1806年10月14日
ドルンブルク





敗走するプロイセン軍


「ベルナドット元帥の第I軍団はドルンブルクにいた。北と南からの砲声を聞いていたにもかかわらず、またダヴーからの救援要請を受けたにもかかわらず、彼は動かなかった。第I軍団はそのままゆっくり行軍を続け、一四日の午後四時にようやくアポロダに到着したのである。その頃にはもちろん、イエナでもアウエルシュタットでも戦いは終わっていた。
 (中略)無能により、怠惰により、それともダヴーへの嫉妬により、ベルナドットは作戦と大陸軍を大きな危険にさらしたのである」
有坂純「世界戦史2」p205-206


 1806年10月14日、イエナとアウエルシュタットの戦いでプロイセン軍は壊滅に等しい損害を蒙った。ナポレオン率いるフランス軍主力部隊とイエナ北西の高地で衝突したホーエンローエの後衛部隊及びリュッヘルの部隊は数に勝る敵に立て続けに撃ち破られ、国王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世が同行したプロイセン軍主力はダヴーの第3軍団の激しい抵抗に出会い後退を余儀なくされた。プロイセン軍総指揮官のブラウンシュヴァイク公は重傷。逃走する部隊をフランス軍は執拗に追撃し、プロイセン軍は事実上崩壊した。
 このフランス軍の一方的な勝利の中で何もしなかったと批判を浴びているのが、第1軍団長のベルナドットだ。中でも問題視されているのが、ベルナドットがダヴーの近くにいながら彼を支援しなかったこと。有坂以外にも長塚隆二が「ダヴーととりわけ仲のわるいベルナドット元帥がその左翼に位置しながらまるきり作戦に協力しなかった」(長塚『ナポレオン(下)』p236)と記している。
 日本人の著者が書いていることは、海外で言われていることをそのままなぞったに過ぎない。ベルナドットに対する批判は、洋書を見ていても数多く登場する。もちろん、ChandlerとEltingもその例に漏れない。

「ベルナドットの部隊は全くの無能とポンテ=コルヴォ公[ベルナドットのこと。ChandlerはDukeと記しているがPrinceの誤りであろう]側の想像力の欠如のため、あるいはよりありそうなのは職業上の嫉妬のために、終日誰一人として銃弾を撃ち出すことすらしなかった」
Chandler "Campaigns" p495-496

「彼[ベルナドット]は1805年は十分いい働きをしたが、1806年には故意に命令に従わず、どちらかが災難に見舞われることを期待してナポレオンのイエナでの会戦とダヴーのアウエルシュタットでの戦闘の間で待機した」
Elting "Swords around a Throne" p127

「イエナとアウエルシュテットの両方でベルナドットが不在だったことは、彼自身の利己的で嫉妬深い性格を考えなければ理解不能である。同僚の将軍が得た過酷な成功を簡単で圧倒的な勝利に変えるうえで、彼ほど機会があった指揮官は存在しないだろう。しかしその場合はダヴーと勝利の冠を分け合わねばならず、ましてその大部分がダヴーのものになる点は、ベルナドットには耐えがたいことだった」
Francis Loraine Petre "Napoleon's Conquest of Prussia 1806" p171


 なぜベルナドットは非難を浴びているのだろう。まず多くの著者が指摘しているのが、彼が命令に従わなかったという説である。

「ベルナドットは疑いなくベルティエ[参謀長]が午後10時に送り出し、ダヴー元帥を経由して彼に渡した命令の写しを受け取った筈である。それは、もし第1軍団が前に指示したように既にドルンブルクにいるのでなければ、ダヴーと一緒に行動するように命じていた。事実、ベルナドットはこの命令を受け取った時まだナウムブルクにいた(後に彼自身がそう認めた)にもかかわらず、彼はその内容とダヴーが繰り返した支援要請を無視することを選んだ。彼はドルンブルクへ移動するよう命じたナポレオンの以前の命令を(その精神に従うのではなく)額面通りに実行すると言い張った」
Chandler "Campaigns" p496

「ダヴーはこの命令を文書でベルナドットに伝えた。ベルナドット自身もそれを14日午前4時に受け取ったことを認めている(フーカール第2巻220ページにある彼の10月21日付け書簡を見よ)。一方で彼は、彼自身がまだナウムブルクにいる場合はダヴーと伴に行軍せよとの命令については無視し、ドルンブルク(彼はここに14日午前11時に到着した)からアポルダへ向かう途中の困難について解説するにとどめている」
Petre "Napoleon's Conquest of Prussia 1806" p171-172

「ベルナドットに対する本来の命令はナウムブルク[おそらくドルンブルクの間違い]へ向かうものだった。そしてナポレオンの書簡は、彼とダヴーがもし落ち合うことがあるなら一緒に行軍することを示唆していた。(中略)彼はいつも命令に文字通り従った。二人の元帥の間に失われるような愛情は全くなかったが、ダヴーに対する個人的な反感(ベルナドットは彼が憲兵隊長だった時に自分をスパイしていたと信じる理由があった)がこれほど圧倒的に不利な状況にあるダヴーを来援することを妨げるとは思いもよらなかった」
Ronald Frederic Delderfield "Napoleon's Marshals" p94


 ナポレオンの命令はダヴー経由でベルナドットに伝わった。Chandlerによれば以下のような場面になる。

「[14日]午前1時半ごろ、イエナ南方[北方の誤り]8マイルのところにあるナウムブルクの近くでダヴー元帥は彼の同僚であるポンテ=コルヴォ公を訪ねた。ベルナドットは高慢で尊大だった。彼は険しい顔をしたブルゴーニュ人[ダヴー]に対し、走り書きされた追伸だけを根拠に第1軍団に与えたドルンブルクへの行進命令を変えるつもりはまったくないと押しつけるように告げた。ダヴーはライバルに冷たく厳しい一瞥をくれた。そして、白い羽飾りのついた帽子をぴしゃりと叩くと踵を返し、霧深い夜の中へ歩き出しながら背後のドアを音をたてて閉じた。『仕方ない』と呟きながら彼は鞍に跨り、自らの第3軍団に合流すべく西へ向けて馬に拍車を入れた。決定的に重要な12時間が過ぎた後、ダヴーとその兵たちは永遠の名声を得ることになった。そしてベルナドットは自分自身をほとんど軍法会議送りにするところだった」
Chandler "Jena 1806" p24


 実際に両者が顔を合わせたかどうかは不明だが、この時にダヴーとベルナドットの間で指揮権を巡るやり取りがあったという話も伝わっている。

「プロイセン軍を偵察し、ベルナドットがドルンブルク方面へ向かっても敵に出会うことはないと納得したダヴーは、アポルダへ一緒に行軍するよう提案し、さらに自分自身がベルナドットの指揮下に入ることすら望んだ。しかし、これはベルナドットがナポレオンの命令を文字通りに解釈することを強めただけで、彼は終日敵と出会うことなくドルンブルクへ向かった。その間ダヴーは単独でアウエルシュテットの戦いの圧力に耐え、その戦いはベルナドット不在のため決定的な勝利で終わらなかった」
Karl Marx & Friedrich Engels "Bernadotte" The New American Cyclopaedia

「ジョミニ(第2巻290ページ)によるとダヴーはベルナドットに一緒に行軍すること、さらにベルナドットが2個軍団の指揮を取ることすら申し出たという。ベルナドットは拒否し、何の役にも立たないドルンブルクへ去っていった。『この説明困難な強情さは、ダヴーと戦闘の成功の両方をほとんど危機に陥れた』」
Ramsay Weston Phippsの脚注 "Memoirs of Napoleon Bonaparte, Volume III" p59

