英人某著「拿破崙第一世傳」





山縣有朋の序文

 国会図書館がまとめている「近代デジタルライブラリー」では、明治時代に出回っていたナポレオン関連の書物がいくつか読めるようになっている。エー・テヰー・マハン著の「海上権力史論」、ド・ラ・カーズの「聖ヘレナにおけるナポレオン回想録」、オメーラの「那破翁島物語」といった有名どころに加え、「ウエルリントン」の簡単な伝記、煙山専太郎なる人物の書いた「ナポレオン:英雄末路」、さらには「通俗那波烈翁伝」から押川春浪著の「世界冒険少年談」に至るまで盛りだくさんだ。
 その中に陸軍文庫が出版し山縣有朋が序文を書くという妙に力の入った「拿破崙第一世傳」なる本もある。残念ながら著者は英人某としか紹介されていないため正確には不明だが、原題名が"History of Napoleon"であることは判明している。ざっと調べたところ1839年にロンドンでRichard H. Horneが、翌1840年にも同じロンドンでGeorge Moir Busseyがこの題名の本を出版している。どちらかが「拿破崙第一世傳」のオリジナルなのか、それとも他に原書があるのか、そのあたりは分からない。
 題名の通り、この本はナポレオンの伝記である。内容はかなり詳細で、本文だけで第5分冊まであり、さらには附図もついている。そして、最終巻の最後に附録として同時代のナポレオン以外のフランス軍人たちに関する簡単なプロフィールもある。内容は詳細なものからあっさりとしたものまで様々。どうやら19世紀において有名だった人物ほど紹介が長くなる傾向があるようだ。
 以下ではこの「拿破崙第一世傳」の附録を紹介し、個別に簡単なツッコミを入れる。なお、原文は旧漢字旧かな(おまけにカタカナ)を使い、句読点がなく、多くの地名に漢字を当てているが、あまりに読みにくいので現代風に直した。



クレベル伝

 クレベルは千七百五十四年、ストラースボルグに生れたり(註1)。初め建築術を学び益其業を修めんと欲してパリに遊べり。一日、珈琲舗に憩い数外国人の大に暴人の為に辱めらるを見て大に怒り乃ち外国人を援けて暴人を追い其勇気さながら凡人に非ざりしが、外国人は且徳とし且奇とし之に説き伴てミューニックに至れり(註2)。オーストリア将官コーニツの子佐官コーニツ(註3)之を挙げて其隊の尉官と為せり。クレベル、職を奉ずる事八年(註4)、遂にフランスに帰り上アルセース州の営繕検査官となれり。大改革の乱(註5)起こるに及でクレベル再び好武癖を発し、乃ち武官と為りマエンスの囲の際大に其勇略を顕し、後ラ=ウェンデーの役に従いしが我が軍の残暴なるを見て慙恚に堪えず、請て任を転じて北部を守り、オーストリアを破りモンスを取りルーヴェーンを抜きマエストリクトを降せり。又ドッセルドルフ及びフランクホルトを取りし時、フツバックの戦(註6)に勝ちし時等、皆与て力あり。此時に当て総裁局専横を極め、クレベル之を恚り職を觧てパリに帰り平民と為りし(註7)がナポレオンが兵を率いエジプトを征するや之を選て一配将と為したり。アレキサントリヤの囲にクレベル塁を攀ぢて登らんと欲し頭を傷けしが猶奮戦して退かず、再び傷を蒙て初て退く。此後クレベル数回トルコ兵を破りナポレオンのフランスに帰りしや選ばれてエジプト軍の司令長官と為れる事は本編に在り。後、英将官シドニー・スミスとイラリシーに於て条約を為しエジプトを引き払わんとせしが、イギリス政府此条約を認可せず再び戦闘と為りしかば、クレベルは一不撓心を以て能く百艱難に当りヘリオポリス塔下に戦て大にトルコ兵を破り大挙してカイロを取りムラト侯と和約を為せり。千八百年カイロに於てトルコ暴徒の為に掩殺せらる事は本編に詳かなり。ストラスボルグにクレベルの石像あり。

 註1:クレベールの生年は実は1753年3月9日である。なぜ1年ずれているのか不明。
 註2:この挿話がどこから来たものかは知らないが、1911年版のEncyclopedia Britannicaには飲み屋での喧嘩で二人のドイツ人貴族を助けたということが書いてあるのでそれなりに有名な話なのかもしれない。
 註3:カウニッツのこと。
 註4:クレベールが1776年から1783年までオーストリア軍に所属していたのは事実。そしてまたPhippsの本を読む限り、彼がオーストリア軍で士官の地位にあったことも事実のようだが、士官としてどの程度の地位にあったのかは分からない。
 註5:この本ではフランス革命のことを「大改革の乱」とか「大改革の変」などと呼んでいる。革命という訳語が定着していなかったのだろう。
 註6:フツバック(もしかしたブツバックかもしれない)は意味不明。クレベールが活躍した戦場といえばウケラトとかフォルヒハイムあたりのような気がするのだが。
 註7:クレベールが師団長の職を投げ出してパリへ帰ったのは別に総裁政府に対して怒ったからではない。上官だったジュールダンとの間が不仲になったのが理由であり、おそらくその背景にはサンブル=エ=ムーズ軍が敗勢に追い込まれたことがある。ちなみにこの時には同時にベルナドットとコローもジュールダンの命令を拒否する姿勢を示していたようで、軍内部がかなりガタガタであったことが窺える。それだけクレベールの影響力が大きかった証左かもしれない。


デセー伝

 デセーは千七百六十八年アビグノンに生れたり(註1)。弱冠にして軍に入り挙げられて尉官と為り、大改革の初め将官クスチンの伝令官と為りローテルベルの戦に重傷を蒙りしが奮戦して撓まず既に敗れ散りたる我が諸大隊を収拾せり(註2)。此後少将に挙げられ又中将と為れり。世の普く知れるモーローのゼルマン退軍の時クレベルその左翼を率い与て力あり事はモーローの伝にあり(註3)。又ケール橋の塁に拠てオーストリア兵を防ぎ勇戦二閲月傷を負えり。後米蘭(註4)に至りナポレオンに属せり。此時ナポレオンは特に軍中に布告するに勇将デセー我が軍に来訪せりの語あり。後従てエジプトに至り名声日に高く遂に選ばれて上エジプト令と為り全く其管地を鎮定しその功実に群に秀でしかば、ナポレオンは大に之を称嘆し其賞として之に刀を与え刀に銘ずるに上エジプト略者の五字を以てせり。後巳む事を得ずイギリス、トルコとイラリシの条約を為し将にフランスに帰らんとせしが路英将官ケースの為に捕われて軍俘と為り、既にして放たれてフランスに帰り、千八百年六月イタリアに至りナポレオンの軍に属しマレンゴの戦に死せり事は本編に在り。マレンゴの勝デセーの功多きに居ると云う。

 註1フランス版Wikipediaによるとドゼーの生まれはピュイ=ド=ドーム県、つまりオーヴェルニュ(Auvergne)の一角だ。翻訳者がアヴィニヨン(Avignon)と勘違いしたのであろう。
 註2:敗北した部隊の収拾に努力したという話はPhippsも紹介しているが、その戦いはローテルベルではなくビルスハイム。この功績で彼は中佐に昇進したという。
 註3:文中ではクレベールになっているが、これはモローのラン=エ=モーゼル軍左翼を指揮していたドゼーについて触れたものだと思われる。
 註4:ミラノ。


