1805年12月2日
アウステルリッツ(その3)





戴冠式記念日の戦場


 1980年にSPIという会社が発売した"The Battle of Austerlitz"というボードゲームがある。マップは小さく、ユニット総数も百個と少ない。発売時期を見ても分かる通り、アウステルリッツの戦いを題材としたシミュレーションゲームとしてはかなり古いものだ。
 このゲームで注目したいのは、連合軍の中でリヒテンシュタイン公が率いていたロシアとオーストリアの混成騎兵部隊である。ゲームの開始時点(午前7時)でこの部隊が配置されるのは連合軍の右翼側、ブリュンとオルミューツを繋ぐ道路に近いブラソヴィッツ村とクルーグ村のほぼ中間地点だ。連合軍の最右翼を形成していたバグラチオンの前衛部隊と肩を並べている格好で、フランス軍左翼(ランヌの第5軍団とミュラの予備騎兵)と対峙している。ゲームのルールブックに載っている戦闘序列にも「リヒテンシュタインとバグラチオンの縦隊は明らかに独立して作戦行動を行っていた。彼らの主な任務は連合軍の右翼と[オルミューツへ通じる]補給線を守ることにあった」(SPI "Battle of Austerlitz Rules" p6)との説明が記されている。
 1987年に発売されたアド・テクノスの「アウステルリッツの戦い」というゲームでも、基本は同じだ。やはりリヒテンシュタインの騎兵部隊はブラソヴィッツ村の近く、バグラチオンの前衛部隊の隣に位置している。ゲーム開始時刻が午前8時となっているのが僅かな違いだ。
 だが、ゲームルール/ヒストリカルノートを見ると奇妙なことが判明する。付属地図に描かれた会戦前日の12月1日時点での連合軍配置(アド・テクノス「アウステルリッツの戦い ヒストリカルノート」p15)では、リヒテンシュタインの騎兵がなぜか連合軍の左翼側に位置している。つまり前日まで左翼にいた筈の部隊が、当日の朝には右翼側まで移動しているのだ。その理由について、ヒストリカルノートには何も記されていない。
 そして2000年になって発売されたゲームを見ると、リヒテンシュタインの騎兵を巡る状況はさらに奇妙なことになっている。GMT Gamesの"Triumph & Glory"に含まれているアウステルリッツのゲームでは、リヒテンシュタインが率いていた騎兵部隊は連合軍左翼のど真ん中、プラッツェン高地の南端付近に配置されるのだ。こちらの方はゲーム開始時刻が午前6時とかなり早い時間だが、それにしてもSPIの"The Battle of Austerlitz"やアド・テクノスの「アウステルリッツの戦い」で彼らがいたブラソヴィッツ村付近からは随分と遠い場所にいることは間違いない。

 なぜこんな現象が起きるのだろうか。時代が下るにつれてゲームの中でリヒテンシュタインの部隊が配置される場所が変化してしまった要因は何か。明確な理由は不明だが、もしかしたら1966年に出版されたDavid G. Chandlerの"The Campaigns of Napoleon"が影響を及ぼしている可能性がある。
 Chandlerの著作については何度も取り上げているが、彼は「戦役」の中で連合軍の作戦計画について以下のように記している。

「この[連合軍左翼による]主攻撃の間、バグラチオンの歩兵1万3000人はフランス軍左翼を圧迫してザントン奪取を目指し、リヒテンシュタインの騎兵4600騎は連合軍右翼と中央を繋ぐ役割を担うことになっていた」
Chandler "Campaigns" p417-420