「セント=ヘレナのナポレオンはベルナドットに関する覚書の中で、この元帥はダヴーと一緒に行軍するなら自分が先行することを要求したと述べている。ダヴーはベルナドットの軍団が彼の背後にいたため、彼らが前に出る際に混乱が生じかねないとして反対した。ベルナドットは彼の軍団が1番目でダヴーが3番目であることから自分が優先されるべきだと主張したのである!」
Petre "Napoleon's Conquest of Prussia 1806" p173


 命令違反あるいは無視の次にベルナドットの行為で非難されているのは、ダヴーから離れるように動き始めた彼が、戦闘の砲声が聞こえてきたにもかかわらずダヴー救援に向かおうとしなかった点だ。

「その間、この2つの死に物狂いの会戦の間で、ベルナドットはナウムブルクからドルンブルクへとのんびり歩いていた。行軍の間ずっと背後からダヴーの戦闘の音を聞くことができたが、彼はずっと背中を向けたままだった」
Esposito & Elting "Atlas" map65

「しかしこの論争の最も重要なポイントは、10月14日のベルナドットがアウエルシュテットの砲声を聞いたかどうかにある。もし彼が7マイル以上離れていない場所で8万の兵たちが互いに引き裂きあおうとしていたことを全く知らずに終日過ごしたのであれば、もちろん彼が前進したことも完全に正当化されるだろう。だがもし彼が北方で死に物狂いの戦いが起きていることを知っていたなら、彼が命令書を破り捨て砲声へ向かって行軍しなかったことは言い訳ができない。(中略)1806年10月14日の早朝は確かに霧が深く、この点は音を消すのに効果があっただろう。しかしベルナドットが終日を2つの会戦の中間地点で過ごしてなおどちらの砲声も聞くことができなかったというのを信じることは難しい」
Archibald Gordon Macdonell "Napoleon and his Marshals" p111

「おそらくもっとありそうなのは、ベルナドットは両方の砲声を聞いたがよく考えたうえで安全を重視して命令に文字通り従うことにしたというものだ」
Delderfield "Napoleon's Marshals" p94

「彼[ベルナドット]に向けられたもっとも深刻な非難は、彼は砲声に向かって行軍しダヴーを助けるべきだったというものだろう。もし第3軍団がプロイセン軍に敗れて壊滅させられたならナポレオンは間違いなく彼の指揮権を奪っただろうし、彼の軍事的評判は深刻な危機に陥り、現在のスウェーデン王室は他のフランス将軍の子孫になっていたかもしれない!」
John G. Gallaher "The Iron Marshal" p135


 この時、2人の人間がベルナドットに対してダヴーの救援に向かうよう進言したという。一人はベルナドットと一緒に行軍していた竜騎兵師団長のサユークだ。

「サユークが彼の竜騎兵を転進させダヴーの支援に向かわせることを提案した時[ベルナドットは]断固として彼を黙らせた」
Esposito & Elting "Atlas" map65

「サユークの竜騎兵師団はダヴーの指揮下に置かれていた(ナポレオンからベルティエへの10月12日付け書簡――フーカール第1巻515ページ)が、元帥によるとこの部隊はミュラの手によって13日に彼の指揮下から外れたという(ダヴーからナポレオンへの10月14日付け書簡――フーカール第1巻672ページ)。サヴァリー(第2巻287ページ)は、この騎兵がダヴーに合流するのをベルナドットが止めたと言っている」
Petre "Napoleon's Conquest of Prussia 1806" p150


 もう一人はダヴーの副官だったトロブリアンで、彼はダヴーに派遣されてベルナドットに支援を求めに行ったという。

「ベルナドットに対する最も致命的な証拠は、トロブリアン将軍が当時、ダヴーに対して送ったと宣言している手紙の姿をしている。当時ダヴーの副官であったトロブリアン大尉はこの手紙で、ダヴーへの支援を彼が要請した時にベルナドットはそれを拒否したと報告している。ベルナドットは以下のように述べて彼を引き下がらせた。『元帥のところに戻り、私がここにいるのだから恐れることはないと伝えよ。行け!』」
Gallaher "The Iron Marshal" p134-135

「歴史家はいつもベルナドットとダヴーの間にあった紛争と、ダヴーからベルナドットに対して支援を要求したトロブリアンの報告書について強調する」
François Guy Hourtoulle "Jena, Auerstaedt" p112

「ダヴーの幕僚の一人は、実際にベルナドットが馬に跨っているのを発見し何が起きているかを説明したと主張している。彼によると狂乱したこの伝令に対するガスコン人の静かな反応は、『そこへ行こう!』というものだった」
Delderfield "Napoleon's Marshals" p93-94

「途上で彼はダヴーの副官の一人に追いつかれ、増援を要請された。ベルナドットはどう決断すべきか途方に暮れた。皇帝からの新たな命令を待つべきか、それとも自らの責任で動くべきか? 彼は前者の道を選び、ナウムブルク―ワイマール街道へ向け行軍した」
Friedrich Wencker-Wildberg "Bernadotte" p182

「ダヴーの副官の一人は、午後4時半にザーレ河西岸の高地にあって馬上に跨り幕僚と護衛の騎兵に囲まれたベルナドットを発見したと言っている。そこはアウエルシュテットから約4マイル半離れたところだった。副官が運んだ伝言は、退却する敵を追撃するよう彼に請うものだった。ダヴーの軍団は疲れきっており、馬匹の3分の1は使えなくなっていた。
 ベルナドットは答えた。『元帥に、私がそこへ行くから恐れるなと伝えよ』
 あらゆる状況を考えた時、これは如才のない返答とは言えず、単にダヴーの『惨めなポンテ=コルヴォ』に対する憎しみをより深く、より強く、より苦々しいものにするだけだった」
Macdonell "Napoleon and his Marshals" p112


 そしてもう一つ、ベルナドットの行為で問題視されているのは、彼の行軍速度があまりにも遅かったことだ。

「この機動ですら最もだらしないやり方で実施されており、第1軍団はドルンブルクにたどり着くだけでその日の朝全てを費やし(午前11時頃到着)、それからアポルダまでの8マイルを移動するのにさらに5時間を使って、イエナの戦いが終わった後になってそこに到着した」
Chandler "Campaigns" p496

「ドルンブルクに午前11時に到着した後、彼はゆっくりとぎこちなく河を渡り、町の西方にある高地への坂道をその大砲に登らせた」
Esposito & Elting "Atlas" map65

「彼は8マイルの距離を6時間かけて怠惰に彷徨い、午後4時にアポルダに到着した」
Macdonell "Napoleon and his Marshals" p111-112

「彼は道路が使用するのに困難だったと主張した。にもかかわらず、ホルツェンドルフの分遣隊[プロイセン軍]は13日の夕方にそこをなんとか通り抜けていた。ベルナドットはダヴーもナポレオンも助けなかった。彼は砲撃から十分離れた場所にあって彼の持つ数多くの騎兵から偵察部隊を送り出すことすらしなかった」
Hourtoulle "Jena, Auerstaedt" p112

「しかしながら彼[ベルナドット]の評判にとって不幸なことに、彼は積極的に行動しようとはせずあまりにのろのろと行軍を実行したためいずれの戦場にも支援に間に合うよう到着することに失敗した。
 彼が割り当てられた場所に到着した時、霧は晴れ、明らかに彼はアウエルシュタットの戦闘経過について完全に知ることができた。しかし皇帝から特段命令が来なかったため、彼は再び選べる中ではよい方角としてアポルダへの行軍を決断したが、その行軍はあまりに遅く、遅れを正当化できるような地形が存在することもしたこともない隘路8マイルを6時間もかけて移動し、午後4時になってようやく目的地に到着した」
Frederic Natusch Maude "The Jena Campaign, 1806" p176


