1815年6月18日昼
フランス軍右翼





スコッツ・グレイの逆襲


「総兵力2万に及ぶ兵団が4個の大縦隊にわかれ進撃する様は、まさにマスケット・エラ最後の大会戦にふさわしい壮観な光景である。並び立つ銃剣の林は、初夏の陽光にまばゆく輝き、ブルーの軍服は褐色の大地の上に鮮やかに映える」
森谷利雄「大陸軍その光と影 その23」(タクテクス第26号)p40-41


 ワーテルローの戦いにおいてフランス軍の本格的な攻撃は午後1時半から始まった。予め大砲兵隊で予備砲撃を加えたうえで、フランス軍右翼を構成するデルロン第1軍団がイギリス連合軍左翼に向かって前進を行ったのだ。フランス軍が短時間で勝利を収めるには、この攻撃が成功することが絶対に必要だった。
 デルロン軍団所属の4個師団は、かなり特殊な隊形を組んで前進したようだ。だが、その隊形はフランス軍に不運をもたらした。「何らかの理由により、デルロンとネイはドンズローとマルコーヌの師団を巨大な"columns of battalions"に組んだが、それはぬかるんだ地面と丈の高く育った穀物のせいですぐにもみ合う人の群れと化してしまった」(Esposito & Elting "Atlas" map166)。混乱したまま進むフランス軍に対し、イギリス連合軍はまず砲撃を浴びせ、ついで歩兵による一斉射撃が行われ、最後に重騎兵が突撃した。デルロン軍団の攻撃は失敗に終わった。
 一体デルロン軍団はどのような隊形で前進したのか。森谷は以下のように説明している。

「その前進の様は、壮観である。各師団は、師団単位で縦隊を組む。すなわち、正面200人、深さ27列の大縦隊が4個、整然と、ラ・エイサント[ママ]の農場の横を、並んで通過してゆくのである」
森谷「大陸軍その光と影 その22」(タクテクス第25号)p41


 師団単位の縦隊。これがデルロン軍団が採用した隊形だったという。他の研究者を見ても、具体的な縦隊の大きさ(正面と深さ)やどの師団が師団縦隊を組んだかといった点に差異は見られるものの、基本的な点では一致が多い。

「しかし、どのような理由か決して完全に推測されたことはないが、デルロンは前進に際して時代遅れの隊形を採用した。当初の接近移動時の損害を減らしかつマスケット銃の射程距離内に入った時に柔軟な隊形変換が容易にできる、扱いやすい大隊縦隊(colonnes de division par bataillon)で前進する代わりに、4個師団のうち3つは巨大な師団縦隊(colonnes de bataillon par division)を組んだ。この隊形は各師団が大隊規模の正面――即ち最前列に200人――を組み、その背後に他の大隊が続くことで全体の深さが24列から27列になるものである」
Chandler "Campaigns" p1076-1077

(訳註:Chandlerの紹介しているフランス語は誤りではないかと思われる。おそらく大隊縦隊はcolonnes de bataillon par division、師団縦隊はcolonnes de division par bataillonが正しい)

「理由は知られていない――おそらく命令の誤解あるいは曲解と見られる――が、歩兵師団のうち2つが巨大で動きにくい正面200人、深さ8から9個大隊――27列――の縦隊に並んだ」
Chandler "Waterloo: The Hundred Days" p140-141

「午後2時、デルロン伯の第1軍団のうち3個師団は計画に従って前進したが、ナポレオンにとって驚くべきことに、愚かな、致命的とすら言える大失敗をやらかした。大隊規模の小さな部隊(colonne de division par bataillon)を配置する代わりに、2個師団が2つに分かれた途方もない正面200人の縦隊(colonne de bataillon par division)で前進し、デュリュット将軍の師団のみが正しく大隊ごとに前進した」
Alan Schom "One Hundred Days" p282

(訳註:SchomはChandlerを参照しているため、彼と同じ間違いをしている)

「ウェリントン軍のいる稜線を強襲するため、デルロンは彼の歩兵を4つの巨大な縦隊に組んだ。この縦隊は横隊に整列した大隊が前後に並んだものだった。各縦隊は正面約180人、深さ24列だった。最初に出発する縦隊が他の縦隊に対する敵の射撃を逸らすため、部隊は西の方の縦隊から順次出発した」
Andrew Uffindell and Michael Corum "On the Fields of Glory" p165