モーロー伝

 モーローは千七百六十三年ブリタニー州のモルレーに生れたり。父は状師なり(註1)。故にモーローの幼かりしや専ら律法を学べり。然れどもモーロー常に兵を以て大名を成さんと欲し日夜之を忘るる事能わず。齢甫て十八にして兵卒と為りしが父金を納めて之を購い、之をして益々律法を講じ状師の業を営ましめり居る事数年、業大に進みレンネス州会の状師として政府と抗論し弁材を以て頗る衆望を得たり。大改革の乱の起れるやモーロー状師の業を廃し軍人となりて其素志を達せんと欲しブリタニー志願兵の大隊長となり。千七百九十二年遂にドモーリーズの軍に属し居る事僅に二年にして登られて中将と為り、ピセグルーを輔けてオランダを略し尋てライン及びモーセル軍の大将と為り。千七百九十六年オーストリア将軍ウルムセルと戦て之を破り其兵を追てライン河を越え頻りに進みけるが、オーストリア皇子チャールズが兵を率いて来るに遭い初めは戦て之を破りしかども敵は速に援兵を得、雲霞の如く攻め来りしかば、モーローは之を支うるに力なく巳む事を得ず兵を退けける(註2)に敵の大軍の尾撃するあり。左右には土民の兵器を執て怨を報ゆるありしかどもモーローは能く諸団を整頓してブラック・ホレスト(大蔭林)の峡を退過しければ世皆之をモーローのブラック・ホレスト退軍と名けて之を称嘆せり。由てモーローの声価を増加せし事オーストリア兵を破りしに比すれば更に多しと云う。後ピセグルーの反するやモーロー知りて告げず。因て大に総裁局の怒に触れしかば乃ち職を解けり。千七百九十九年政府の求に応じイタリアに至てフランス軍を塗炭に救いチューベルトの死せしや代て其軍を督し之をしてノビーに殲くる事を免れしめり(註3)。千八百年再び命ぜられてライン軍の大将となりラインを越えてオーストリア兵と数戦し皆之を破り其将官クレーを追てタヌウブ河に至りホークスタットに於て大に之を破り遂にバルストルフの休戦条約を為せり。後再びオーストリアと兵を構うるに及でモーローはホーヘンリンデンに於て大にオーストリア兵を破りウィーンに向て兵を進めしがステーエルの休戦条約に由て僅に兵を止めけり。ルーネビールの和約を以てモーロー栄誉の頂点と為し、爾来遂に振う事能わず。モーローのパリに帰りしやナポレオン第一議定官たり。陽には大に之を親昵せしかども二人共に名利の道を行く焉め相衝突する事を免れんや、ナポレオン毎にモーローを評して退軍将と名けしにモーローはナポレオンを称して一日殺万人の将と為し以て之に報いけり。千八百四年モーローはピセグルー、ゼオルジス・カトーダルの反に与れりと訟えられ其證を得ざりしかども遂に二年禁獄の刑に決したり。モーロー請て禁獄に代うるに追放を以てし、北亜合衆国(註4)に至て留まれる事数年、其ナポレオンを怨むるの切なるに由て遂に父母の国を棄て、ロシア帝アレキサンドルの招きに応じ之を助けて父母の国を攻むるの約を為し、トレスデンに至りロシア軍に在る未だ久からず。砲丸の為に其両脚を挫かれ数日にして死せり。

 註1:"Historical Dictionary of the French Revolution"によればモローの父親は弁護士。彼は恐怖政治の最中にギロチン送りになっている。
 註2:モローはオーストリア軍を支えることができずに退却したというより、ジュールダンの敗北に伴って退路を断たれることを恐れて退却したのが実情。
 註3:ジュベールがイタリア方面軍指揮官になった後でモローはライン方面へ転戦するよう命令を受けていたのだが、ジュベールがノヴィで戦死したこともありしばらくイタリア方面軍を臨時に指揮する事態に陥っていた。
 註4:アメリカ合衆国のこと。


ベルナドッテ フランス陸軍大将ポンテコルボ侯後スウェーデン王(註1)

 ベルナドッテは千七百六十四年フランスのビールン州のポーに生れ千七百八十年海兵となり二年の間コルシカに於て役に服せり(註2)。フランスの兵をオーストリア、プロイセンと構うるや中将カスチンに従てラインに至り大に功あり。因て挙げられて少将となり。又クレベル、ジョルダンの軍に属し中将に任ぜられ、千七百九十七年援兵二万を率いてナポレオンの軍に合しタグリヤメントの戦に与て力あり。ナポレオンの命を奉じオーストリア兵より奪いたる旗幟を送て之を総裁局に献じ再び本営に帰りナポレオンを勧めてカンポホルミヨの条約を結ばしめたり(註3)。ナポレオンのイタリアを去るやベルナドッテの兵の半を奪いたり(註4)。ベルナドッテ慙恚甚しく職を辞し、更にウィーン駐留公使に任ぜられしが任所に於て三色旗を揚げざりしかば総裁局より之を譲めしに由て遂に揚げけるにウィーンの人民怒て之を裂きけり。後ユーゼーン・クレー(註5)と云う婦を娶れり。ジョゼフ・ボナパルトの婦妻の妹なり。千七百九十九年陸軍卿と為りしがナポレオンのエジプトより帰れるや職を罷められナポレオン第一議定官と為れるに及で西部軍の管長に任ぜられナポレオンの帝位に即けるや特に任ぜられて大将と為りハノーブル軍の管長と為り大に紀律を正し民財を奪わずして能く糧食を支給し廉正仁慈を以て管下を慰撫せり。是れ後其選ばれてスウェーデン王と為りたる一原因なり(註6)。千八百五年ハノーブルを発してナポレオンに合しオーステルリッツの戦に於てロシアの中軍を破り、翌年ポンテコルボ公の爵を拝し此より数度戦功あり。千八百九年七月五日及び六日ワグラムに於て大にオーストリア兵を破り(註7)後速に職を辞しけり。ベルナドッテ常に抗礼してナポレオンに下らず。此戦ナポレオン其予備団を奪い且悪く之を遇せり。ベルナドッテ辞してパリに帰りしが後速に職に復せり。後数回ナポレオンと相争い終始相善からず。千八百十年ローマ諸州の総知事の命を拝せり。此時スウェーデン王チャルレス子なし因てベルナドッテに嗣子とならん事を請いけるに、ベルナドッテは之を肯じ此年十一月二日遂にストクホルン入りけるに祝砲喝采の声殆ど天地を震動せり。同五日王及び国会に向け演説を為し、末説に於て吾軍陣の間に成長し具に戦闘の事を知り且其苦毒の実況を見たり。縦令戦て一大国を奪うも為に注ぎたる我が同胞の血を償うに足らず。夫国の強弱は其土地の広狭に関せずして、その律法の善悪、貿易の盛衰、人民の勤怠、国風の振不振に在り。近者スウェーデン大に困苦せりと雖ども未だ其栄誉を汚すに至らず。我地は猶生を養うに足り我鉄は猶国を守るに足ると云えり(註8)。千八百十二年同盟の兵と共にフランスを攻め、千八百十五年に至て遂にナポレオンの位を覆せり。千八百十八年立てスウェーデン兼ノルウェー王と為り其身既に至栄得たりしかば専ら国産を起す事を務め国富み民栄え在位二十二年齢八十にして没せり。

 註1:大将はMaréchal、中将はGénéral de Division、少将はGénéral de Brigadeの訳語と見られる。
 註2:ベルナドットがコルシカに赴任していたのはおそらく事実。ただし、この時期にはナポレオン自身は既にブリエンヌの幼年学校に入っていたため、彼らがコルシカで接点があった可能性はない。
 註3:このような事実があったという話は聞いたことがない。
 註4:同上。
 註5:デジレ・クラリーのこと。
 註6:ベルナドットがスウェーデン王に推挙される一因となったのは1806年以降にスウェーデン軍の捕虜を丁重に扱ったことであり、ハノーヴァー総督としての行動は無関係だと思われる。
 註7:ナポレオンが読んだら激怒しそうな文章。
 註8:"The Amazing Career of Bernadotte"にこれに類した発言が紹介されている。