 リヒテンシュタインは、連合軍の右翼であるバグラチオンの部隊と、コロヴラットとミロラドヴィッチが指揮する連合軍中央の間に展開し、双方の部隊を繋ぐ任務を与えられていた。それがChandlerの説明だ。だが、彼の文章のどこを読んでも、戦闘が始まる前にリヒテンシュタインの部隊がどこにいたかについて記した部分はない。唯一、それを窺わせるのは"Campaigns"のp418-419に掲載されている配置図だが、それによるとリヒテンシュタインの騎兵部隊はブラソヴィッツ村よりずっと戦線後方にあるアウステルリッツ村の近くにいたことになっている。連合軍戦線の右翼後方、総予備の役割を担っていたコンスタンティン大公麾下のロシア近衛部隊の右後方といった場所だ。そこから道路沿いに前進すれば、バグラチオンと合流してフランス軍左翼と対峙する場所にたどり着くことができる。
 Chandlerはこの図を他の著作でも使用している。1979年に初版が出た"Dictionary of the Napoleonic Wars"のp32-33にも同じ図が記されているし、1990年に出版された"Austerlitz 1805"のp50-51に載っている地図にもリヒテンシュタインの騎兵部隊がアウステルリッツ村からブラソヴィッツ村付近へ移動したかのような矢印が描かれている。
 Chandlerの地図を見る限り、リヒテンシュタインは最初からブラソヴィッツ村付近にいた訳ではないが戦闘が始まればすぐに駆けつけられる場所にいたように思える。SPIやアドテクノスのゲームで当初からリヒテンシュタインの騎兵がブラソヴィッツ村付近に配置されていることも、Chandlerの地図から判断する限りそれほど違和感はない。

 しかし、他の著者が記したアウステルリッツの戦いに関する本を読むと、必ずしもそうは言えなくなる。たとえば1964年に初版が出たEsposito & Eltingの「アトラス」だ。

「この[プラッツェン高地を占領するために連合軍が行った]進行方向の変更はさらに彼らの陣形を混乱させた。コロヴラットはリヒテンシュタインの左側ではなく右側で停止し、集中した各縦隊に移動を遮られたキーンマイヤーは正面の地形を偵察するには遅すぎる午後9時になってようやく戦線にたどり着いた」
Esposito & Elting "Atlas" map54


 会戦の前日、コロヴラット(連合軍中央部隊)はリヒテンシュタインの「左側ではなく右側」に布陣していた。EspositoとEltingはそう説明している。彼らの説明を鵜呑みにするなら、リヒテンシュタインは連合軍中央部隊のさらに左側に位置していたことになる筈だ。そして実際、"Atlas"のmap54に載っている配置図を見ると、リヒテンシュタインの部隊はコロヴラットの左隣、プラッツェン高地の南側面に位置しているのだ。連合軍の右翼側ではなく、むしろ左翼部隊のど真ん中にいると言った方がいいだろう。
 もしこの部隊が連合軍の作戦計画にあるように「連合軍右翼と中央を繋ぐ」ためにブラソヴィッツ村へ向かおうとしたらどうなるか。彼らは最初にいた場所から目的地へ向かうために、連合軍の戦線を長い距離にわたって横切らなければならなくなる。そして、以下のような現象が生じる。

「ランジェロンは(コロヴラットの部隊を迂回しようと試みた)リヒテンシュタインのために進路を塞がれ、午前8時まで攻撃を始めることができなかった」
Esposito & Elting "Atlas" map55


 左翼から右翼へ大移動を行ったリヒテンシュタインの騎兵が、左翼で攻撃に出ようとしていたランジェロンの第2縦隊の進路を妨げる事態に陥ったというのが彼らの説明だ。そして、同じことは1977年に出版されたChristopher Duffyの"Austerlitz 1805"でも触れられている。

「さらに悪いことに騎兵部隊主力(リヒテンシュタイン公麾下の第5縦隊)は道に迷い、彼らがいるべき右翼ブラソヴィッツ村付近から遠く離れた中央縦隊の背後で露営することになった」
Duffy "Austerlitz 1805" p81

「最悪の混乱は、目が醒めた時に中央縦隊の背後に取り残されていることに気づいたリヒテンシュタインの騎兵によって引き起こされた。まだ書面での命令は受け取っていなかったが、現在地よりずっと右翼側にいなければならないことに気づいたリヒテンシュタインは、単純に他の部隊を押し分けながら目的地へ向かうことにした。その過程で第2縦隊(ランジェロン麾下)は明らかに2つに分断され、第4縦隊[コロヴラットの中央部隊]は彼らの前面を騎兵が通り抜けるまで待たされる羽目に陥った」
Duffy "Austerlitz 1805" p102