「何らかの説明されていない理由により、師団のうち3つはより無様な戦術隊形である師団縦隊(columns of divisions by battalions)の形に集まった。キオー師団は、それぞれ4個大隊が前後に並んで構成された2つの旅団縦隊で前進し、両者の間も含めて正面500メートル、深さ12メートルの隊形となっていた。中央にいたフランソワ・ドンズロー将軍の第2師団と男爵マルコーヌ将軍の第3師団はそれぞれ正面1個大隊約200メートル、師団所属の全大隊が前後に配置した深さ約50メートルの隊形で前進した。事実上、この各師団は1平方メートルあたり1人の兵から成る戦術的柔軟性に乏しい強固な兵の塊となっており、砲撃のいい的と化していた。第4師団だけがより緩やかで柔軟な隊形を取った。デュリュットは彼の部隊を大隊縦隊(columns of battalions by divisions)、すなわち各大隊が正面2個中隊――"by divisions"――の幅で深さ50メートル、大隊あたりの密度は5平方メートルにつきたった1人という形に配置した。加えて、各大隊は市松模様に2列各4個が並び、各列の大隊の間には約100メートル、前列と後列の間には約50メートルの距離を保ち、結果として師団の正面は600メートル近く、深さはおよそ150メートルとなったため、その密度は22平方メートルあたり1人だった」
Albert A. Nofi "The Waterloo Campaign" p202-204

「しかし、戦争につきものの混乱の中で、中央の2個歩兵師団は2個中隊正面の縦隊(column of division)ではなく師団縦隊(divisional column)に整列してしまった。後者は8個から9個大隊が大隊規模の正面(正面200人、深さ27人)で密集した極めて扱いにくい隊形であり、前者はより一般的で遥かに柔軟な大隊縦隊で、それぞれ正面は2個中隊(正面70人、深さ9人)が並び大隊の間に横隊に展開できるだけの間隔を置いたものだった」
Geoffrey Wooten "Waterloo 1815" p55

「各師団の正面はおよそ160人、深さ24人で各大隊の間には4歩の間隔があった。かくして4000人強の師団の兵たちのうちたった320人だけがマスケット銃を敵に撃つことができ、一方でそれぞれの巨大な人間の集団は砲兵に素晴らしい的を提供し、マスケット銃ですら滅多に撃ち漏らすことのないものと化した」
Michael Glover "Warfare in the Age of Bonaparte" p161

「4個師団のうちドンズロー、キオー(アリックス)、マルコーヌの3つは、各大隊が前後に並ぶ形で前進し、各師団(約5000人)は正面に1個大隊が配置される格好で前へ進んだ。しかし、デュリュットだけは彼自身の判断で師団ではなく麾下の2個旅団を同様の形に組んだ。かくして彼は集団の深さを半分に減らし火力を倍に引き上げた」
Archibald Frank Becke "Napoleon and Waterloo" p194

「Charrasはこの隊形について明快な説明をしている。まず最左翼にいた縦隊はアリックス師団のブルジョワ旅団で構成されていた――同師団のもう一つのキオー旅団はラ=エイ=サント奪取という特別な役目を与えられていた。このブルジョワ旅団は4個大隊を含みそれぞれ前後に並んでいだ。各大隊は3列横隊を組み、大隊間には5歩の間隔が空いていた。従ってこの縦隊の正面は先頭にいる大隊所属兵士の3分の1で構成されており、旅団は4個大隊で構成されていたため深さはもちろん12列だった。他の縦隊も同様だった。9個大隊を含むドンズロー師団は深さ27列、それぞれ8個大隊を持つマルコーヌとデュリュット師団はそれぞれ24列だった」
John Codman Ropes "The Campaign of Waterloo" p305