ムラト フランス陸軍大将ベルグ兼クレーブス侯後ナプルス王

 ムラトは旅籠屋の子なり。千七百六十七年ペリゴレドに生る(註1)。初父ムラトをして僧侶たらしめんと欲しカホルスの中学校に入らしめけるが、ムラトの性教師に適せず法を犯し校を出て後軽騎連隊に入りけるが、不遜にして令を奉せざるに由て隊より追われ父の許に帰て馬丁の役に服しけり。会大改革の変あり。ムラト剽悍騎躁なり。大名を成すべき時の来たれるを喜び、手に唾して起ち専ら自由同等の説を主張し、再び騎兵連隊に入り、残殺政治(註2)の際佐官に任ぜられたり。千七百九十五年大にナポレオンを助けたる(註3)を以て其賞としてイタリア役に参謀と為る事を得たり。此より終始ナポレオンに属し、エジプト役に伝令官と為り到る所剽悍を以て功を奏せざる事なく中将に任ぜられ、「ブルメール」十八日壮兵六十を以て五百議院を追散し因て議定官衛兵の司令官に任ぜられナポレオンの妹カロロリーン(註4)を娶れり。マレンゴの戦に騎兵を率いて勇戦し戦の後シサルピン共和国の知事に任ぜられパリ府知事に転じ、ナポレオンの帝位に即きし時大将の麾を賜わりベルグ兼クレーブス覇侯に除せられ(註5)、千八百五十年(註6)ゼルマン役に勇奮功を奏する事前諸役の如し。又スペイン攻伐の軍を総督し密にチャールズ四世の位を得ん事を願いけるがナポレオン之を巳ら兄に与えければムラトはジョゼフに代てナプルス王と為り。千八百八年兼て二シシリーの王に封ぜられ(註7)、千八百十二年に至るまで寛政を施行し自由を伸張し国家事なかりき。此年ロシア役に従い騎兵の将と為り平生の剽悍を以て先鋒の任を盡し、退軍の際は全軍を督してスモーレンスキよりウイルナに至れり(註8)。ライプシック大敗軍の後、ムラトのナポレオンを以て巳を踈すると為し忿恚して国に帰り歓で同盟諸国に通じけるが、同盟諸国はムラトを認めてナプルス王と為さざりしかばムラトは巳む事を得ずナポレオンの復位に及で再び之を助けん事を宣告し、イタリア人を励して死戦を以て独立を支うべしと云い兵を率いて上イタリアに至りけるが大にオーストリア兵の為に破られ位と兵とを合せて之を失い、後ナプルスに至りて位を復せんと欲しけるがカラブリ人の為に捕えられナプルス軍事裁判所に於て射殺せられけり。ムラト剽悍比なし。ナポレオン之を評してヨーロッパの最良騎兵士官なりと云えり。

 註1:Chandler編の"Napoleon's Marshals"によればミュラの生地はラ=バスティード。
 註2:恐怖政治のことと思われる。
 註3:ヴァンデミエールの際にミュラが大砲を確保したという話が知られている。
 註4:ナポレオンの末の妹カロリーヌ。
 註5:ミュラがクレーフェ及びベルク大公になったのはナポレオンの即位時ではなく1806年。
 註6:おそらく1805年の間違い。
 註7:ミュラはナポリ王と呼ばれることが多く、両シチリア王と呼ぶ事例は見たことがない。
 註8:ミュラが大陸軍の指揮をナポレオンから引き受けたのはスモレンスクではなく、もっと後のベレジナ渡河後のこと。


ケルレルマン 陸軍大将ワルミー侯

 ケルレルマンは千七百三十五年ストラスボルグに生る。七年戦(註1)の間既に戦功あり。大改革の初フランス軍の少将となり。千七百九十二年モーセル軍(註2)の大将に任ぜられドモリーズと兵を合せてプロイセン兵とワルミーに戦い敵は極めて衆なりしかども(註3)大に之を破り之をしてフランス境を出でしめたり。然るに政府の憎みを受けて獄に下さる久くして免るる事を得たり。千七百九十五年アルプス軍及びイタリア軍の大将に任ぜられ四万七千の兵を以て十五万の敵を防遏せり(註4)。千八百四年ナポレオン帝と為りし時大将に任ぜられワルミー侯の爵を受け(註5)元老議官の栄を蒙れり。此後数回大軍に将として毎に殊功を奏せり。ボルボン朝回復の後貴族の列に加り、プロシア、イタリア、ゼルマン、スペインの諸役に於て毎に殊功あり。千四百十四年中将たり(註6)。ナポレオン復位の時貴族となれり(註7)

 註1:七年戦争(1756−63)のこと。
 註2:当時はモーゼル軍ではなく中央軍(l'Armée du Centre)と呼ばれていた。
 註3:ヴァルミーの戦いに参加したのはフランス軍5万人に対しプロイセン軍3万4000人とフランス軍の方が多い。
 註4:この当時、北イタリアに15万人もの連合軍がいたという話は聞いたことがない。
 註5:ケレルマンがヴァルミー公となったのは1808年。
 註6:なぜここに1414年の話が出てくるのか意味不明。おそらく誤訳だろう。
 註7:実際には百日天下の際、ケレルマンはナポレオンとは距離を置いて様子を見ていた。


オーゼロー 陸軍大将カステグリオン侯

 オーゼローはパリの人なり。千七百五十七年に生る。十七にしてフランスの騎銃兵に入り(註1)後ナプルスの兵卒と為り。千七百九十二年役を免れ義兵としてフランス改革党の軍に入り其功殊に著しかりしかばイタリアの役ナポレオン既に之を以て其部下の一有為士官と思えるに至れり。ロヂ橋の戦オーゼロー其旅団を以て弾丸を侵し遂に橋を奪い(註2)又ボログナを取り又取て之を屠れり。其民の頑守して降らざりしに報いしなり。カステグリオンに於て大に功あり。後カステグリオン侯の爵に除せられし所以なり。アルコラに勇戦し総裁局の賞を受けたり(註3)。バルラスが「フラクチドル」十八日の兵力改革(註4)を行いしやオーゼロー命を奉じて兵を督し速に功を奏せしかば大に任ぜられてゼルマン軍都督と為りしが極めて急進改革を唱いしかば忌まれてペルピグナンに遷されたり。ナポレオンのエジプトより還りしやオーゼローパリに在り。然れどもナポレオン薄く之を待し大に用いず。マレンゴの役オーゼロー一師団を督し(註5)千八百五年昇て大将と為り(註6)ゼーナの戦に与りアイローの戦左翼を率いたり(註7)。此時既に重傷を蒙り且熱病に罹りしかども身を馬に縛して奮戦し戦の終るに至て初て退けり。スペインの役に出でたり。ロシアの役命を奉じベルリンに留て予備軍を編成せり。千八百十四年命を受けフランスの東南境を守りオーストリア兵を防ぎしが衆寡敵せずして退きしをナポレオン大に怒り叛心ありと罵りたり。ナポレオンの倒れしやオーゼローボルボン朝に仕え華族となりしがナポレオンイルバより還りしや再び之に仕えんと云いしかども聴かれず。ワートルロー戦の後オーゼロー裁判会の一員となりネーを死刑に処せし(註8)が後幾くもなくして其身も亦死せりと云う。

 註1:Chandler編の"Napoleon's Marshals"によればオージュローが最初に入隊したのは歩兵連隊で、竜騎兵となったのはその後。
 註2:ナポレオン自身の報告書によると部隊を率いてロディ橋を突破した高級士官はベルティエ、マセナ、セルヴォニ、ダレマーニュ、ランヌ、デュパの6人であり、オージュローは入っていない。
 註3:こうした事実があったかどうかは不明だが、彼はマントヴァ陥落後に報告のためパリに戻っている。
 註4:フリュクティドールのクーデター。
 註5:オージュローはマレンゴ戦役には参加していない。この時期、彼はオランダ方面で軍の指揮を取っていた。
 註6:彼が元帥になったのは1804年。
 註7:アイラウの戦いで左翼を率いていたのはスールト。オージュロー軍団はどちらかというと右翼寄りに展開していた。
 註8:Raymond HorricksやRonald Frederic Delderfieldによるとネイの死刑に投票した帝国元帥はケレルマン、ペリニョン、セリュリエ、マルモン、ヴィクトールとなっており、オージュローの名はない。