 こうした一連の批判の総仕上げとして、ベルナドットに対するナポレオンや同時代人による非難も様々に紹介されている。

「サヴァリーはベルナドットに関するナポレオンの論評を以下のように紹介している。『あまりに憎らしかったので、もし私が彼を軍法会議送りにしていればそれは彼を銃殺するよう命じるのと同じことだっただろう。このことについて彼に話さない方が私にとって良かった。私が彼について悪い話をしなくても、自分が不名誉な行動を取ったと見なされていることに気付くくらいの自尊心はあるものと私は信じていた』(ロヴィゴ公回想録第2巻292ページ)」
Petre "Napoleon's Conquest of Prussia 1806" p174

「ラップは会戦の明後日にナポレオンがイエナで言ったことについて言及している。『ベルナドットは拙い行動をした。彼はおそらくダヴーがこの戦闘で失敗するのを見ることに魅せられたのだろうが、実際にはベルナドットが彼の立場を困難にさせることで、一層彼(ダヴー)に偉大な名誉をもたらした』(ラップの回想録84ページ)」
Petre "Napoleon's Conquest of Prussia 1806" p174

「加えてナポレオンはセント=ヘレナで、ベルナドットを軍法会議にかける命令書にサインしたが個人的な理由で取り下げたとしている」
Petre "Napoleon's Conquest of Prussia 1806" p173

「軍はベルナドットが厳しく罰せられることを望んだが、厳しい叱責だけで済んだ」
Marcellis de Marbot "The Memoirs of Baron de Marbot"
Napoleonic Literature

 これに対し、ベルナドットの声を紹介しているものもある。

「彼[ナポレオン]は私が彼を好きではないのを知っており、私を憎んでいる。しかし、彼が私と話をすれば彼は申し開きを聞くことができだろう。私がただのガスコン人だとすれば、彼はより偉大な人物だ。私はダヴーから命令のようなものを受け取って立腹したかもしれないが、それでも私は義務を果たした」
Louis Antoine Fauvelet de Bourrienne "Memoirs of Napoleon Bonaparte, volumeIII" p58


 しかしベルナドットの言うことに批判派は聞く耳を持たないようだ。ベルナドットはミスをした。彼は皇帝の命令に従わず、砲声が聞こえても支援の申し出あるいは要請があってもダヴーを助けようとせず、おまけにあまりにのんびりと移動していたのでイエナの戦場にも間に合わなかった。彼は軍法会議送りになっても不思議ではなかったが、ナポレオンの縁戚だったこともあって運よく最悪の事態は免れた。それがこうしたベルナドット批判派に共通する見解である。

 本当にそうなのか。決してそうとは言い切れない。ベルナドット批判派に対して反論する声も、実は世の中には多数あるのだ。どこに反論すべき点があるのか、一つ一つの問題ごとに見ていこう。
 まずナポレオンの命令に従わなかったとの批判だ。この点についてきちんと理解するためには、この時ベルナドットが置かれていた状況と、帝国司令部から彼に送られてきた命令とについて順を追って調べる必要がある。
 10月11日夜、ベルナドットの第1軍団はミュラの予備騎兵と伴にゲラに展開していた。ナポレオンの司令部は南西29キロメートル離れたアウマの町にあり、彼はそこで今後の作戦計画について思考を巡らせていた。この時、ナポレオンが書き残したメモが伝わっており、その中でダヴーとベルナドットについては以下のように記されている。

「ノイシュタットからイエナ、5リーグ、ダヴー、14日にアポルダ
 (中略)
 ベルナドット、14日にドルンブルク」
Jean-Baptiste Vachée "Napoleon at Work" p54


 このメモの中には15日の配置について書かれた部隊もある(オープール、クライン、親衛隊、ランヌなど)。つまり、ナポレオンはこの時点で4日後まで含めた部隊の移動計画をある程度想定していたのだ。そして、その計画の中ではダヴーの第3軍団は14日時点でアポルダに、ベルナドットの第1軍団はドルンブルクに展開することになっていた。同じ14日時点の他の部隊を見ると予備騎兵とスールトはイエナ、ネイはカーラ、オージュローはメリンゲンなどとなっている。
 このメモに基づき12日午前4時にナポレオンはベルティエに命令を出した。その中でベルナドットについては以下のように記されている。

「ミュラ公とベルナドット元帥もまたナウムブルクへ、ただしツァイツ街道を通って前進するよう命じよ」
Vachée "Napoleon at Work" p54


 ベルティエはこの命令に従い、同じ時間にベルナドットの参謀長宛てに命令を出している。

「皇帝は貴官が大公[ミュラ]の移動を支援するべきことを意図している。貴官の行軍については彼と調整せよ」
Vachée "Napoleon at Work" p61


 上の命令に従い、ミュラとベルナドットは12日のうちにゲラからツァイツを経てナウムブルクへ向かった。同じ頃、ダヴーもまたミッテル=ペルニッツを発ってナウムブルクへ向かっていた。左側にダヴー、右側にミュラとベルナドットの部隊が並んで北へ向かった格好だ。
 翌13日午前9時、ナポレオンは新たな命令をミュラに出す。

「可能な限り速くベルナドット軍団と伴にドルンブルクの方角へ移動せよ」
Vachée "Napoleon at Work" p253


 ベルナドットはミュラと一緒に行動していたため、彼の部隊もおそらくミュラと一緒にドルンブルクへ向けての移動を開始したのだろう(ドルンブルクへの移動命令は13日午後3時にベルティエから出されたとの説もある)。だが、彼らはその日のうちにドルンブルクへ到着することはできなかった。

「彼[ベルナドット]の軍団は終日行軍していたため、彼は後に命令が来るとの約束をたてにザーレ河右岸のドルンブルクへの街道沿いに兵を休ませた。部隊の最後尾はナウムブルクにあり、彼自身はそこでダヴーと伴に夜を過ごした」
Maude "The Jena Campaign, 1806" p175


 一方、イエナにたどり着いてプロイセン軍との戦闘に向けた最後の準備をしていたナポレオンは夜10時に新たな命令をダヴーに出す。この命令こそがベルナドットに対する批判を巻き起こす原因となったものだ。

「夕方10時に彼[ナポレオン]は新しい命令をダヴーに送った。その大意は以下の通り。『皇帝はプロイセン軍がイエナ高地の上からその背後1リーグに渡ってワイマールまで広がっていることに気づいた。彼は翌朝、攻撃をするつもりである。彼はダヴー元帥に対し、この軍の背後を襲うためアポルダへ前進することを命じる。戦闘に参加することを条件に、どのルートを選ぶかは元帥に任せる』。参謀長がこれに追加した。『もしベルナドット元帥が一緒なら、伴に行軍してもいい。ただし皇帝は彼がドルンブルクで示された場所へ向かうことを望む』」
Vachée "Napoleon at Work" p260