「多くの研究者はドンズロー師団(9個大隊)とマルコーヌ師団(8個大隊)が全大隊を3列横隊に組み、それを前後に並べたという点で合意している。左翼のキオー師団では、1個旅団(ブルジョワ、4個大隊)のみが稜線を攻撃し、もう一つの旅団はラ=エイ=サント奪取に投じられた。同様に最右翼ではペジョー旅団(4個大隊)のみが稜線へと前進し、もう一つは予備にとどめ置かれたか、あるいはパペロッテ地域の攻撃に使われた。ブルジョワとペジョーの部隊はおそらく同じ隊形を採用したが、他の師団と同じ正面で構成されていたため、その深さは他の半分だっただろう。(中略)
 まず、(イギリス連合軍の目撃者により)はっきり立証されていることだが、いつものようにフランス軍は前進する部隊の前に大量の散兵を配置した。おそらく各師団の先頭大隊(2000人強)を使ったか、あるいはもっとありそうな話だが全大隊(25個)の軽歩兵中隊を投じたのだろう。後者の場合、もう少し多い――2250人の――訓練された散兵が使えたことになる。同時にこれに伴い各大隊の平均戦力は約540人から約460人に減少する。460人を3列に並べれば、士官と補助要員次第で正面は140人から150人となる。かくして各大隊、各旅団、各師団の平均的な正面の広さは約110から120メートルだったと思われる」
Mark Adkin "The Waterloo Companion" p412

「この兵たちを攻撃縦隊、即ち例えば方陣を組む際などに素早く配置につくのにふさわしい、列の間が半距離もしくは全距離の大隊縦隊(columns of battalions by divisions)に整列させる代わりに、各梯団は大隊正面で列を詰めて配置された。かくしてアリックス、ドンズロー、マルコーヌ師団(デュリュットは彼自身の判断でこの布陣に応じなかった)は正面160人から200人、深さ24人という緊密な3つのファランクスになった」
Henry Houssaye "Napoleon and the Campaign of 1815" p193


 少なくともデルロン軍団所属師団の一部が、師団ごとにまとまって縦隊を構成したことは間違いなさそうだ。そしてまた、師団単位の巨大な縦隊がフランス軍の機動性を奪い、それが結果としてデルロン軍団の攻撃失敗の一因になったとの見方も多い。

「この巨大な師団縦隊(colonnes de bataillon par division)は時代遅れの隊形で、戦術的柔軟性を酷く制限されていた。通常の遥かに扱いやすい大隊縦隊(colonnes de division par bataillon)――それぞれ正面2個中隊約70人、深さ9列で構成された大隊縦隊が、各縦隊の間に必要なら横隊に展開できるだけの十分な距離を置いて市松模様に並んだもの――の方がより相応しかっただろう。実は両軍の中間地帯にぎこちなく押し寄せてくる巨大な縦隊は、連合軍の砲兵にとって素晴らしい的だった」
Chandler "Waterloo: The Hundred Days" p141-142

(訳註:ここでもフランス語に誤りがある)

 問題は、どうしてデルロン軍団がそのような使い勝手の悪い隊形を採用して前進したのかという点。研究者の中には「なぜネイとデルロンがこの時はいつものやり方をしなかったのか、誰も知らない」(Ropes "The Campaign of Waterloo" p306)と素直にさじを投げている者もいるが、大半は何らかの理由をつけようとしている。その一つが、「一部の指揮官が命令文を誤読した」という説明だ。

「軍団の大半が無様な配置となったのは命令の伝達時に生じた手違いの結果だとの見方がある。部隊を大隊縦隊(column of battalions by divisions)に配置せよとの命令が師団縦隊(column of divisions by battalions)と読まれてしまった――この場合、文の構造はフランス語と英語で同じ――という訳だが、この場合、なぜデュリュットが異なる隊形を採用したのかが説明できない」
Nofi "The Waterloo Campaign" p204

「何人かの歴史家はこの隊形が誤解によるものとの見方を示している。彼らは本来の命令は"colonne de bataillons par division"、つまり各大隊が個別に2個division――ここで言うdivisionは半個中隊の意味――正面の縦隊を組むものだったとしている。もし命令が"colonne de divisions par bataillon"であれば、実際にそうであったようにファランクスのような塊で前進することになっただろう」
Adkin "The Waterloo Companion" p412

