1805年12月2日
アウステルリッツ(その2)





ナポレオンの“傑作”


 数字というのは意外と扱いにくいものである。歴史的な事象に関して言うのなら、正確な数字を確定することはいつのどんな時代であっても極めて困難だ。国王裁判に関するページで指摘したように、人数を厳格に絞り込んだ議会を舞台にした数字であってすら、時に異論が出てくるようになる。このサイトで扱っている主題、つまり戦争においては、さらに数字の確定は難しくなる。
 かといって数字を無視するわけにはいかない。厳密な数字の確定は無理であっても、数字によって大きな傾向が裏付けられる面があることもまた事実だからだ。結果として数字というものはいつの時代も歴史上の論争になってきた。戦争の場合、主に問題になる数字とは、戦闘に参加した兵員数と被害者の数である。より確定が困難なのは被害者の数字だが、参加者数もしばしば議論の的になる。
 ある戦場にどれだけの兵力が集まっていたのか。これはおそらく当事者ですら正確には分からない数字であろう。元々、戦場とは混乱の代名詞のような場所である。ましてフランス革命戦争やナポレオン戦争の頃ともなれば、厳密に数字をまとめあげることは理屈の上ではともかく現実には不可能事であったと考えてもおかしくない。
 後の時代の人間にとっても、厳密な数字を出すことは無理である。その戦闘に参加した全ての部隊を調べ上げ、各部隊が残した史料全てを漁ったとしても、ある会戦に参加した兵力数を一人の間違いもなく確定することは無理。まずそれだけの史料が残されているとは思えないし、残っていたとしてもその史料が全て正確である保証はない。
 それでもできるだけ史料を調べて積み上げる作業をすれば、そこそこ真相に近いと思われる数字が出てくる。だが、時にその作業がなされていないこともある。その一例かどうかは分からないが、最近になってアウステルリッツにおける連合軍の兵力数についての定説が、実はそうした積み上げ作業を怠った不正確なものではないかとの見方が出てきた。
 これまでの定説とはどんな数字だろうか。いつもの通り、Chandlerに登場してもらうとしよう。彼は「戦役」で次のように記している。

「[12月1日]夕方には連合軍の兵8万5400人が砲278門と伴に戦場に到着し、ロシアとオーストリアの皇帝はクルツェノヴィッツ村に合同司令部を置いた」
Chandler "Campaigns" p416


 8万5400人。この数字がChandlerの説であり、よく知られた定説もこの近辺にある。Chandlerは他の本においてもこの数字を繰り返しており、彼の本を通じてこの数字は広く知られている。

「クトゥーゾフ将軍が率い、皇帝アレクサンドルと皇帝フランツ1世が同道している連合軍は、8万5400人と278門の大砲を配置した」
Chandler "Dictionary of the Napoleonic Wars" p31

「アウステルリッツにおける連合軍(ロシア・オーストリア)の全戦力
 分遣隊、落伍兵、病人などを除き、全兵科で約8万5400人(及び砲278門)が1805年12月2日に戦った」
Chandler "Austerliz 1805" p33


 Esposito & Eltingの「アトラス」にもほぼ同じ8万5700人という数字が紹介されている。Chandlerとの差はたった300人。誤差の範囲内と言えるだろう。Esposito & Eltingによると、この数字の内訳は以下のようになる。

「“右翼”:リヒテンシュタイン
   騎兵 リヒテンシュタイン     5400人
   前衛:バグラチオン      1万3700人
 “中央”:コロヴラット
      コロヴラット        9200人
      ミロラドヴィッチ      7000人
 “左翼”:ブクスホーデン
   前衛:キーンマイヤー       6800人
      ドクトゥーロフ     1万3600人
      ランジェロン      1万1700人
      プルジェブイシェフスキ   7800人
 “予備”:コンスタンティン
   ロシア近衛部隊        1万 500人
                 =========
              合計  8万5700人 」
Esposito & Elting "Atlas" map54


 他にこの8万人台半ばという数字を掲げているのはDigby Smithだ。彼は"Napoleonic Wars Data Book"の中で以下のように記している。

「オーストリア・ロシア軍総合計 歩兵大隊114個、歩兵6万9460人。騎兵大隊173個4分の3、騎兵1万6565騎。工兵中隊7個。砲252門」
Digby Smith "Napoleonic Wars Data Book" p216-217


 この歩兵と騎兵を足せば8万6025人となる。Chandlerらが全兵科(つまり砲兵や工兵を含む)の合計を出しているのに対してSmithの数字は対象が異なるために厳密には比較が難しいが、かなり似た水準であることは間違いない。
 他にも8万人台という数字を出している例は多い。

「ロシア・オーストリアの連合軍は、約8万6千の兵力を持っている」
森谷利雄「大陸軍その光と影 その8」(タクテクス第9号)p84

「皇帝アレクサンドルと皇帝フランツが戦場における主導権を奪い返すべく準備を進めている間に、彼らの兵力は11月24日にロシア帝国近衛隊の到着によって8万9000人(砲278門)まで膨らんだ」
Stephen Pope "Dictionary of the Napoleonic Wars" p76-77