レヘーブル 陸軍大将ダンツィヒ侯

 レヘーブルは千七百五十五年上アルセースのルーバクに生る(註1)。父は製粉者なり。大改革の初レヘーブル既に近衛兵の下士官たり。其後累りに登級し千七百五十四年既に中将に任ぜられたり(註2)。フルエルスの戦、ライン河の渡、アルテンキルチェン及びストックカックの戦に於て皆観るべき功を顕し、千八百四年大将の官を受けたり。ゼーナの戦に与り又ダンツィヒを攻て之を抜けり。ダンツィヒは古来世の抜く可からずと為す所なり(註3)。其功に由てダンツィヒ侯の爵を受けたり。後スペイン及びオーストリアの諸戦に出でたり。レヘーブル初よりナポレオンと結べり。「ブルメール」十九日の変に当て第十七師団の将としてパリに在り。大にナポレオンを助けたり。千八百十九年貴族に列し(註4)翌年死せり。

 註1:Chandler編の"Napoleon's Marshals"によればルフェーブルの生地はルファッハ。
 註2:彼が将軍になったのは1794年。おそらく翻訳者のミスだろう。
 註3:本当にそんなことが言われていたのかどうか不明。
 註4:王政下で貴族に復した。


ネー 陸軍大将イルチンゲン侯モスコー公

 ネーは千七百六十九年アルレーンのサルレ・ルイスに生れ(註1)年甫て十三にして代書人の門に入れられしが強勇にして大志あり。斯る平穏の業に安んずる事能わず。千七百八十七年軽騎連隊に入り勇気勉強殊に著しかりしかば居る事七年にして既に尉官と為れり(註2)。クレベル夙にネーの材を知り之に号を与えて不撓不屈と名け副将に任じたり。千七百九十六年ネーはアルテンキルチェン、モンタブール、ヂールドルフの戦に於て衆に抜でて奮戦し(註3)、ヂードルフの戦に敵の為に捕われしが捕虜交換に由て帰る事を得(註4)、ライン軍に属し一日僅少の騎兵を以て敵二千人を捕えウルツブルグを抜けり。此功に由て登せられて少将となり。陣中毎に脱国人を救いて之をして総裁局の暴刑を免れしめり(註5)。実に勇戦に比すれば更に称す可き美事と云うべし。モーローに従てウォルムフ、フランケンタル、マンヘーム、イルレルに戦いホーヘンリンデンの勝の如き其勇戦の功多きに居る(註6)。ルーネビールの和約の後パリに帰れり。ナポレオン懇に之に接し之を失わざらんと欲し、ホルテンス・ボーハルネースの友オーグニーを以て之に嫁がしめり(註7)。千八百三年全権公使としてスイスに至り(註8)、帰て軍を司令しブーロユネの辺に陣し大将に任ぜられ、千八百五年在ゼルマン軍の第八軍団を率い(註9)力攻してイルチンゲン村を抜きオーストリア兵を殺傷する事千五百之を捕うる事二千に及べり。ナポレオン当日の戦を目撃せり。後其ネーにイルチンゲン侯の爵を授けしは蓋し之を追録するなり。プロイセン役に於てネーの勇戦功ある事更に大いにイルフルトを降し、マクデボルグを取り兵士を捕うる事二万三千大砲を奪う事八百門に至れり。デッペンに於てプロイセンの一軍を破り、コネガスボルグに於てロシア兵の帰路を絶ち、フリードランドに於て敵の左翼を破れり。マセナに属してスペインに戦いシウダドロドリゴ及びアルメーダを降すに其謀略多きに居る。マセナのトロレス・ウェドラスより退軍せしやネー大に之を救援せりと雖ども二人相軋轢する事甚だしく遂にパリに召し還さるるに至れり。千八百十二年ロシアの役ネー第三軍団の司令長と為れり。世に此役ネー、ナポレオンに兵をスモレンスコに止めて冬を終えんと建言せりと云う説あり(註10)。ナポレオンは之を用いざりしかども其勇奮を賛賞して勇中の最勇と称しけり。ロシアより撤退の際ネーの勇奮尋常に非ず。中将ドマス曰く吾クンビンネンに在りし時一朝髯長く色衰え汚外套を着けて我室に入る者在り。吾に向てドマス君吾辛くして此所に来れり、卿吾を記するやと云う。吾記せずと答う。彼吾は我が軍の殿なり。コーフー橋に於て銃を発する吾を以て最後となす。ニーメン河に兵器を投棄するも亦吾を以て最後と為す。吾林中跼蹐して今僅に此に達したり。吾は大将ネーなりと云えりと(註11)。ナポレオンの気運漸く傾きし時と雖どもネーの勇気材力両ながら減衰せず。依然として前時の如し。ボーツェン、ルーツェン、トレスデンの戦ネーの力に由てフランス軍能く勝を収むる事を得たり(註12)。デンネウィツに於てネー初めてベルナドッテの為に破られたり。然れどもナポレオン多く之を譲めず。千八百十四年ナポレオンの退位の後ネーは田荘に退居しけるが(註13)、ボルボン政府第八師団の司令長に任ぜんとて之を召しけるに由りネーは之に応じてパリに至りけるに、政府は更に命じてイルバより帰り来る旧主に向て兵を進むべしと云いければ、ネーは驚愕したれども猶命を奉じてパリを発しけるが遂に旧主と戦う事を欲せず単身之に投じ再び生死を与にせんと云えり。其将卒一に皆之に倣い旧主の旗下にぞ属しける。ワートルローに於てネー勇戦最も甚し。乗馬の射られて斃るる者五頭。乃ち徒歩して近衛騎兵を督し剰く敵を攻撃せしかども力遂に及ばず退軍に決しけるが戦場を去るはネーを以て最後とせり(註14)。ナポレオン覆滅の後ネーパリに赴きけるが、国事犯を以て論ぜられ既に死刑に決したりと聞きホーセより通行免状を受け既にパリを発し堺を出る事難からざりしが、細故ありて再びパリに帰り(註15)遂に捕われ審判の後ルイセンボルグ館庭に於て射殺せられたり。嗚呼フランスの為に戦闘せし事五百回、未だ一回だもフランスに向て銃を放たざる人にして遂に射殺の暴刑に斃れたり。哀むべき哉。ネーはリボリ侯及モスコワ侯の爵を受けたり(註16)

 註1:ネイの生地ザールルイは当時フランスのロレーヌにあった。現在はドイツ領。
 註2:ネイが士官になったのは1792年10月29日。つまりユサール連隊に入隊してから5年半ほど後のことだ。
 註3:アルテンキルヒェン以外の戦場は正体不明。
 註4:ネイが捕虜になったのは1797年戦役での出来事。1年ずれている。
 註5:この話は1794年頃の出来事。
 註6:ホーエンリンデン以外の戦場は正体不明。
 註7:ネイの妻の名はアグラエ=ルイーズ・オーギュイエ。
 註8:ネイがスイスに行ったのは1802年。
 註9:第6軍団の誤り。
 註10:他にダヴー、モルティエ、デュロック、ロボーも同様の進言をしたという。
 註11:このデュマの話は両角良彦「1812年の雪」にも紹介されていた。
 註12:バウツェンの戦いではむしろネイの判断ミスにより決定的な勝利を収め損ねたとの見方が多い。
 註13:ネイは王政復古後も騎兵指揮官などを務めており、引退してはいない。
 註14:ネイが戦場を最後に去ったという話は聞いたことがない。
 註15:ネイは逃亡先で逮捕されてパリに連れ戻されたのであり、自分で戻った訳ではない。
 註16:ネイの称号はエルヒンゲン公とモスクワ公。リヴォリ公はマセナ。