「"Division"という言葉があらゆる不運と混乱の原因になった可能性は十分にありそうだ。当時のフランス軍事用語において、この言葉は2つの意味を持っていた。おそらくデルロンが命じた隊形は大隊縦隊(Colonne de bataillon par divisions)――それぞれ2個中隊(division)正面から成る全大隊が展開のための間隔を置いて並んで前進する――だった。この隊形はあらゆる場所を通過するのに都合がよく、射撃を受けながらでも隊形変換が可能で、的としては小さく、騎兵に突撃されれば素早く方陣に変わることができた。しかし、おそらく伝達時の失敗により、各師団長に到達した命令は以下のように変わっていた――"Colonne de Division par bataillon"。これが実際に使われた隊形だった」
Becke "Napoleon and Waterloo" p194-195


 現実に命令を混乱して伝える事例があったと主張する同時代人もいるようだ。半島戦争を戦ったフランスのビュジョー大佐がその一人である。

「フランスの士官たちはしばしば縦隊を組んだ大隊、特に複数の大隊が隊形変換用の十分な間隔を置いて水平に列をなした場合を"colonne par bataillon"と呼んだ。この場合、正面が1個か2個中隊の一つの大隊縦隊を"colonne par bataillon"と言った。ビュジョーによれば、指揮官が"colonne par bataillon"を命令した際に、指揮官は単純にこの小さな一つの大隊縦隊を組むことを意図していたにもかかわらず、士官が横隊に組んだいくつもの大隊を前後に並べる巨大な縦隊を意味していると信じてしまうことがありえたという」
Brent Nosworthy "With Musket, Cannon and Sword" p177


 だが、こうした説明に対しては批判もある。この説が成り立ためには「幕僚士官たちの一部と副官、そして指揮官たちの数多くが無能だったと仮定しなければならない」(Adkin "The Waterloo Companion" p412)からだ。Nosworthyもビュジョーの説明について「思うに、ビュジョーの議論は戦場で見られたこうした巨大な縦隊のほんの一部には当てはまっても、全てを説明するものではないだろう」(Nosworthy "With Musket, Cannon and Sword" p177-178)と記している。

 命令の誤読より幅広く受け入れられているのが、フランス軍の上級指揮官たちが自らの判断でそうした隊形を採用したとの説だ。

「[イベリア]半島で何度も英国と戦ってきたデルロンは、彼の4個師団のうち3つについて大隊正面を持つ師団縦隊(colonne de bataillon par division)の形で前進させることを選んだ」
Michael Glover "Warfare in the Age of Bonaparte" p161

(訳註:GloverもChandlerを参考文献に挙げており、彼と同じ間違いをしている)

「あらゆる状況下で危険だが、特にこのような平らでない土地では見込みのない隊形を取るよう誰が命じたのか? ネイか、あるいはむしろ軍団指揮官のデルロンかもしれない」
Hibbert "Waterloo: Napoleon's Last Campaign" p203

「デルロンはワーテルローで、ウェリントンによってしばしば成功裏に使用された横隊を使った。ただし、その横隊は2列ではなく3列だったうえ、各大隊は前後に並んで前進した。少なくとも先頭の大隊では全てのマスケット銃を使用することができた。デルロンはしばしば縦隊に並んだフランス歩兵が英国軍横隊と出会った時に被っていた火力の不利を避けようと試みたのだ」
Jac Weller "Wellington at Waterloo" p98

「おそらくネイと指弾指揮官たちが正午前頃に、攻撃を最もよく実行するにはどうしたらいいのか協議したのだろう。この会合にはおそらくスールト、レイユ、デルロン、ロボー、そしてドルーオが参加していた。このうちスールト、レイユ、デルロンの3人は、大半が稜線の背後の斜面に隠れている英国軍を攻撃する際の問題について半島で少なからぬ経験を積んでいた。全員が理解していたように、攻撃する大隊縦隊は敵に出会った時には火力を最大にしようとした。そのために彼らは正しいタイミングで正確に横隊に変換する必要があった。稜線に近づいた時に指揮官が見ることができるのが敵の散兵のみだった場合、隊形変換は簡単なことではなかった。丘の反対側には何があるのか? もしそこに騎兵がおり、横隊への変換が早すぎれば、敵に切り刻まれる危険がある。もしそこに横隊を組んだ歩兵がおり、隊形変換が遅すぎれば、敵に一方的に撃たれる危険がある。スペインとポルトガルでフランス軍の指揮官は数多く間違いをしでかし、縦隊のまま攻撃を受けるか至近距離でマスケット銃の斉射を受けながら隊形変換を試みる羽目に陥った。
 おそらく彼らはワーテルローで妥協策を選んだのだ。彼らは柔軟性と移動速度を犠牲にした。代わりに彼らは既に横隊を組んだ大隊が先頭に立ち、400挺以上のマスケット銃が撃てる隊形を採用した。各隊列はさらに縦隊として敵の陣地を撃ち破るだけの重みを保持していた。全大隊が既に横隊を組んでおり、しかもさらに配置しなおすだけの場所もなかった(こうした隊形から変換する訓練も受けていなかった)ため、最後の瞬間におけるさらなる隊形変換について悩む必要はなかった。騎兵の脅威は残っていたが、こうした巨大な縦隊が止まって後部の大隊が背後を向き側面の兵が外部を向けば対応できるものと考えられた。実際それは密集した方陣の一変形とも言えた。砲撃について将軍たちは、この隊形は大隊縦隊と比べても傷つきやすくはないと、多少の正当化も含めて推論した」
Adkin "The Waterloo Companion" p413


