラン=サン=ベルナールは入っていない。
 ボナパルトの考えは4月になっても変わらないままだ。9日付のベルティエへの手紙では「第3に、サン=ゴタールとシンプロンを越える際には、ライネックとフェルトキルヒ方面からのスイスへのどのような侵攻にも耐えられる十分な部隊を残しておくこと。この部隊はそなたがイタリアに入った時にライン方面軍の指揮下に残さなければならない」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Sixième. p214)と書かれており、引き続きサン=ゴッタルドとシンプロンが侵攻ルートであったことが分かる。
 状況が変わったのはようやく4月下旬になってから。24日付の陸軍大臣カルノーへの手紙において、ボナパルトは「可能な限り早く、グラン=サン=ベルナールとシンプロンを通ってピエモンテとロンバルディアへ向かえ」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Sixième. p229)と記している。この時になってようやくグラン=サン=ベルナール経由のルートがボナパルトの選択肢に上ってきた。ブーリエンヌが見たと主張する図上演習の1ヶ月以上も後である。
 4月27日、ボナパルトはベルティエに対して以下のように書いている。「私の計画はもはやサン=ゴタールを通るものではない。ごく当たり前の慎重さで考えるなら、モロー将軍が敵に対して大きな優位を得たときにのみ、この作戦は可能だと見ている」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Sixième. p240)。4月下旬の時点で「もはやそうでない」ということは、それ以前はこの計画がボナパルトの中にあったということだ。それが無理だと判断した後で、初めてグラン=サン=ベルナール越えが彼の視野に入ってきたのである。

 ブーリエンヌの挿話が成立するためには、少なくとも3月17日の時点でボナパルトがグラン=サン=ベルナール越えの作戦を考えていなければいけない。でも実際にその時に彼が考えていたと思われるのは、サン=ゴッタルドとシンプロンを越える侵攻計画。その事実を踏まえるなら、ブーリエンヌが紹介した話の信頼性がどの程度のものかも分かるだろう。

――大陸軍 その虚像と実像――