ソールト 陸軍大将ダルマシア公

 ソールトはサン=アマンドタルンに生る。或は千七百六十五年と云い、或は同六十九年と云う。詳かならず(註1)。父は代書人なり。ソールトをして其父の業を襲かしめんと欲し中学に入らしめしが、ソールト学を好まず其大に進まざるを見て其意の欲する所に従わしめり。ソールト常に武人を慕えり。今父の許を得しかば(註2)、千七百八十五年兵卒と為りて軍に入りしが初は速に登級せず。千七百九十一年に至り猶軍曹たり。此年大将ルクネル、ソールトの用ゆべきを知り副小隊長に任じ志願兵連隊を操練せしめり。此後九年間、ソールト戦に出る事二十回、毎に大功を顕わさざる事なかりしかば、其官級速に進み千八百年には既に中将となり(註3)ピエモント軍の大将たり(註4)。アミアンの和約に由て戦闘止みソールトパリに住しナポレオンに喜ばれざるを以て頻りに之を慰め遂に歓心を得、未だ一回もナポレオンに従て戦わざりしかども其即位の後大将に任ぜられたり。是に於て命を奉じてイギリス軍(イギリスを伐つべき軍)を編み又千八百五年オーステルリツに於て其功著しかりければ戦の後ナポレオン大に之を謝し之を評して方今の第一軍略者なりと云えり。是に於てソールトの名大に聞えフランス良将の一人と呼ばれ千八百六七年のゼルマン役能く此栄誉を継ぎ千八百八年スペイン役に趣きマトリットに入り更に命を奉じてポルトガルより進み来りたる英将チョン・ムールの退路を絶ち之を追てコルンナに至り之を撃ち英兵をして艦に乗じて走らしめたり。後幾ばくもなくドーロ河上に於て英将ウェリントンの為に破られて塁を失い輜重大砲を奪われしが猶能く兵を収めてガルリシヤを経てポモーラに達したり。後ヂョルダンに代てスペインの副総督となり千八百十年アンダルシヤの沃野を略し又命を受けてバダチョスを囲みて遥にポルトガルに侵入したるマセナの声援を為し翌年遂に之を抜きし(註5)がマセナは遂にトルレス・ヴェドラスの険を抜く事能わずして退きければウェリントンはバダヂョズを復せんと欲して兵を進めけるをソールトはさはさせじと準備を為しアブイラに戦て大に敗れたり。然れどもマルモントの兵来て援いしに由て英兵は囲を觧て退きしが千八百十二年ウェリントン再び来てバダヂョスを囲み劇攻して遂に之を抜きければソールトは留てセビールを支ゆる事能わず。マルモントはサラマンカに敗れマトリットは遂にウェリントンに降りしかばソールトはアンダルシヤを守る事能わず。千八百十三年召されてフランスに帰りけるがビットリヤに於てフランス兵大敗せるに由て再び命ぜられてスペインに至り畢生の智功を振い称すべきの兵略を用いしかどもウェリントンの材略に及ぶ事能わず。毎戦漸く地歩を失い千八百四年(註6)英兵遂に仏境に入りツールースを抜てり。ナポレオン失位の後ソールト速にボルボン朝に仕えワートルローの戦会計監督長たり(註7)。ナポレオン覆滅の後ソールトはフランスを追われけるが後帰る事を得チャールズ十世の時華族と為りルイ・ヒーリプの時軍務卿と為りイギリスに使して女帝ビクトリヤの即位を祝しフランスのマーシャル・ゼネラルと為れり。チューレネ以後此官に登りし人なし(註8)。千八百五十一年に死せり。ソールト極めて兵法に通じ其及ばざる所の人は其旧主ナポレオンと其大敵ウェリントンとあるのみ。アンダルシヤに在りし時重税を以て土民に課し兵を放て寺院及び権家の図書重宝を掠めたり。是其一大失と云うべきなり。

 註1:一般的には1769年説。1765年という説は聞いたことがない。
 註2:1911年版のEncyclopedia Britannicaによればスールトが軍に入ったのは父親が死んだため。
 註3:彼が将軍になったのは1799年。
 註4:軍政府長官のこと。
 註5:バダホスの包囲を始めたのは1811年に入ってから。
 註6:1814年の間違い。
 註7:おそらく参謀長のこと。
 註8:テュレンヌ(1660年)以降にもヴィラール(1733年)、サックス(1747年)がこの地位に就いている。


ビクトル 陸軍大将ベルノ侯

 ビクトルは千七百六十四年に生れたり。同八十一年兵卒と為て大砲連隊に入り大改革の初殊功を奏し大隊長と為り千七百九十三年ツーロンの役に兵を率いてライジルレット塁を抜けり(註1)。登せられて少将と為り東ピレニース軍に属し智勇を以て顕われたり。イタリア役に従てナポレオンに知られ(註2)ランネスに副としてローマ諸州を略し(註3)次に兵に将としてラウィンテーを制し処置宜きを得速に之を平定せり(註4)。召されてイタリアに帰りマレンゴ及びバッサノに於てナポリのフランス軍の退路を護し(註5)因て更に誉を得アミアンの和約後デンマルク在留公使と為り千八百六年プロイセン役の初再び武職に就きゼーナ及びフルトスクの戦皆殊功を顕しフリードランドの戦其勇殆ど軍に冠たりしかばナポレオン称歎に堪えず即日大将の級に進めけり(註6)。千八百七年ベルリン府知事に任ぜられ同八年第一軍を率いてスペインを攻め二回土兵を破り更に命を受けてポルトガルに至りソールトを援けんとせしがタラヴェラに於て大に敗れたり。千八百十二年召されて帰りロシア役に従い敗退の際ヘレジナ河の渡に留て追兵を遏め因て必ず死すべきの味方を救えり。千八百十三年平生の智勇を以て同盟軍の侵入を防ぎしがモンテローの敵を攘う事を得ざりしに由て大にナポレオンの怒を致し司令長を免ぜられしかば大に慙じ誓て曰吾元と兵卒を以て軍に入れり。今旧に復せしのみ。必ず軍を離れずと。ナポレオン大に其義気に感じ近衛兵の一部を率いしめしがビクトルは之を以てクローンに劇戦し重傷を蒙り昇せられて戦場を去れり。ナポレオンの辞位後ボルボン朝に仕え一軍を司令せり。爾後ナポレオン及びネーに怨を結びナポレオンのイルバより帰りしとき諸将多くは祝して之に仕えしかどもビクトルは独りルイ十八世に従て走り(註7)千八百二十一年軍務卿となり同二十三年副将としてスペイン役に赴き千八百三十年の大改革後レヂチミストの一首領と為れり。千八百四十一年に死せり。ビクトルはナポレオンの良将の一にして其最も長する所は其能く死を以て主将の命を決行するに在り。自ら司令を取り自ら策を運らすが如きは蓋し其短なる所なり。其タラベラに於てイギリスの傷兵病兵を処するに恩恵を以てせしが如きは実に美事にして其仁慈の気象ある知るべきなり。

 註1:エギエット岬のことだろう。
 註2:ナポレオンに知られたのは1793年のツーロン攻囲戦の時。
 註3:この部隊の指揮を執ったのはヴィクトールで、ランヌはその前衛部隊指揮官だった。
 註4:Ramsay Weston Phippsによれば彼はイギリス遠征軍に派遣されたがやがてイタリアに戻ったとあり、ヴァンデへ行ったとは記されていない。
 註5:ナポリ遠征軍と伴に戦ったのは1799年で、マレンゴ会戦は1800年。話が前後している。
 註6:Chandler編の"Napoleon's Marshals"によれば元帥になったのはフリートラントの戦いから約一ヵ月後のこと。
 註7:マクドナルドやマルモンなどもルイ18世の国外脱出に同行している。


