1821年5月5日
セント=ヘレナ





ナポレオンの死


 1821年5月5日、ナポレオン・ボナパルトはセント=ヘレナ島で死去した。大西洋の孤島に流されて6年目、世界史の表舞台から姿を消して既にかなり時間が経っており、政治的には彼の死に大した意味はなかっただろう。ただ、英雄の個人史に関心を抱く人はかなりいたようで、その後オミーラやラス=カーズ、グールゴー、モントロン、アントンマルキなど、セント=ヘレナのナポレオンについて知っている人々が相次いで本を出版している。売れると思ったからだろう。
 当然ながらナポレオンの死の瞬間にも関心が集まった。彼が死んだ時に既に島を離れていたラス=カーズらはともかく、現場に居合わせた人間はそれぞれに死の瞬間を本の中で描き出しており、ナポレオンが発したとされる「最期の言葉」にも触れている。問題は、その言葉が史料によって異なること。ナポレオンは人生最期の瞬間に何と言ったのだろうか。

 最も簡単なフレーズとして知られているのは「先頭、軍」(tête... armée...)という言葉だ。ナポレオンの主治医だったアントンマルキがこのフレーズを紹介している。

「時間は午前5時半となり、ナポレオンは引き続き意識が混濁したまま話すことも困難で、半端で不明瞭な言葉を口にしていた。その言葉の中で我々が聞きとったのは『先頭…軍』というもので、それが彼が最後に言ったことだった」
"Mémoires du docteur F. Antommarchi, Tome Second." p149


 同じ言葉は、ナポレオンの死後10日目に当たる1821年5月15日付でセント=ヘレナから出されたある手紙にも記されている。おそらく英国人が出したと思われるこの個人的な手紙には、以下のように書かれている。

「ブオナパルテが口にした最後の言葉は『先頭』――『軍』だった。彼の心の中でそれらにどのようなつながりがあったのか解明することはできない。だがそれらの言葉は、彼が死去した日の朝5時頃にはっきりと聞き取れた」
"The Edinburgh Annual Register, for 1821" July, p115


 実際、「ナポレオンの最後の言葉」としてネットなどで見かけるものの大半には、軍隊とか軍の先頭という言葉が入っている。これらの言葉はナポレオンの最後の言葉(もしくはその一部)として幅広く認定されているようだし、ナポレオンの死後間もない時期に一般にも知られていたようだ。
 それに少し追加された文言があると証言しているのがベルトラン。ナポレオンの最期を看取った一人である彼は、以下のように書いている。

「夜の間に皇帝は彼の息子の名を口にし、その後で『軍の先頭に』 A la tête de l'Arméeと言った」
"Napoleon at St. Helena" p234


 最期の言葉はアントンマルキらと同じく「軍の先頭」(ベルトランの方がよりつながりのあるフレーズになっている)なのだが、その前に息子の名前が出てくる。これはナポレオンの召使が彼の最後の言葉を書き記した断片に載っているものと平仄が一致している。5つ目の(最後の)断片に記された最後の言葉は「我が息子に我が名のみを」("Recueil de pièces authentiques sur le captif de Sainte-Hélène. Tome Quatrième" p415)だった。

 それ以外にも「フランス」とか「フランス国民」が最期の言葉だと主張する例もある。「ナポレオン・ボナパルトの葬儀」と題された文章の中には、以下のような文言がある。

「ナポレオンは午前3時頃、意識を失った。5月5日、彼が口にしようとした最後の言葉は『神よ…フランス国民!』 mon Dieu... la nation française! だった」
"Recueil de pièces authentiques sur le captif de Sainte-Hélène. Tome Quatrième" p422


 他にも似たような主張はある。"The Monthly Magazine, Vol. LIII"には「フランス!――フランス!――というのが彼が最後に言った言葉だった」(p47)と書かれているし、英国海軍のジョン・モンクハウスの記録によればナポレオンの言葉は「おお我が祖国よ!」 O ma patrie! ("Recueil de pièces authentiques sur le captif de Sainte-Hélène. Tome Quatrième" p366)になる。全く同じではないが、いずれも似通った主張だ。

 以上の説を統合したような話をしているのが、ナポレオンの召使だったマルシャン。「皇帝はたくさんの不明瞭な言葉を発したが、それを理解できる言葉で言い換えるなら『フランス…私の息子…軍…』だった」("In Napoleon's Shadow" p678)。折衷案のようでもあるが、彼もまた最期を看取った人物であることは無視できない。

 一方、毛色の変わった主張をしているのがモントロン。彼は1847年に出版された本の中で次のように述べている。

「5月5日。(中略)ある時、私はつながりのない次のような言葉を識別した。フランス、軍、軍の先頭、ジョゼフィーヌ France, armée, tête d'armée, Joséphine」
"Récits de la captivité de l'empereur Napoléon à Sainte-Hélène, Tome Second" p548


 「フランス」や「軍の先頭」は他の証言とも一致しているが、他にはない「ジョゼフィーヌ」という具体的な人名がここには紹介されている。
 おそらくジョゼフィーヌの名を上げているのはモントロンだけだが、息子以外の名前について言及しているのは彼以外にもいる。19世紀のフランスの政治家であり歴史家でもあったティエールだ。

「3日、錯乱状態が始まり、途切れ途切れの言葉の中で、以下の言葉が聞き取られた:私の息子…軍…ドゼー… Mon fils... l'armée... Desaix...」
"Histoire du consulat et de l'empire, Tome Vingtième" p706


 以上、実に様々な意見があることが分かる。何しろ昏睡状態にある患者が話す途切れ途切れのうわ言を聞き取ろうとしているのだから、人によって見解が異なるのも当然といえば当然だろう。とはいえ全ての説を平等に扱う必要もない。例えばティエールの見解だが、彼はセント=ヘレナにいたわけではないのでそのまま信用することはできないだろう。
 重要なのはナポレオンの死の瞬間を看取った人物の証言。医者のアントンマルキ、側近のベルトラン、モントロン、召使のマルシャンあたりがそれに相当する。彼らの発言で間違いなく一致しているのは「軍」であり、次に一致度が高いのは「先頭」(アントンマルキ、ベルトラン、モントロン)。「フランス」(モントロンとマルシャン)とか「私の息子」(ベルトランとマルシャン)あたりは一致度が低く、「ジョゼフィーヌ」に至っては一人しか証言していない。
 結論として、ナポレオンの最期の言葉である蓋然性が最も高いのは「軍」または「先頭、軍」である。家族よりも祖国よりも、最後まで彼が気にかけていたのは軍だった、のかもしれない。結局のところ彼は徹頭徹尾、軍人だった。

――大陸軍 その虚像と実像――