 ベルナドット批判派が注目したのは、ベルティエが追加した部分。この文章を見てPetreは「命令は確かに十分に明白で、この切羽詰った時にアポルダへ真っ直ぐ進むのではなく迂回した道路となる方角であるドルンブルクにいることに関し単に希望を表明したに過ぎない後半部分について、ベルナドットが誤読をしたことは如何なる言い訳も見つけられそうにない」(Petre "Napoleon's Conquest of Prussia 1806" p172-173)と主張した。だが、果たしてPetreが言うほど話は明白だろうか。
 ベルティエの文章を読む限り、彼が「単に希望を表明した」のはむしろダヴーとベルナドットが一緒に行軍してもいいという部分だと解釈する方が妥当ではないか。何しろ皇帝は具体的に「ドルンブルク」という地名を出している。加えて、Petreの本に掲載されている地図を見ても一目瞭然なのだが、ナウムブルクからドルンブルクを経てアポルダへ向かうルートは、ダヴーが進んだナウムブルクからアウエルシュタットを経てアポルダへ向かうルートと距離はほとんど同じ。ドルンブルク経由の道を「迂回」と称するのはむしろ事実を捻じ曲げた指摘である。
 ベルティエの追加文の前にあるナポレオンの命令も重要だ。彼はダヴーにアポルダ行きを命じてはいるが、「どのルートを選ぶかは元帥に任せる」としている。ダヴーがアウエルシュタット経由の道を選んだのは、単にドルンブルク経由の道が既に第1軍団によって塞がれているためだと考えてもおかしくはない。
 ナポレオンのこれまでの命令を見ると、元々14日時点でダヴーをアポルダに、ベルナドットをドルンブルクに向かわせることを予定していたことが分かる。13日夜に出された命令も基本的にこの計画に従ったものと見るべきだろう。そしてベルナドットはそのナポレオンの意図を汲んできちんとドルンブルクへの道を進んだ。ダヴーもまた命じられた通りアポルダへ向かった。その際に彼は他の部隊と同じ道を進んで混雑に巻き込まれるのを避けるため、アウエルシュタット経由の道を進んだ。行軍途上でプロイセン軍主力と遭遇することをダヴーは予測していなかった。もちろんベルナドットも、そしてナポレオンですら、そのような事態は想定外だった。

「ダヴーはアポルダへの行軍に何の困難も想定していなかったため――ナポレオンは彼にプロイセン軍はイエナにいると伝えていた――夜明けにドルンブルクへ行軍するというベルナドットの決断に明らかに賛成した」
Gallaher "The Iron Marshal" p134

「ベルナドットとダヴーはアウエルシュテットの近くで発見した敵の戦力を不幸にも過小評価した。ベルナドットはダヴーから離れても安全だと決めてかかり、皇帝の命令に従ってドルンブルクの方角へ行軍した。昼にかけ、元帥がザーレ河左岸の高地に偵察に出たところ、彼は右翼側のアウエルシュタット近くでダヴーが、そして左翼のイエナ近くで皇帝が敵と交戦しているのを見た」
Wencker-Wildberg "Bernadotte" p182

「10月13日夜、プロイセン軍全部をイエナに追い詰めたと考えたナポレオンは、ベルナドットにナウムブルクから戻ってプロイセン軍の退路を断てと命令を送った。この命令を実行するため元帥は14日夜明けにナウムブルクを発してアポルダへ行進し、道路の状態が悪いにもかかわらずそこへ午後4時に到着して約1000人の捕虜を得た。しかし、ナポレオンは間違いを犯していた。プロイセン軍主力はイエナではなくアウエルシュタットにおり、そこで彼らはダヴーと激しく交戦し撃ち破られた。ダヴーはベルナドットに救援を求めたが、元帥はナポレオンの明確な命令に従い、アポルダへ向かう道を進んだ」
Richard Phillipson Dunn-Pattison "Napoleon's Marshals" p67


 ナポレオンの意図と命令に従ってドルンブルク経由でアポルダへ向かったベルナドット。彼の行動が結果として間違っていたのだとしたら、それはそもそもナポレオンの見通し自体が誤っていたのが原因である。

 次の問題となる「砲声への行軍」についても、批判派に反論するのはたやすい。John Cookはシンプルに問い返している。「彼はナポレオンの砲声に向かって行軍していたのではないのか?」(Cook "Bernadotte 1806 - Is There a Case for the Defence?" Napoleon Series

「もし彼がダヴー[の砲声]を聞いたのであれば、彼は間違いなくイエナの砲声も聞いていたであろう。そして結局のところ、後者は彼がフランス軍主力がいると知っていた場所から聞こえており、その周辺はベルナドットのだけでなく全部の命令がナポレオンの軍を集結させようとしていたところなのだ。たとえダヴーの砲声を聞いていたとしても、彼がそちらへ行軍すべき筋合いはない」
Cook "Bernadotte 1806 - Is There a Case for the Defence?" Napoleon Series

「一つ極めて確かなことがある。即ち、ダヴーと伴にとどまる代わりにドルンブルクへ向かうことで、彼[ベルナドット]は多くの批判者たちより遥かに皇帝の考えをよく把握していたことを示した点がそれだ。彼の兵は既にドルンブルク街道上にあった。彼らはダヴーの後からでなければ戦闘に参加できず、プロイセン軍が単に彼らの優位を上手く利用していればダヴーの敗北を防ぐにはあまりに遅く到着したに違いない。しかしもし皇帝が状況を想定していたように、つまりダヴーの前には単に後衛部隊しかおらずナポレオン自身の前にプロイセン軍の大半がいたとしたら、皇帝がイエナで決定的な勝利を収める限りダヴーに何が起きようと関係なく、皇帝の好む格言『決定的な地点については兵力を強化しすぎることはない』の通りにベルナドットが最短のルートを通って決戦場へ行軍したのは正しいことになる」
Maude "The Jena Campaign, 1806" p176-177


 おまけに、ベルナドットの行動に対してその一番の被害者であった筈のダヴーが、一切批判らしいことを述べていない点も見逃せないだろう。

「ベルナドットに対する憎しみがこの日から始まったのは事実だが、ダヴー自身は彼の公式の書簡集である『第3軍団の作戦』の中でも、彼の個人的な書簡の中でも、同僚の行為を批判しなかった。第1軍団がアウエルシュテットの砲声をはっきり聞いたとしても、その指揮官は皇帝からダヴーを支援するようにとの命令を受けていなかったのだ」
Gallaher "The Iron Marshal" p134-135


 実際、ダヴーの書簡集で戦闘後、最初にベルナドットの名が出てくるのは翌15日になってからだが、そこでは淡々と「ポンテ=コルヴォ公は今、我が軍と敵の間にいる」(Gallica "Correspondance du maréchal Davout, Tome Premier" p280)と触れられているだけである。

 さらに行軍中にベルナドットに対してダヴーへの支援申し出や要請があったという話も問題点が多い。まずサヴァリーについてだが、実は彼は問題の現場に居合わせなかったのだ。

「サヴァリーはナポレオンと伴に終日イエナにおり、この件に関するベルナドットとサユークの会話を直接に知ることは不可能だ。
 さらにEltingですら、サヴァリーはナポレオンにあまりにも入れあげていたため『望んで帝国の汚れ仕事をしていた』と評価している」
Cook "Bernadotte 1806 - Is There a Case for the Defence?"
Napoleon Series

 もう一人のトロブリアンも怪しい。そもそも彼はこの日の午前中、ダヴーと一緒に行動していなかった。

「14日朝6時、とても注意深いダヴーは第3軍団の移動について皇帝に伝えるためトロブリアン大尉を送り出した。トロブリアンはおそらく朝8時から9時の間にラントグラーフェンベルクにいる皇帝に報告を手渡したであろう。彼は昼頃、元帥の下に戻った」
Vachée "Napoleon at Work" p298-299


 アウエルシュタットでは「12時半にプロイセン軍が退却を始めた」(Petre "Napoleon's Conquest of Prussia 1806" p162)のだから、トロブリアンが戻ってきた時は戦闘はほぼ終局を迎えていた筈である。それからベルナドットへ増援の要請に向かったところで、あまり効果はない。
 トロブリアン自身は以下のように語っている。