マセナ 陸軍大将リボリ侯後イスリン公

 マセナは千七百五十八年ニースに生る。弱冠にして某連隊に入り大改革の初諸所に戦て既に人に知られたり。千七百九十五年中将に登せられ(註1)ナポレオンのイタリア役に従て頗る功あり。千七百九十八年命を奉じ軍を率いてイタリアに入りローマ諸州を合して共和国を立しが(註2)貪婪にして飽く事を知らず。部下の兵士と雖ども皆大に之を憎めり。況んや人民をや。怨言四起せしかば巳む事を得ず職を辞し久く閑居せしが翌年タヌウブ、スイス両軍の都督に任ぜられ(註3)スーリックに於て大にロシア兵を破り因てフランスをして外兵の侵入を免れしめたり。此時オーストリア軍英艦と力を合せてゼノアを攻む(註4)。マセナ命を受けてゼノアを救えり(註5)。本編を見て其詳を知る可し。千八百四年大将に任ぜられリボリ侯に除せられ(註6)翌年イタリア軍の都督に任ぜられオーストリア皇子チャールズを撃て之を走らしめ遂にナポレオンの兵に合したり。千八百六年ジョゼフ・ボナパルトを護衛してナポリに至りカラブリヤの不逞を平定してジョゼフの位を安じたり。千八百九年オーストリアの役第五軍団(註7)に将としてイスリンに戦い其功に由て当日の勝を決し因てイスリン公に除せらる。千八百十年ウェリントンを撃てポルトガルを出でしむべしと命ぜられ兵を進めしがトルレスウェドラスの敵線を破る事能わず。兵を収めて退き千八百十二年召されてパリに帰り(註8)疾に羅てロシア役に従う事能わず(註9)。千八百十三年ツーロンに於て一師団を督せしがボルボン朝に仕えけり。百日事件ナポレオン後位の間の後パリ護国兵の大将と為り軍事裁判所の議員となりネーを裁判せしが裁判所の不法を論じたり。ナポレオンマセナを評して勝利の愛児勝利を以て父と為すの意と称せり。マセナ実に諸将中の第一兵略家なり。唯惜むらくは性貪婪にして廉恥を顧みず其誉を汚せり。ヂスレリー曰くフランス諸将にユダヤ人種多し。就中マセナ是なりと。千八百十七年に死せり。

 註1:マセナが将軍に任命されたのは1793年のツーロン陥落時。
 註2:ローマ共和国の成立宣言はマセナの着任より前。
 註3:マセナがエルヴェティー軍指揮官に任命されたのは翌年でなく同じ1798年。
 註4:ジェノヴァが包囲されたのは翌1800年。
 註5:ジェノヴァは1800年6月に降伏した。
 註6:彼がリヴォリ公になったのは1808年。
 註7:第4軍団の誤り。
 註8:マセナがポルトガル遠征軍の指揮官を罷免されたのは1811年。
 註9:このような話は聞いたことがない。


ダヴースト 陸軍大将オーウェルスタット侯イクムール公

 ダヴースト(註1)は千七百七十年に生れたり。初ナポレオンと共に兵法をブリエンヌに学びたり(註2)。千七百八十五年軍に入り(註3)千七百九十二年十一月八日改革党に与しドモーリースに属してゼマペスに戦えり(註4)。同九十三年中将と為りける(註5)が此頃貴族を以て将と為す事を得ざる令あり。ダヴーストは貴族なるを以て職を解れけり。然れどもロベスピールの覆滅後此制を廃しけるに由てダヴースト職に復する事を得ピセグルーに従てラインに戦えり。イタリアの役ナポレオンの知を得(註6)之に従てエジプトに戦い帰てイタリア軍の騎兵司令官と為りマレンゴの戦捷与て力あり(註7)。ナポレオン帝位に即き之に授たるに大将の爵を以てせり。オーステルリツの役に左翼の将と為り(註8)千八百六年十月十四日オーウェルスタットに於てブルンズイッキ侯を破りしに由てオーウェルスタット侯の爵に除せられイクムールの功に由てイクムール公の爵を受けワグラムの戦に後の左翼を率いて功あり(註9)。ロシアの役に重傷を蒙り(註10)モスコー退軍の後ハンボルクを守り同盟諸国の全軍に当りしが千八百十四年の和約成れるに及で中将ゼラルト、ルイ十八世の命を奉じて降を徴す。ダヴースト巳む事を得ずして之を肯ぜり。ナポレオンのイルバより帰りしやダヴーストを以て陸軍卿となせり。ワートルルーの戦の後ダヴースト退て官軍に関せざりしが千八百十九年再び出て貴顕院に列し千八百二十三年に死せり。

 註1:ダヴーの綴りはDavoutが正しいが、時々Davoustと書いている例が見られる。
 註2:彼とナポレオンの双方が学んだのはブリエンヌの幼年学校ではなくパリの王立士官学校。
 註3:軍の士官となったのは1788年。
 註4:John G. Gallaherの"The Iron Marshal"によると彼の部隊はジュマップで戦っていない。
 註5:彼が将軍になったのは1800年。1793年当時は准将。
 註6:ダヴーはイタリア遠征には加わっていない。
 註7:彼がイタリア方面軍の騎兵指揮官となったのは1800年8月であり、同年6月のマレンゴの戦いには参加していない。
 註8:アウステルリッツで彼が増援したのは右翼側。
 註9:ヴァグラムで彼が指揮したのは右翼側。
 註10:ボロディノで傷を負ったという話はあるが重傷ではなかった。


ランネス 陸軍大将モンテベルロ侯

 ランネスは千七百六十九年ギメネ州のレクツールに生れたり。父母甚だ貧し故にランネス幼時塗工たり。千七百九十二年志願兵と為り其勇気衆に秀でたるを以て速に副佐官と為り。千七百九十四年(註1)ナポレオンの愛顧を得イタリア軍の一部を率いモンテノット、ミルレシモに勇戦せしに由て佐官と為り(註2)。千七百九十七年少将と為りマンチュアの囲及びアルコラの戦に諸将に抜でて功あり。エジプトの役に従い中将と為りアブーキルの勝実に其勇奮不動の力に由れり。アクルの役に重傷を蒙りナポレオンに従てエジプトを発し千七百九十九年「フルメール」十八日の変に大に功ありしに由て択ばれて議定官衛兵の司令官と為り。千八百年イタリアの役に斥候隊に将としてセント・ベルナルド嶺を越えモンテベルロの戦大に其智勇を顕し後侯爵を受るに及で号してモンテベルロ侯と云うに至れり。マレンゴの役其功少からず。ポルトガル在留公使と為り千八百四年任満て帰り大将の官を受け千八百五六年はゼルマン役に斥候隊を率いオーステルリツ、ゼーナ、アイロー、フリードランドの諸戦に皆大功を顕し(註3)イスリンの戦に殿兵を率い奮戦して死せり。ナポレオン最もランネスの智勇を愛し大に其死を傷めり事は本編に在り。ランネスの妻容儀秀麗大に技芸に富めり。夫の死せる時猶少し後女官と為りマリヤルイサに侍しけり。