 ネイやデルロンといった指揮官たちが、大隊縦隊に伴う火力不足を補うために大隊横隊を前後に並べた師団縦隊を編み出した。デルロン軍団が採用した極めて巨大な縦隊攻撃には、そういう背景があったというのが彼らの指摘だ。そして、この隊形を採用した責任者はネイやデルロンといったイベリア半島で戦った経験を持つ将軍たちであり、全軍の総指揮官であるナポレオンにはないというのが一般的な見解である。

「この決定はフランス軍の上級指揮官たちによって採用されたもので、ナポレオンは関与していない(こうした細部は彼の仕事でないため、彼自身が考慮したとは思えない――彼は上級指揮官たちにどのようにすべきかではなく何をすべきかを命じていた)。彼の午前11時の命令にもこの点については間違いなく何の言及もない」
Adkin "The Waterloo Companion" p413

「いずれにせよ[隊形に関する命令を出したのは]皇帝ではない。というのも彼の午前11時の命令でこの種のことについては何も特定されていないからだ。そもそも梯形を組んで攻撃することに対する言及すらない。戦場でナポレオンは、実施段階の細部全てについて賢明にも彼の部下に主導権を取らせるようにしていた」
Hibbert "Waterloo: Napoleon's Last Campaign" p203

「もちろん、ナポレオンは彼の兵たちが採用した隊形について何の責任もない。構想を描くのが彼の業務で実行段階の詳細は彼の部下たちの仕事だった」
Becke "Napoleon and Waterloo" p194


 しかし、中にはこの隊形についてナポレオンに責任を帰している人物もいる。www.1789-1815.comを主催しているBernard Coppensがそうだ。ワーテルローに関する様々な通説批判をしている彼は、このデルロン軍団の隊形についても次のように述べている。

「この形は騎兵の攻撃を受けた際に兵たちが防御的隊形を取ることができないものだった。ナポレオンは彼が口述した文章の中で、ここで選ばれた方法を決して非難していない。最初に惨劇の原因の一つがこの隊形にあると見たのはジョミニだった。失敗があった以上、その責を負うべき被告人を探した方が望ましい。こうした『マケドニア』風の隊形を命じるに足るくらい無能と思われているネイとデルロンが(ナポレオンがそうした失敗をすることは想像不可能ゆえに)犯人なのだろうか? しかし、ナポレオンが部下に許していた自由度を考えるなら、この隊形を命じたのが彼自身であると信じることが必要ではないか。さらにビュジョーは1833年にスールト元帥の言葉として以下のことを記している。『ナポレオンがしばしばこの事前機動がほとんどできない戦闘隊形を命じたのは、それが方陣を組むことが極めて困難なものであっただけに、とても驚くべきことだ』」
Bernard Coppens
Waterloo: Récit de la Bataille
(訳註:機械翻訳で英訳したうえでの日本語訳なので間違いがあるかもしれない)

 単なる命令伝達時のミスなのか、それともネイやデルロンが意図して組んだのか、あるいは実はナポレオン自身の命令によるものなのか。デルロン軍団が採用した隊形は、それが戦闘の結果に大きな影響を及ぼしたと見られるだけに多くの研究者の関心を集めている。おそらく、今後もその原因についての議論はやむことなく続けられるのだろう。

――大陸軍 その虚像と実像――