「アウエルシュテットの戦場を午後3時半に離れ、任務を負って第1軍団に送られたトロブリアン大尉の報告。
 元帥閣下、
 閣下の命に従い、私は乗馬が極めて疲労しているにもかかわらず、そしてどこで会えるかも不確実ながら、元帥ポンテ=コルヴォ公に会うために全力で急ぎました。そして午後4時7分、出発した地点から約1リュー半離れたザーレ左岸の高地で彼を見つけました。そこは私が午前中、皇帝の司令部から戻ってくる時に彼を見たのと同じ場所でした。閣下[ベルナドット]は馬に乗っており、幕僚の一部と護衛の騎兵分遣隊と伴にいましたが、彼の兵は全て休息していました。私はあなた[ダヴー]の命で彼に敵が全面的な退却に転じたことを伝えるために来たことを述べました。敵の動きは私が元帥閣下[ベルナドット]に出会った場所から見ることができました。私は疑いのない事実としてそれを閣下[ベルナドット]に指摘しました。さらに、[第3]軍団は国王自身が率いるプロイセン全軍の攻撃を朝から8時間にわたって支えている間に酷く損害を蒙り、半数が戦闘能力を失ったと付け加えました。従って、あなたの成功を追求するための支援を彼に懇願しました。それなくして、困憊した兵と砲火によって3分の1以下まで減らされた1500騎の騎兵だけでは、あなた[ダヴー]が得た優位を継続する可能性はありません。元帥閣下[ベルナドット]は私を全く歓迎しませんでした。彼は私にまず祖国に対する義務をより果たしている勇者はどちらだと問いかけました。そして私が最も知られている名について言及したところ、彼は言いました。『そなたの元帥の下に戻り、私がここにいるので恐れる必要はないと伝えよ。行け』
 驚きと不快を呼び起こした元帥閣下[ベルナドット]の最後の言葉に対して私が行った精力的な反論についてあなたに繰り返すのは無用だと思います。あなたが私に委ねた任務に関する正確な記録は以上の通りです。
 公[ベルナドット]の答えとその際の口調から、私はそれ以上主張することはできないと考え、閣下[ダヴー]の下に急ぎ戻りました。
 敬具、
 元帥閣下、
 忠実なる部下。
(サイン)トロブリアン」
Le maréchal Davout, Années de Commandement p222-223


 一見もっともらしいが、よく見ると突っ込みどころの多い文章だ。中でも最大の問題は「午前中に見たのと同じ場所」にベルナドットを目撃したと証言している点にある。Vachéeによればトロブリアンはこの日の午前8時―9時の間にラントグラーフェンベルクで皇帝に報告を行い、昼頃にはダヴーの下に戻った。その際に彼はどのルートを通ったのだろうか。普通はまずイエナの町に降り、そこからザーレ河峡谷沿いに北上して、バート・ケーゼンで再びザーレ左岸に渡り、ハッセンハウゼン近くの戦場で戦っていたダヴーの下にたどり着くコースが考えられる。
 このルートを通った場合、「ザーレ左岸」のドルンブルク―アポルダ間にある「高地」にいたベルナドットを目撃する可能性は皆無だ。何しろほとんどザーレ河峡谷沿いに移動しているのだから。もしベルナドットを見かけたのであれば、それはドルンブルクの渡河点でザーレ河を渡るべく悪戦苦闘している姿だったと考えた方が辻褄が合う。もちろん、見晴らしのきかないドルンブルク渡河点(峡谷の底)から遠くアウエルシュテットの戦場を見ることはできないし、そもそも渡河点は「高地」ではない。
 トロブリアンが「高地」でベルナドットを見かけたいならば、午前中に皇帝に出会った後でそのまま丘の上を北方に向かい、レーディゲンまたはレーエステンを通ってツィンメルンへ移動し、そこからドルンブルクの渡河点へ降りていくルートしかないだろう。だが、同日午前10時の時点でホルツェンドルフとサン=ティレールがレーディゲン近くで戦闘をしていた(The Campaign of Jena 1806 Table of Dates参照)ことを考えれば、このルートに現実味がないことはすぐに分かる。ダヴーの司令部へ無事に戻ることが最大の任務であるのに、わざわざ敵のど真ん中へ向かって移動していく必要性は全くない。
 そもそも、トロブリアンが悲憤慷慨してみせるほどダヴーが増援を必要としていたかどうかも怪しい。トロブリアンによれば彼が伝令に出されたのは午後3時だが、Scott Bowdenの"Napoleon's Finest"p61の図を見ると、午後3時時点では既にプロイセン軍の最後の防衛線であるエッカーツベルガ前方の尾根に対するダヴーの攻撃が始まるところだった。状況は圧倒的にフランス軍にとって有利だったし、プロイセン軍が「全面的な退却」に転じているとトロブリアン自身も述べている。
 戦闘が最終的に終わったのは、ダヴーの報告書によると午後4時半("Napoleon's Finest" p75)。たとえ何かの間違いでベルナドットに両軍の戦闘が見えていたとしても、視界に入るのは逃げ惑うプロイセン軍とそれを追うフランス軍の姿だっただろう。「恐れることはない」と励ます必要すらなかったはずだ。必要だったのは追撃。しかし、午後4時過ぎの時点から戦場へ向かったとして、日没までにどれほど効果的な追撃ができたかは疑わしい。
 中にはこのような報告書が存在したこと自体に疑問を呈する向きもある。

「この[トロブリアンの]手紙はブロックヴィユの第2巻222−223ページに言及されている。ブロックヴィユはこれについてトロブリアン将軍から1861年にもらったものだと述べている。だが、この手紙が世に出たのは年老いたトロブリアン(80歳台)がブロックヴィユ侯爵夫人(ダヴーの娘)に利用させた1861年が初めてだ。ヴァンサンヌの戦争文書館に置かれているダヴーの文章の中に手紙の写しがないうえにブロックヴィユの出版物が出た1879年以前に全く参照にされたこともないため、正当なことだが、その信憑性には疑問が示されている」
Gallaher "The Iron Marshal" p364


 残るベルナドットへの批判は、彼の行軍速度が遅かったという話だけである。そしてこれに対しても当然のように反論がある。

「ベルナドットは強行軍の末にドルンブルクに到着した。しかしそこの橋への接近路は極めて険しくしかも狭く、橋を渡るのには多くの時間を要した。行軍に参加していたデュポン将軍は渡河にかかわる途方もない困難を描き出している。『もし実際に成し遂げたのでなかったとしたら、このような道を砲兵が通過できると信じるのは難しかっただろう』とデュポンは記した」
Dunbar Plunket Barton "The Amazing Career of Bernadotte" p186


 道路の困難は想像以上だった、というのが行軍に参加した当事者の言い分だ。しかし、これについては異論も出ている。実際に古戦場をその眼で見てきたPetreはドルンブルク付近の道路について以下のように述べている。

「ドルンブルクから高地へ向かう谷間をザーレ河から見たところ、困難は限られており、少なくともスールトがラウタールで遭遇したようなものはないように見えた。加えて、我々はホーエンローエが13日夕に、明らかにさしたる困難もなく僅かの時間で1個旅団でドルンブルクへと下りそれからさらに登ったことを知っている」
Petre "Napoleon's Conquest of Prussia 1806" p172


 ホーエンローエ麾下のホルツェンドルフ旅団(約5000人)と、ベルナドットの部隊(第1軍団だけで約2万人おり、他に予備騎兵部隊もいた)の移動を同列に論じるのは無理があるだろう。ワーテルローの戦いで増援に駆けつけたプロイセン軍がザーレ河より遥かに小さなラーヌ川にかかる橋を渡るのに多大な苦労と時間を要したことを見ても、批判派が言うほどドルンブルクの橋を通り抜けるのが簡単ではなかった可能性はある。そしてもし橋を通過してドルンブルク左岸の高地に登るまで数時間がかかったのであれば、その後のアポルダへの移動は言われているほどゆっくりしたものではなかったことになる。
 それに、たとえこの時点での移動速度がさして速くなかったとしても、それが軍法会議にかけられるほど重大な失敗でないことは確かだ。そもそもベルナドットはドルンベルク以降どこへ向かうべきなのかについて何の命令も受けていなかった。彼はいわば独断専行でアポルダへ、つまり敵がいると思われる方角へ向かって進んだのである。非難されるべき行動だとは思えない。
 イエナの戦場に間に合わなかったことを批判する向きもあるが、おそらくベルナドットはどう移動しても戦場には間に合わなかっただろう。アウエルシュタットの戦闘が12時半にほぼ決着がついていたのと同様、イエナでも状況が決定的になるのは早かった。