 もちろん、中にはもっと大きい数字を出しているものもある。例えばアウステルリッツで1805年12月3日に書かれた大陸軍公報第30号は「フランス軍は優秀で数も多かったが、ロシア軍8万人、オーストリア軍2万5000人とあわせて10万5000人の兵力を持っていた敵軍よりは数で劣っていた」(J. David Markham "Imperial Glory" p54-55)と記している。
 あるいは長塚隆二氏のように「七万一千のフランス軍の戦死者が八千二百三十三名にすぎなかったのにたいし、九万三千の連合軍は死傷者がフランス軍の二倍で捕虜二万名、砲百八十門と軍旗四十旒を失った」(長塚『ナポレオン(下)』p206)と書いている事例もある。もっともこうした例は少数派であり、全体としては8万人台半ばから後半というのがほぼ定説と考えていいだろう。

 この定説に対し最初に明白に異論を提示したのは、おそらくScott Bowdenである。彼は"Napoleon and Austerlitz"で、連合軍の兵力について以下のように記している。

「[ロシアとオーストリアの]軍合計
 歩兵大隊  騎兵大隊/連隊 砲門  歩兵  騎兵  全兵力
   116  169 1/4 / 30  318 49,850 14,139 72,789」
Bowden "Napoleon and Austerlitz" p504


 Bowdenの記した数字は通説より1万人以上も少ない7万2789人である。Bowdenはこの数字について次のように述べている。

「オーストリア、ロシア及びフランスの軍史料を使った骨の折れる復元作業を通じてここに詳細に記したアウステルリッツにおける連合軍の兵力数は、これまで信じられていたより遥かに少ない。おそらくこの労多い手法で最もはっきりしたのは、クトゥーゾフ軍の戦力が戦闘による損失と戦略的な消耗の結果、恐ろしい比率で縮小していったことである。ロシア軍が戦役を始めた当初から、ブラウナウへの前進と続くそこからの退却、アムシュテッテンやデュレンシュタイン、シェーングラーベルンでの戦闘を経てオルミューツでの再編に至るまでに、クトゥーゾフは兵力の60%以上を失った」
Bowden "Napoleon and Austerlitz" p505


 驚くべきことに、この連合軍の数字はアウステルリッツに集められた大陸軍の兵力を下回っている。大陸軍の戦力についてChandlerは"Campaigns"の中でナポレオンの主力6万6800人とダヴー軍団6600人(Chandler "Campaigns" p418)としているほか、他に7万3200人(Chandler "Dictionary of the Napoleonic Wars" p31)や約7万3000人(Chandler "Austerlitz 1805" p29)といった微妙に違う数字を出しているが、基本的に7万3000人強という見方であり、Bowdenの示した連合軍の数字よりも大きい。
 他の研究者を見てもEsposito & Eltingが7万3200人(Esposito & Elting "Atlas" map54)、Popeが7万3000人強(Pope "Dictionary of the Napoleonic Wars" p76-77)といった具合に、Chandlerと似た数字を掲げている人は多い。Bowden自身は以下のような数字を出している。

「大陸軍合計
 歩兵大隊  騎兵大隊/連隊 砲門  歩兵  騎兵  全兵力
   96  135 1/2 / 44  157 58,155 11,558 74,595」
Bowden "Napoleon and Austerlitz" p498


 砲兵と騎兵では連合軍の方が優勢だったが、歩兵を含めた全戦力で見るとナポレオン率いる大陸軍の方が数で勝っていたのである。

 Bowdenの著作に関しては、本当に一次史料に当たったかどうかについて疑問が提示されており、そのまま素直に信じるわけにはいかないかもしれない。しかし、彼以外にも8万人台という連合軍の兵力について実働兵力はもっと少なかったと指摘していた人物は以前からいた。代表例がChristopher Duffyだろう。

「ロシア軍部隊が定員を全て満たしていたとすれば、その数はおそらく歩兵6万2400人、正規騎兵1万2800騎、砲兵6500人とコサック騎兵4000騎に達したであろう。しかし、ロシア軍はクトゥーゾフの退却中に、病人や脱走兵、落伍兵を除いても直接の敵との戦闘だけで5840人を失っていた。実際、シェーングラーベルンで戦った十数個の歩兵大隊はそれぞれ僅か300人ほどしか残っていなかった。砲兵は5000人まで減っており、そしてたとえ最善のケースでもコサック騎兵は本格的な戦闘ではほとんど役に立たなかった」
Duffy "Austerlitz 1805" p92


 そして、最近になってアウステルリッツの本を書いたIan CastleもまたBowdenの主張を裏付けるような記述をしている。彼はアウステルリッツに集まった兵力について以下のように書いている。

「大陸軍
幕僚を含む総兵力7万4500人。概算で幕僚関係者605人、歩兵5万8135人、騎兵1万1540騎、砲兵と輜重兵4220人、大砲157門」
Castle "Austerlitz 1805" p42

「オーストリア=ロシア軍
幕僚を除くオーストリア=ロシア軍の総兵力7万2890人。概算で歩兵5万25人、騎兵1万4265騎、砲兵と輜重兵7800、工兵800人、大砲318門。オーストリア軍が概算で1万6645人:歩兵1万1370人、騎兵3130騎、砲兵と輜重兵1715人、工兵430人、大砲70門。ロシア軍が概算で5万6245人:歩兵3万8655人、騎兵1万1135騎、砲兵と輜重兵6085人、工兵370人、大砲248門」
p43


 大陸軍の方に幕僚の数が含まれ、連合軍の方は除かれているために単純な比較はできないが、大陸軍の兵力から幕僚関係者605人を引いても連合軍より数が多いことが分かる。少なくとも両軍の兵力はほぼ同水準、もしかしたら大陸軍の方が上回っていた可能性があるのだ。ナポレオンの勝利は、数の不利を覆したというほどのものではなかったのかもしれない。

――大陸軍 その虚像と実像――