 註1:1796年の誤り。
 註2:ランヌが佐官となったのは1793年、東部ピレネー軍に所属していた時。
 註3:ランヌはアイラウの戦いには参加していない。


スーセー 陸軍大将アルブヘラ侯

 スーセーは千七百七十年リヨンに生れたり(註1)。大改革の初め志願兵を以てリヨンの騎兵隊に入り千七百九十三年ツーロンの囲既に功を顕わし同九十五年イタリアのロアノに於てオーストリア兵の旗三旒を取り(註2)マセナに属して少将となり(註3)。又ヂューベルトの参謀長と為り其運用の妙殊に著しく遂にナポレオンに知られマセナの副将と為り。千八百年僅に八千の兵を以てオーストリア将メラスの率いたる四万の兵の退路を絶ち(註4)因て大にナポレオンのセント・ベルナルド嶺を越ゆてイタリアに入るを助けたり。マレンゴ戦の後ゼノアの知事となり(註5)次にイタリア軍の中軍の都督と為り。千八百五年中将を以て大将ランネスに属しオーステルリツの勝の如きスーセーの部署宜きを得たるに由る。翌年プロイセン太子非特立ルートヴィヒを破て之を殺し大砲三十門を奪いたり(註6)。此勝に由てナポレオンプロイセン兵の背を衝く事を得たり(註7)。千八百七年プロイセン将イッセンガ来て其師団を襲えるを撃て之を却け(註8)其声誉盛なりしかば遂にスペイン軍の第五団司令長に任ぜられ(註9)賞勲隊の最上級に登り侯爵を受け年金二万フランを賜れり。スペイン役を以てスーセーの一新大業と為す。ナピールの半島戦記に曰くスーセーは凡人に非ず。智勇兼ね備わり其軍を督するに紀律厳明。其政を行うに次序明晰。功績相続き殆ど其進路を妨ぐる者なく遂に其身に受くるに大将の顕職を以てし其兵に蒙らしむるに必勝の栄誉を以てせり。仏兵のスペイン軍に入りし者皆一二大敗を取らざるはなし。其之を取らざる者独りスーセーの軍のみと。スーセーのスペインに入るや至る所前なくレリダ、メックェナンザ、トルトサの諸城を抜きタルラゴナ府を取る。タルラゴナの守兵一万八千人あり、其六千は此に死したりと云う。モントセラルトは古今称して抜くべからずと為す。而してスーセー又之を取れり。此諸大功に由て遂に進められて大将と為り(註10)。千八百十一年ムルビードロ城下に於てスペイン将ブレークの兵三万を破り同十二年ワレンシヤ府を降し其全州を殉え功に由てアブヘラ侯に任ぜられたり。スーセーの降人を処する他のフランス諸将の如くならず。ワレンシヤ、アラゴン等を処するに寛仁公正を以てせり。ウェリントンのビットリヤ勝戦の後スーセーはタロニヤに退き(註11)尋て隊伍を収めてフランス境内に退き千八百十四年ナルボンネに達し王朝に仕え第十軍団を司令し(註12)ナポレオンの位を復するや又之に仕えアルプス軍を司令しオーストリア兵の進み来るに由て退てリヨンを守り後遂に降りけり。ルイ十八世の位を復するやスーセーは擯せられて登用せられざりしが後遂に其官を復したり。此より後スーセー自ら其伝を作り千八百十九年之を刊行し同二十八年に死せり。スーセーはナポレオンの諸良将の一なり。或者ナポレオンに卿の諸将誰が第一なりやと問いしにナポレオン答えて方今に在てはスーセーなるべし。マセナは第一なりしかども今既に死せりと云えり(註13)

 註1:Chandler編の"Napoleon's Marshals"によればスーシェの生年は1770年だがRamsay Weston Phippsは1772年説を唱えている。
 註2:スーシェがロアーノの戦いで活躍したのは事実だが、敵の軍旗を奪ったという話は聞いたことがない。
 註3:スーシェが准将となったのは1798年で、当時彼はマセナでなくブリュヌの配下にあった。
 註4:退路を断ったのではなくオーストリア軍の前進を遮った。
 註5:スーシェが知事に任命されたのはジェノヴァではなくパドヴァ。
 註6:Digby Smithによるとザールフェルトの戦いで大陸軍が奪った大砲はプロイセン軍のもの15門とザクセン軍のもの18門。
 註7:別にザールフェルトの勝利によってプロイセン軍の背後を衝くことができるようになった訳ではない。
 註8:このような戦いがあったという話は聞いたことがない。
 註9:スーシェがスペインで指揮を執ったのは第3軍団。
 註10:モン=セラトを落としたのはスーシェが元帥になった後。
 註11:カタロニアか。
 註12:第一次王政復古期にスーシェが総督となったのは第14軍管区と第5軍管区。
 註13:本当はスーシェ以外にクローゼルとジェラールの名も上げている。


ドロコ 宮内大将フリウル侯

 ドロコは千七百七十二年に生れたり。同九十二年兵籍に入り(註1)エジプトの役に従て殊功を顕わしホフイッスル(註2)の爆裂に由て重傷を蒙り、千八百五年帝朝の制定りしや宮内大将に任ぜられ後屡諸国に使せり。然れども毎に諸大戦に与りフリウル侯の爵を受けたり。千八百十三年ボーツェンの戦に死せり。ドロコはナポレオンの最愛友なり。其死するやナポレオン大に涙を流しけり。

 註1:デュロックが軍に入ったのは1789年。1792年に一時亡命したが、すぐ帰国しトゥーロン戦でボナパルトと邂逅している。
 註2:おそらく曲射砲(howitzer)のこと。


ヂョルタン 陸軍大将

 ヂョルダンは千八百六十二年(註1)リモゲスに生れたり。年十六にしてアメリカ独立戦の援兵に属してアメリカに戦い、千七百九十一年志願兵大隊長に任ぜられドモーリースに従てゼルマンに戦い(註2)、千七百九十三年中将と為りホンドシュートの戦に於て殊功を顕わし後二日大将に任ぜられしが(註3)国安局の為に其職を奪われたり。後モゼール軍の大将と為りドラント、チャルレロイを取りフレウルスの大勝を得たり。オーストリア皇子チャールズを撃たんと欲して再びライン河を渡り大に敗れて職を罷められ、五百議院の議員と為り徴兵令の議案を発したり。ヂョルダンは真正共和党なり。故にナポレオンの政権を簒奪するに抗せり。因て「ブルメール」十八日の後議員を免ぜられしが、千八百五年ナポレオンより大将の官(註4)を受けたり。然れども大に用られず。ジョゼフ・ボナパルトに従い第七軍(註5)を率いてスペインに赴き、千八百三十三年パリに死せり。

 註1:おそらく1762年の間違い。
 註2:デュムリエに従って戦った場所はドイツ(ゼルマン)というよりフランドル地方。
 註3:この本では大将=元帥で記述される場面が多いが、ここの「大将」はおそらく北方軍指揮官の意。
 註4:ここの「大将」は元帥の意だが、ジュールダンが元帥になったのは1804年。
 註5:ジュールダンはスペインでジョゼフ・ボナパルトの参謀長を務めていた。第7軍団を指揮したという話は聞いたことがない。


ヂューノー 中将アブランタス侯

 ヂューノー千七百七十一年に生れたり。大改革の際志願兵として軍に入り千八百九十三年ツーロンの囲に初てナポレオンに知らる。是をその貴顕の濫觴と為し伝令官を以てエジプト役に従て大に功あり。帰て中将に登せられ千八百四年パリ府令と為り(註1)。同五年リスボン駐留公使と為り。後二年兵を率いてポルトガルを攻め速に之を殉えアブランタス侯の爵を受けポルトガル国知事に任ぜられしが、翌年ウェリントンとビメーラに戦て敗れシントラに於て降約を為し侵地を挙げて敵に委しけり。此に由て大にナポレオンの怒に抵れけるが猶軍を離れず。後スペインに戦い又ロシア役に従いイルリヤ令と為りしが狂してフランスに帰り千八百十三年に死せり。寡婦博く学芸に通ぜり。フランス国帝紀事を著わせり。観るべき書なり(註2)