「12時半にはナポレオンは既に激しく交戦している5万4000人の兵に加えて4万2000人の予備(ミュラの騎兵とスールト及びネイの部隊主力)を持っていた。プロイセン軍の全戦線に対する総攻撃が命じられた」
Chandler "Campaigns" p485


 フランス軍の攻撃でプロイセン軍はどんどん後退し、ベルナドットの軍勢から遠くへ離れていく格好になった。たとえベルナドットが本気で戦場に間に合おうと相当の努力を払ったとしても、足の速い騎兵部隊の一部が到着するのが精一杯だったのではないだろうか。それが戦闘の行方に影響を及ぼした可能性はほとんど皆無だ。

 ベルナドットは命令通りに動き、さらには命令の範囲を越え独断専行で困難な道を踏破さえした。だが、彼を待っていたのは非難の嵐だった。なぜか。

「ベルナドット自身はナポレオンの命令を無視しどちらの戦闘にも参加しなかったことで参謀長のベルティエから叱責を受け、あやうく完全な破滅から逃れた」
T. A. Heathcote "Serjent Belle-Jambe" Napoleon's Marshals p28

「ベルナドットに対する嫌悪を表し、かつ自身の失敗を隠すため、皇帝は彼に対しダヴーの支援に行くよう命じたと言い張った。しかしフランス軍の書簡を注意深く調べたところそうした文書は存在しないことが証明された。実際には公式の書簡は完全にベルナドットの嫌疑を晴らしたのである」
Dunn-Pattison "Napoleon's Marshals" p67

「ナポレオンと彼の参謀長であるベルティエ元帥は、今や皇帝を庇うためのもっともらしい説明を探した。彼らは戦場にいなかったベルナドットにそれを見出した。彼らは2つの会戦を協力した行動として描き出し、そしてダヴーの軍をその場合に適合させるためベルナドットはアウエルシュタットのダヴーを支援するよう命じられたことにした」
Barton "The Amazing Career of Bernadotte" p187


 皇帝の失敗を覆い隠すためベルナドットを犠牲の山羊にする。それがナポレオンとベルティエの策だったのだという。実際、サヴァリーやラップを相手にベルナドットに対する非難を繰り返し、セント=ヘレナに流された後もしつこく批判を続けていたのはナポレオン本人である。そしておそらく最初にベルナドットに非難の鉾先を向けたのも彼だ。だが、それは戦闘の直後ではない。実に会戦から10日近くも後になってからの出来事だった。

「ヴィッテンベルク、1806年10月23日
 ベルナドット元帥宛て
 貴官の手紙を受け取った。私は過去について非難し返すことは、それが修復できることではないだけにあまりやったことがない。貴官の軍団は戦場になく、それは私にとって極めて破滅的なものになりかねなかった。極めて正確な命令によれば貴官は、ランヌ元帥がイエナに、オージュロー元帥がカーラに、そしてダヴー元帥がナウムブルクにいたのと同じ日に、ザーレ河の主な渡河点の一つであるドルンブルクにいることになっていた。この命令を実行できなかった場合、私が夜間に伝えたように、もし貴官がいまだナウムブルクにいたのなら貴官はダヴー元帥と伴に行軍し彼を支援しなければならなかった。貴官はこの命令が到着した時、ナウムブルクにいた。貴官には連絡が行った筈だ。だがにもかかわらず貴官はドルンブルクへ戻るため誤った行軍をすることを選び、その結果として貴官は戦闘に参加することなく、ダヴー元帥が敵軍の主攻撃に耐えることになった(後略)」
La Correspondance de Napoléon Ier Histoire du Consulat et du Premier Empire


 実際には上に述べた通り、13日の時点でベルナドットが「ドルンブルクにいることになっていた」というような命令はない。当然ながら14日に彼が「ドルンブルクへ戻る」こともできなかった。ベルナドットは13日時点ではドルンブルクへ向かう途上にあったのだ。そして大陸軍公報を見る限り、ナポレオンは会戦直後の時点ではベルナドットの動向について正しい認識を持っていた。

「大陸軍公報第5号
 イエナ、1806年10月15日
 (中略)[13日時点で]元帥ポンテ=コルヴォ公の軍団はデルンベルク[ドルンブルクの誤り]へ近づくべく行軍していた。
 (中略)元帥ポンテ=コルヴォ公の軍団は敵の後衛部隊がナウムブルクへ向かおうと、或いはイエナへ行こうとも、それに襲い掛かるべくデルンベルクから出撃するよう決められた」
J. David Markham "Imperial Glory" p81


 この文章を読む限り、ナポレオンはベルナドットがドルンブルクに向かっていたことに何の疑問も抱いていなかったように思われる。もし皇帝が13日夜にベルナドットに対して「ダヴーと伴に行軍し彼を支援しなければならない」と伝えていたのであれば、どうして15日の公報でベルナドットがドルンブルクから「出撃するよう決められた」などと記したのだろう。
 さらにその翌日に出た公報でも、ベルナドットを批判する記事はない。むしろそこでは彼が上げた戦果を報告している。

「大陸軍公報第8号
 ワイマール、1806年10月16日夕刻
 敵を追撃している軍の各軍団は相次いで捕虜や装備、大砲、武器弾薬などあらゆるものを得ていると伝えている。ダヴー元帥は30門の大砲を奪ったばかりだ。スールト元帥は3000トンの小麦粉を運ぶ輸送隊を捕らえた。ベルナドット元帥は1500人の捕虜を得た」
Markham "Imperial Glory" p85


 おそらく戦闘が終わった直後はナポレオンもベルティエも事態を完全に把握していなかったのだろう。だが、時間の経過とともに状況は明らかになった。ナポレオンがイエナで破ったのは敵の後衛部隊に過ぎず、主力部隊の逃亡はアウエルシュタットにおけるダヴー麾下の第3軍団の奮闘によってかろうじて阻止されたということが。ナポレオンの判断ミスが明らかになり、帝国首脳部は弥縫策を取る必要が出てきた。その時初めて、ベルナドットの戦闘当日の行動が彼らの目にくっきりと浮き上がってきたのだろう。
 だが、偉大な皇帝の言うことは後の歴史家からも簡単に信用された。ナポレオンの言うことに対して疑問を呈する者が何人も出てきたにもかかわらず、皇帝が主張した「ベルナドットの失敗」説は多くの研究者によって繰り返され、一般に広く知られるようになった。その時に何が起きたのかではなく、それについてナポレオンがどう語ったのかが重要視され受け入れられたのだ。

「『実際に起こったこと』が歴史となるのではなく、『語られたこと』が歴史となっていく」
ナポレオン・ボナパルト
ネイ元帥

 [追記]

 Napoleon SeriesNapoleon Onlineの掲示板に、Foucartの本から引用したベルナドットの報告書が転載されていた。イエナの戦い前後と、それから一週間ほど経過してベルナドットが帝国司令部から批判を受け始めた時に書かれたものだ。まずイエナ会戦前日の報告書を見てみよう。