 リヒテンシュタインはそもそも会戦前日は連合軍の「左翼」側で露営していた。そして、会戦当日の朝になって慌てて本来の目的地である「右翼」側へ向かった。これがEsposito & EltingやDuffyの説明だ。そして同じ話は他にも多くの研究者が記している。

「1日夜、全員が目的の場所へ向かったが、そこではランジェロンが非難しているように多くの混乱が生じた。それはリヒテンシュタインの騎兵がプラッツェン高地で道に迷ったのが原因だった。それこそ第2縦隊[ランジェロン麾下]と第3縦隊[プルジェブイシェフスキ麾下]が蒙った災難の元凶であり、リヒテンシュタインがその地域を去るまでランジェロンとプルジェブイシェフスキは移動することができず、1時間を無駄に費やした」
François Guy Hourtoulle "Austerlitz, The Empire at Its Zenith" p42

「オーストリア軍の参謀業務はとても正確なものではなかったが、これまで一緒に仕事をしたことのなかった士官たちと組んだ時に生じたのは、恐ろしいほどの渋滞だった。第4縦隊[コロヴラット]と第5縦隊[リヒテンシュタイン]は予定された配置場所に近づくことすらできず、兵たちは攻撃予定地域を偵察する時間もなかった」
Scott Bowden "Napoleon and Austerlitz" p313-314

「多くの混乱はリヒテンシュタインの彷徨える騎兵縦隊によって引き起こされた。彼らはヴァイローテルが計画していたより遥か南方で一晩を過ごした。リヒテンシュタインは朝の早い時間にこの間違いに気づき、彼の騎兵部隊に対して右翼へ移動するよう命じた。それを実行に移す際に騎兵部隊はランジェロンの第2縦隊を切り裂き、その部隊の後ろ半分の行軍を遅らせた。リヒテンシュタインが彼の縦隊の配置換えを行うのに伴って連鎖反応が起こり、ランジェロンは行軍を停止させなければならず、それがコロヴラットとミロラドヴィッチが指揮する第4縦隊の動きを渋滞が解消するまで止めることになった」
Bowden "Napoleon and Austerlitz" p322


 軍事史の専門家以外も同じことを書いている。ナポレオン戦争を舞台に小説「戦争と平和」を記したレフ・トルストイが、アウステルリッツの戦いを描いた場面で固有名詞は出していないものの「騎兵が引き起こした混乱」について触れている。

「混乱の原因はオーストリア軍の騎兵が我々の左翼側へ移動している時に、上級司令部が我が軍中央と右翼があまりにも離れてしまっていることに気づき、全騎兵に対して右翼へ引き返すよう命じたことにある。数千の騎兵が目の前を横切ったため、歩兵部隊は待機しなければならなかった」
Leo Tolstoy
"War and Peace" Book Three, Chapter XIV

 SPIのゲームが発売される以前から、リヒテンシュタインの騎兵は当初左翼側で露営し、会戦当日の朝になって右翼側へ移動したと記している本はあった(Esposito & Eltingの"Atlas"、Duffyの"Austerlitz 1805")。だが、SPIの"The Battle of Austerlitz"では朝の時点でリヒテンシュタインの騎兵が右翼側への配置を終えていたことになっている。まるで他の文献は無視し、Chandlerの"Campaigns"だけを参考にして作られたかのようだ。
 もっと分からないのはアド・テクノスの「アウステルリッツの戦い」。ヒストリカルノートに載っている12月1日時点の配置図は、明らかにEsposito & Eltingの"Atlas"から引用したものだ。だとすれば、Esposito & Eltingが「リヒテンシュタインは当初左翼側にいて、そこから渋滞を巻き起こしつつ右翼側へと移動した」と記したことも知っていた筈なのだ。なのにこのゲームでは「ランジェロン麾下の部隊は、渋滞し8時になるまで攻撃に参加できないでいた」(アド・テクノス「アウステルリッツの戦い ヒストリカルノート」p15)とだけ記し、その理由を述べていない。そして、SPIのゲームと同様にリヒテンシュタインは朝から右翼側で堂々と布陣しているのだ。
 結局、ゲーム業界が過ちに気づいたのは比較的遅い時期になってからである。上に述べた通りGMT Gamesはリヒテンシュタインの騎兵をきちんと連合軍の左翼側に配置させた。そのうえで彼らが巻き起こした混乱を再現するべく、特別ルールを採用している。