 註1:ジュノーがパリ総督になったのは1806年。
 註2:アブランテス公爵夫人の回想録に関しては「事実というよりファンタジー」(Cronin)との評価が多い。


ベルシール 副官内卿ニューフシャテル兼ワグラム侯

 ベルシールは千七百五十三年に生れたり。ラ・ヘーテに従て(註1)アメリカ独立戦に出て大改革の初めフランスの中将に任ぜられラ・ウェンデーに戦い大に其勇を顕わしエジプト、イタリア、ゼルマンの諸役毎にナポレオンの参謀長として軍に従い其信任を受る事最も深し。然るに千八百十四年節を変じボルボン朝に仕えしがナポレオンの帰るに及でバンベルグの家に退居し、後幾くもなく自ら高楼より落て死せり。千八百十五年なり。ベルシール、ニューフシャテル兼ワグラム侯に封ぜられ副官内務卿たり。

 註1:ベルティエはラファイエットに従ったのではなく、フランス正規軍を率いたロシャンボーの幕僚だった。


ベッシール 陸軍大将イストリヤ侯

 ベッシール千七百六十八年プレーサクに生れたり。軍に出て縷々功あり。マレンゴに於て兵を勒して最末攻撃を為し因て当日の局を結びたり。オルムツに於てクトゾフを破り(註1)ゼーナ(註2)、フリードランド(註3)、アイローの戦に於て毎に運用の妙を顕わし半島戦の殊功に由てイストリヤ侯の爵を受けイスリンの戦に於てオーストリア将ホーヘンゾルレンの率いたる兵一師団を奪い(註4)ロシアの役に近衛騎兵を率い千八百十三年にゼルマンに在るフランス全軍を総督しける(註5)がルーツェンの戦の朝弾丸胸を貫て死せり。兵士の其死を聞て驚愕せん事を恐れ暫く其死を秘せりと云う。

 註1:意味不明。オルミューツでクトゥーゾフが敗北したという話は聞いたことがない。
 註2:イエナの戦いではベシエール率いる親衛騎兵は何もしていない。
 註3:フリートラントの戦いについても同上。
 註4:アスペルン=エスリングの戦いにおいてベシエールが突撃をしたのは事実だが、オーストリア軍1個師団を捕虜にしたという話はない。
 註5:ナポレオンの到着以前にドイツにいた大陸軍を指揮していたのはベシエールでなくウジェーヌ。


マクドナルド 陸軍大将タレンタム侯

 マクドナルドは千七百六十五年フランスに生る。其家元とスコットランドより来れり。マクドナルド、ゼマベスの戦に功あり。又ピセグルーに属してオランダに至り河を越えんとせしに氷水面を覆い彼岸の敵乱発す。マクドナルド之を事ともせず氷上を勇進し遂に河を越えてオランダ軍の艦隊を捕え(註1)功に由て中将に任ぜらる。千七百九十八年ローマ知事に任ぜられ、スワローの大兵襲い来り敵すべからざるを知り機を察して退きけり(註2)。モーローの反せしがマクドナルド大に其冤を訟え由て大にナポレオンに喜ばれざりしが千八百九年に至て中将に任ぜられ(註3)ワグラムの戦に殊功を奏し大将に任ぜられタレンタム侯に封ぜられ、又ルーツェン、ボーツェン、ライプシックの諸戦に出でたり。ナポレオン滅亡の後、貴族に列し賞勲隊の大法官に任ぜられ後退居し千八百四十年パリに死せり。

 註1:デン=ヘルデル村近くで氷に閉じ込められていたオランダ艦隊を降伏させた部隊の指揮官は元オランダ海軍士官だったヨハン=ウィレム・ド=ウィンター准将であり、マクドナルドではない。
 註2:機を察して退いたのではなく、トレビア河の戦いで敗北して退却した。
 註3:上にも書いてある通りマクドナルドは1794年に既に将軍となっている。


セント・シール 陸軍大将

 セント・シールは千七百六十四年に生れたり。父は製皮工なり。然れども児をして学に従事せしめり。セント・シール少き時図画を生徒に授け後俳優と為りしが千七百九十二年軽騎兵と為り其容貌雄偉且智勇あるを以て翌年速かに小隊長と為り(註1)後中将と為り初めヂョルダンに属し(註2)後モーローに従い千七百九十七年総裁局の為に選ばれてマセナに代てローマ諸州の知事となり(註3)プロシア、ポーランドの役声名ますます高く(註4)千八百七年ワルソーの知事となり(註5)千八百十二年にロシア役に第六軍団の司令長に任ぜられポロツクに於て大にロシア兵を破り即日大将に任ぜらる(註6)。然れどもライプシックの戦力盡きて(註7)一万六千の兵を以て敵に降り後ナポレオンの復位の時退居して事に関せず。ボルボン朝に仕え軍務卿と為り栄華を極め千八百三十年死せり。

 註1:グーヴィオン=サン=シールは志願兵部隊に入った同じ年のうちに大尉となっている。
 註2:彼は基本的にずっとライン方面軍に所属しており、ジュールダンの麾下に入ったことはない。
 註3:彼がマセナの後任としてローマ方面軍指揮官となったのは1798年。
 註4:彼はプロイセン戦役、ポーランド戦役のいずれにも参戦していない。
 註5:ワルシャワ総督にもなっていない。
 註6:元帥になったのはポロツクの戦いから9日後。
 註7:グーヴィオン=サン=シールはライプツィヒの戦いには参加していない。


マルモント 陸軍大将ラグサ侯

 マルモントは千七百七十四年シャテルロン・スル・セーネに生れたり。シャロンス学校に於て兵を学び全く業を卒い軍に入りツーロンの役にナポレオンに知られ其伝令官に任ぜられ千七百九十六年イタリア役に従い毎戦必ず之に与らざるはなく智勇を以て顕われ速に少将に任ぜられ(註1)命を奉じて掠奪したる敵旗二十二旒を護送してパリに至れり。オルムの戦、スタイリヤの役、ワグラムの戦、マセナに代てポルトガルに至りし時、ボーツェン、ドレスデン、ライプシックの諸戦皆功あらざるはなし。千八百十四年パリを守り味方に四倍したるロシア、プロシア、オーストリア同盟軍を防ぎけるが、敵モントマルトル山より大砲を下射するに由てジョゼフの命を受け兵を率いてパリを出てしが遂に兵を以て敵に降り永くナポレオンに背きけり。後王朝に仕え命を奉じて千八百三十年の土寇を伐ちけるが大に敗れしかば大に国民の為に侮り憎まれ武官を奪い国を逐われたり。後専ら兵書を著せり。皆良書なり。千八百五十二年ウェネシヤに死せり。

 註1:マルモンが准将になったのはエジプト遠征時。


ブーリーン(註1) ブーリーンは将佐に登らざる者と雖ども其終始ナポレオンに随従せしを以て併せて茲に載す

 ブーリーンは千七百六十九年センスに生れたり。年甫て九歳武林の軍学校に入りナポレオンを見て之と友たり。ブーリーンは砲術を学びけるが貴族にあらざれば将佐の官に登る事能わざる事を知り乃ち志を転じ年二十ルイ十六世のウィーン駐留公使ド・ノイル公に随行し後ワルソーに赴て万国公法を学ぶ事二年千七百九十二年パリに帰れり。此時ナポレオン亦パリに在り。両人同窓の旧盟を尋き共に艱苦を与にし金を用ゆるに嚢の誰に属するを問わず。業職の就くべきなく共にパリの街衛に彷徨し又共に六月二十日人民のチューレリー宮を侵すを見たり。ナポレオンの将官に登るやブーリーン其内書記官たり。常に左右に在りけるが陸軍用達商社に通じ私利を営みしに座して官を罷められ千八百五年下サキソニーの弁理公使に任ぜられしけるが官金を私用して償う事能わず。一身を置くに所なきに至れり。ナポレオンの倒れしやボルボン家に仕え債主の為に責められてゼルマンに走りナポレオン伝を著わし分て十巻と為し世に公にせり。此書大に人を感動せり。是を其修身の大業となす。後狂し千八百三十四年に至て死せり。

 註1:ここまで小物だと調べる気が沸かないのでツッコミはなし。


――「蛇足」に戻る――

――ホームに戻る――