「ベルナドット元帥から参謀長へ
 ナウムブルク、1806年10月13日、午後6時
 公爵殿、私は今、ちょうどベルク大公[ミュラ]を通じてあなたの士官がダヴー元帥に伝えた手紙を見せられたところです。私はその写しを入手しました。既に私は大公と検討を済ませ、カムブルクとドルンブルクへ移動を続けることで合意しました。兵たちは極度に疲労し食事もしていない状態ですが、私は半時間のうちに出立し真夜中前にはカムブルクへ到着するつもりです。そこで少し兵を休め、翌朝夜明け前にはにはドルンブルクへ到達しヴァイマールでもそれ以外の何処へでも行けるよう備えます。騎兵は夜の間にドルンブルクまで送り出します。プロイセン国王は一昨日の午後8時時点では王妃と伴にいまだヴァイマールにいました。王妃は出発し、マグデブルクへ移動したと見られます。昨日の時点でヴァイマール周辺には5万から6万人の兵がいました。敵軍の移動はマグデブルクへの退却を示しているように思われます。リュッヘル将軍の全部隊は国王の部隊を支援するためアイゼナッハに到着しました。
 追伸。ヴュルテンベルク公は約1万5000人の部隊をハレとその背後に集めています。我々はツァイツで3000袋の小麦粉を奪いました」
Paul Jean Foucart "La campagne de Prusse" p604-605

「ベルナドット元帥から参謀長へ
 ナウムブルク、1806年10月13日、午後8時
 公爵殿、ダヴー元帥がちょうど今、あなたの副官であるペリゴール氏が運んできた本日付の手紙を伝えてくれました。その内容に従うなら、私は本日午後6時にあなた宛に出した手紙に記した移動を取りやめる必要があると考えています。というのも、あなたの命令によればランヌ元帥がこの夕方にイエナ方面で攻撃を受けた場合に限ってダヴー元帥は敵の左翼に対して作戦を行うことになっており、もし攻撃がなければ彼[ダヴー]は皇帝から翌日の行動に関する命令を受け取るであろうと付け加えられているからです。この命令は一般的なものだと考え、私は兵に現在地に止まるよう命じ新たな命令を待つことにしました。
 私は依然、我が全部隊と伴にナウムブルク周辺にいます。皇帝の命令に従い移動を行う準備はできています」
Foucart "La campagne de Prusse" p605-606


 ここから分かるのは、まずベルナドットが帝国司令部からの直接の命令を受け取っていなかったこと、そのため彼は他の指揮官宛の命令を読み、自分に求められる行動を推測しながら行動せざるを得なかったこと、そして彼が13日午後6時に一度はドルンブルク行きを決断しながら2時間後にそれを中止し、その旨を帝国司令部に知らせていたということだ。
 だが、こうした一連のベルナドットの報告が帝国司令部にきちんと到着していたかどうかは定かでない。というのも、上でも話題にした13日午後10時の命令を見る限り、ナポレオンもベルティエもベルナドットの動向について正しい認識を得ていたようには思えないからだ。以下に載せるのはベルナドットの伝記を記したGirod de l'Ainが仏陸軍省のアーカイブから見つけ出したオリジナルの命令文の翻訳だ。従来、この文章は第3軍団の記録には残っていたものの帝国司令部の記録はなくなっていたと思われていたものである。

「イエナ高地の宿営地[1806年10月13日]、午後10時
 ベルナドット元帥はドルンブルク行きの命令を受け取った。彼が既にそこにいることはとても必要なことである。しかしもし彼がナウムブルクにいるのなら、以下のような行動を開始するのが望ましい。即ちもし我々が戦闘をするのであれば、そなた[ダヴー]は持てる全軍団と伴にアポルダへ向かい敵の背後に襲い掛かるようにせよ。アポルダ到着後は砲声の聞こえるあらゆる場所へ向かえ。本日の時点で敵の大軍はその左翼をイエナから1マイルの地点に、右翼をヴァイマールに置いている。行軍によってそなたは敵の背後を真っ直ぐ襲うことになる。おそらくそなたは行軍開始の合図となる砲声を聞くであろうが、敵騎兵の突撃に対処できるよう絶えず注意深く行軍するように。この作戦を実行するにあたり、そなたは適当と思える道路に沿って移動して構わないが、重要なのは戦闘に参加することである。もしベルナドット元帥がそなたと伴にいるのなら、一緒に行軍することもできる。しかし皇帝は、彼[ベルナドット]がドルンブルクで示される場所に行くことを望んでいる。もしイエナから砲声が聞こえる範囲に到達したら、いくつかの砲声を鳴らすように。早い時間に戦闘開始を強いられなかった場合、それが合図になるだろう」
Gabriel Girod de l'Ain "Bernadotte, Chef de guerre et Chef d'État" p230


 この命令文を見る限り、帝国司令部はベルナドットが13日のうちにドルンブルクへ到着したものと考えていたことが窺える。逆にベルナドットにしてみれば、中断したドルンブルクへの移動を継続すべきだったことがこの時点で判明した。かくしてベルナドットはドルンブルクへの移動を再開。しかし、困難な道路のせいなどで彼はイエナ会戦には参加できずに終わった。彼が14日に記した報告書にもその旨が書かれている。

「ベルナドット元帥から皇帝陛下へ
 1806年10月14日、午後4時
 私がアポルダに到着したことを謹んで陛下に報告いたします。右翼方面に砲声を聞き、ダヴー元帥が敵と交戦していると推測した私は、僅かに[歩兵]1個師団と麾下の軽騎兵及び3個連隊の竜騎兵と伴に急ぎ行軍しました。ドルンブルクを去る際に現れた悪路と隘路はほとんど使用不可能で、我々の行軍はかなり遅くなりました。いくつかの弾薬車が破損したのも時間の浪費につながりました。私は後方に置き去りにした兵たちを待つつもりです。新たな命令がない限り、彼らが到着し次第ヴァイマールへの行軍を続けます。ダヴー元帥はまだアポルダへ到着するには程遠い状態です。私は彼と連絡をとるつもりです。敵はアポルダ高地の先にいくらかの兵を置いているようです」
Foucart "La campagne de Prusse" p694-695

「ベルナドット元帥から参謀長閣下へ
 アポルダ、1806年10月14日、午後9時
 公爵殿、私は午後4時すぎに軽騎兵とリヴォー師団と伴にアポルダ高地の南に到着したことを直接皇帝に伝えました。全軍と伴にここへ到着することを妨げた障碍についても、陛下に明らかにしました。ナウムブルクからドルンブルクへの街道には二箇所の隘路がありました。特にザーレを渡った後にあった後者の上り坂は、アルプス山脈の道路に匹敵するものでした。竜騎兵のみが登るだけで6時間かかったと言えば想像がつくでしょう。
 我々は完全に敵の背後にあり、ダヴー元帥が戦っていた敵の全兵力をタイミングのいい移動によって圧倒しました。
 敵は1人の幕僚士官と大砲2門を含む約200人の捕虜を残しました。今夜のうちにデュポン師団とドルーエ師団も合流できると期待しています。翌日には敵が後退したことが確実なブッテルシュタットへ向かいます。
 捕虜の報告によると[プロイセン]国王自身が突撃の指揮をとり、ブラウンシュヴァイク公は負傷したそうです。戦闘後の国王はとても打ちひしがれているように見えました」
Foucart "La campagne de Prusse" p696


 ドルンブルクの隘路を巡る困難については、Napoleon Onlineに載っているEugene Titeuxの"Le Maréchal Bernadotte et la Manoeuvre d'Jena"にも様々な報告書が紹介されている。まず"Journal des marches et cantonnements de la division Dupont"。