「リヒテンシュタインの騎兵:ブラソヴィッツへ向かう。彼らは(状況が変わらなければ)ブラソヴィッツ北方とオルミューツ道路南方の間にある道路の1ヘクス以内に入ったところか、あるいはフランス軍部隊(キルヒフェルトにいるランヌ軍団)から4へクス以内に接近したところで止まることができる」
GMT Games "Triumph & Glory Playbook" p9


 ブラソヴィッツへたどり着くまでは無条件で真っ直ぐ移動するルールを強制することで、リヒテンシュタインの騎兵によって生じた渋滞をゲーム上でも引き起こそうとしているのだ。かつては無視されていたリヒテンシュタイン騎兵の朝方の移動を、何らかの形でゲームに取り込もうと努力した結果が、この特別ルールに現れているのだろう。

 ゲーム業界だけではなく、Chandlerも新しい本の中ではリヒテンシュタイン部隊の移動について触れている。上にあげた"Austerlitz 1805"も、地図はともかく文章ではきちんと説明がなされている。

「ランジェロンの部隊が予定された時間に南西へと移動を始めたところ、部隊は混乱し突然停止した。騎兵の集団が第2縦隊の前面を無遠慮に左翼から右翼へと押し渡ったのが原因だった。この動きは、中央を守る役目を負っていたリヒテンシュタインの騎兵が前の晩に間違った場所で露営していたことに夜明けになって気づいた連合軍の司令部が命じたものだった。リヒテンシュタインに対し、即刻彼の騎兵をプラッツェン高地の東側面へ移動させるよう緊急命令が送られた。早足で駆ける騎兵部隊の長い列が優先的に行軍したため、彼らが同僚のために道を空けるにはほとんど1時間もかかった」
Chandler "Austerlitz 1805" p52


 古いゲームが反映しきれなかったリヒテンシュタインの初期配置とその後の移動。それが事実であったことは、この戦いに参加した連合軍の関係者が残した一次史料によっても裏付けられる。

「82個大隊の騎兵で構成された第5縦隊は、中将ヨハン・リヒテンシュタイン公の指揮下で連合軍の左翼側へと移動し、第3縦隊の進行方向に追随して彼らの背後にあたる高地の麓に布陣した」
Austrian Major-General Stutterheim "A Detailed Account of the Battle of Austerlitz" p60

「第3縦隊の背後に布陣していたこの騎兵縦隊は、攻撃位置につくため右翼側へと移動したのだが、その際に高地から降りて前進しようとしていた歩兵縦隊によって行軍を妨げられた」
Stutterheim "A Detailed Account of the Battle of Austerlitz" p92-93


 ここでもリヒテンシュタインの騎兵は最初は連合軍の左翼側(第3縦隊の背後)にいて、そこから右翼側へ移動したことが記されている。ただ、上に記した研究者たちとは異なり、彼らの部隊が会戦前日に左翼側にいたのが「道に迷った」結果だとは記していない。むしろStutterheimの文章を読む限りだと、前日の配置は予定通りだったと読めるくらいだ。実際、道に迷ったとの説を採用しない研究者もいる。

「ヨハン・リヒテンシュタイン中将麾下の騎兵部隊主力である第5縦隊は第3及び第4縦隊の背後に追随し、高地の麓で露営した」
Ian Castle "Austerlitz 1805" p37


 リヒテンシュタインの騎兵がアウステルリッツ会戦当日朝の時点で連合軍の左翼側にいたことは、ほぼ間違いのない事実だろう。古いゲームに残っている誤りは、今ではほぼ見られなくなったものである。むしろ問題があるとしたら、彼らが左翼側にいた理由の方だ。道に迷った結果なのか、それとも予定された場所できちんと露営したのか。もし後者が正しいのならば、なぜ連合軍司令部は渋滞を巻き起こしてまで左翼にいた部隊を無理やり右翼側へ回そうとしたのか。このあたりを追求した方が面白いかもしれない。

――大陸軍 その虚像と実像――