「午前3時、我々は幕営地を離れドルンブルクへ向かった。ナウムブルクから1リーグ強移動したところで、略奪された150両の輸送部隊の残骸を発見。50人の護衛部隊を指揮し、自らを守ろうとした士官は負傷して捕虜となった。
「午前6時前後、ナウムブルクからカムブルクへの道の中間で、右翼方向からの強力な砲声が我々の注意を引いた。それは敵と遭遇したダヴー、スールト、ランヌ及びオージュロー元帥の部隊のものだった。彼らは終日戦った。これ以上有利にはなりえない結末となったこの戦いは、皇帝によってイエナの戦いと命名された。
「師団に合流したデュポン将軍は、部隊がカムブルクの橋を通って進出し高地の上での戦いに参加する一方でドルンブルクの隘路に偵察を送ることを検討した。ラサール将軍の騎兵部隊と竜騎兵、及びドルーエの全師団が入り口にいた。彼らは師団に先行しており、そのため師団が通過できるのはやっと夕方4時になってからであり、部隊の最後尾が隘路を抜けるのは6時になりそうだった。カムブルクを離れる前にデュポン将軍はその村と橋の守備を選抜歩兵3個中隊に委ねた。一つは村を確保して橋を精力的に守り、残る2つは左岸の丘に布陣した。
「ドルンブルクの隘路――ザール河床はドルンブルクにかけて水面から100乃至150フィートの高さに聳える丘に囲まれていた。町はその中にある。そこから出ている道は極めて狭く、山から川へかけて存在する急斜面の岩場を伝っていた。対岸の斜面はさらに険しく、長く、厄介である。岩が道の何ヶ所かで切り通しとなっており、車両や砲兵には2倍や3倍の人員を当てることを強いられた。いくつかの弾薬車は壊れ、それが困難をさらに増した。一言で言えば、実際にそこを通り抜けたのでなければ、そのような悪路を砲兵が通過できると信じることは残念ながらできなかったであろう。
「師団はアポルダへの道を進み、夜11時にようやく到着した。この町はドルンブルクから3マイルの場所にあった。
「師団は町の前面に幕営し、その右翼と左翼を街道に置いた」
Titeux "Le Maréchal Bernadotte et la Manoeuvre d'Jena" p101-102


 次に"Précis historique des Campagnes du 1er corps (1806-1807)"。

「夜明け少し前、(第1軍団の)全師団はドルンブルクへ移動し始めた。激しい砲声がイエナと我々の右翼にあるケーゼンの隘路方面から聞こえてきた。ポンテ=コルヴォ公[ベルナドット]は可能な限り行軍を急がせた。
「ドルンブルクの隘路は完全に荷車向けのものだった。登らなければならない山への道は極めて急でやっかいだった。我々の軽騎兵、ベルク大公[ミュラ]の予備[騎兵]2個師団、そしてリヴォー師団とその砲兵が通過するのに無限とも思える時間を要した。この道は特に砲兵にとって実用的ではなかった。
「午後4時、夜になる前に隘路の彼方で味方と合流するのは不可能と見たポンテ=コルヴォ公は、なおこの日の戦いに加わる希望を抱いてアポルダへ行軍した。軽騎兵と予備[騎兵]の竜騎兵師団[複数]は既に先行していた。敵はアポルダの向こう側でそれを見たため、いまだ第3軍団と戦っていた予備部隊をブッテルシュテットへ後退させ始めるに至った。夜になり、我々は以下の場所に陣を占めた。
「軽騎兵はアポルダ前面のオーベル=ロスラ村。
「リヴォー師団はニーダー=ロスラ村前面。
「予備[騎兵]の竜騎兵師団[複数]はアポルダ。
「隘路とその向こう側に残っていた第1軍団の残る2個歩兵師団は、夜の間にアポルダに到着した。
「取り残されたプロイセン銃兵1個大隊が第45戦列歩兵連隊の手に落ちた。短い戦闘の後、その大隊は降伏した。リヴォー師団の偵察部隊も同様に歩兵と騎兵を含む約300人のプロイセン兵と大砲10門を捕らえた」
Titeux "Le Maréchal Bernadotte et la Manoeuvre d'Jena" p103-104


 そして"The Journal militaire du 1er Corps de la Grande Armée"。

「元帥ポンテ=コルヴォ公の部隊はナウムブルクからドルンブルクへの悪路で苦闘していた。彼らはまずカムブルクの橋を確保し、それから彼らの全騎兵、歩兵、砲兵はアポルダ高地へ続く狭く急な隘路へ差し掛かった。砲兵の遭遇した困難は数え切れないほどだった。ポンテ=コルヴォ公はこの偉大な日の戦いに参加しようと焦燥を深めていた。しかし同じ隘路を通過するのが困難だったため、彼が軍団の一部と伴にアポルダへ1リーグ地点へ到達するのは極めて遅くなった。
「朝の濃い霧がかかっていた時間、そして我々の左翼にいた皇帝の軍と右翼にいたダヴー元帥が敵と遭遇して1時間経過した時に、[第1]軍団はまだカムブルクにいた。しかしながら、ドルンブルクの出口を出て、ドルーエとリヴォー師団の兵及び騎兵3個連隊を戦闘のために布陣したのは、敵に脅威を与えただけではなかった。(中略)
「午後7時、2個師団と騎兵はヴァイマール街道上に布陣した。
「ナウムブルクからカムブルクを経てドルンブルクへ至る道は特に酷かった。町を離れると、その道は両側を囲まれ、荒れて狭く、それから平らな森林地帯に入った。そして道は両側の山でとても狭められたザーレ河の谷間へ下っていった。この川の流れはとても速く、その幅は10から12トワーズほどしかなかった。カムブルクとドルンブルクの木造橋を除いて渡河は不可能だった。
「ドルンブルクからアポルダまではいい道が続く。しかし橋から高地の上にある隘路の出口へ至る45分の行軍は、[車両の]移動に要する人数を倍に増やすことが必要になった。この隘路の両側はとても高い斜面になっていた。狭く、険しく、岩がちだった。しかし高地に登ると地面の起伏は少なくなり、よく開拓され耕作されていた」
Titeux "Le Maréchal Bernadotte et la Manoeuvre d'Jena" p104-105


 いずれもベルナドット自身が帝国司令部に伝えた説明を裏付けるものとなっている。行軍に伴う困難のため戦闘に参加できなかったと、ベルナドットはイエナの戦い当日のうちに知らせていたのだ。だが一週間後、彼の行動を非難する動きが帝国司令部で持ち上がる。ベルナドットは改めて以下のような文章を送った。

「ベルナドット元帥から参謀長へ
 ベルンブルク、1806年10月21日、午後8時
 (前略)公爵殿、私がイエナの戦いの大半に参加できなかったのは私の責任ではありません。私は会戦前日に行軍を停止した理由をすぐにあなたに知らせました。私がドルンブルクにいると皇帝が考えていることを知らせるダヴー元帥へのあなたの手紙を私が伝えられたのは朝の4時になってからです。私は一刻も無駄にすることなく出立し、大いに努力して午前11時には到着しました。誰もが知っており私が無限の時間を要したドルンブルクの隘路さえなければ、私は陛下の想定を満たすのに間に合った筈です。あらゆる困難にもかかわらず私は歩兵1個師団と騎兵と伴に行軍しました。ダヴー元帥の目前にいた敵が退却を決意するのに十分間に合う4時前にはアポルダに到着すらしましたし、同夕に大砲5門と1個大隊丸ごとを含む1000人以上の捕虜も得ました。公爵殿、繰り返しますが、私にはこれ以上はなし得ませんでした。私は人間に可能なことは全てやりました。こうした詳細を記すのは私にとって極めて苦痛です。私は自らの義務をよく果たしたと確信しています。皇帝の不興を買うことは私にとって最大の不幸です。そしてまた、陛下の公正さに大いなる信頼を抱けなくなることは私にとって心地よいことではありません」
Foucart "La campagne de Prusse" p697


 読むと分かるように、ベルナドットは13日中にドルンブルクへ到着できなかったことに対して弁解している。この時点では13日の彼の行動が問題視されていたのであろう。ところが23日にナポレオンが出した命令では、いつの間にか14日にダヴーと一緒に移動しなかった点が批判の対象にすりかわっている。13日の行動を非難するのは難しいと考えたナポレオンやベルティエが、何とかしてベルナドットを「犠牲の山羊」にするべくあら探しをしていた可能性が窺える。

――大陸軍 その虚像と実像――