その後――ナポレオン体制下の徴兵



 総裁政府下で成立したジュールダン・デルブレル法を実際に活用し、定着させたのはナポレオンだった。1799年、ブリュメールのクーデターで政権を握った彼は中央集権的体制の整備を進めたが、その下で政府が大きな労力を注いだのが徴兵の確実な実施だった。具体的にナポレオン政権下でどのような徴兵が行われていたのか、下セーヌ県の事例を調べたGavin Dalyの"Inside Napoleonic France"を参考にしながら説明しよう。

 総裁政府下で成立した近代的徴兵制度だったが、最初は実効性に乏しかった模様だ。下セーヌ県の場合、徴兵忌避や脱走を図った者の比率が総裁政府時代には約40%と極めて高い比率に達していたという。絶えずクーデターに見舞われ安定性に乏しかった総裁政府は、徴兵制を全国的に定着させられるほどの力を持たなかった。元々、兵士を送り出すことが少なかったフランス西部や南部においては、人々の間で徴兵制を支持する意識が乏しかったのだろう。

 徴兵制度の実効性を高めるため、ナポレオン政権はより厳しい対策を施した。総裁政府時代から採用されていた方法だが、徴兵忌避や脱走した者の実家に兵士を駐留させその費用を負担させることが行われた。あるいはより強権的な方法として、脱走者の家族を投獄することもあった。軍と地方行政組織が協力して地方を巡回し脱走者や徴兵忌避者を探すことも実施された。一方、しばしば脱走者たちの行き場となっていた盗賊団などに対しては厳しい取り締まりが行われた。

 様々な方法を使って徴兵忌避や脱走を防いだ結果、徴兵の実効性は総裁政府時代に比べると間違いなく上昇した。かつて40%あった下セーヌ県の徴兵忌避・脱走者比率は、1808年にはたったの6%まで低下した。この比率はナポレオン体制下の大半の時期を通じて10%程度にとどまっていたようで、ナポレオン体制が国民の動員を効率的に成し遂げていた様子が窺える。地方の行政府にとっても、徴兵こそが最大の業務になっていたという。

 もっとも、全国一律に徴兵の実効性が向上したわけではない。地域によってはナポレオン体制下になっても引き続き50%程度の徴兵忌避・脱走者がいたところもある。脱走者が隠れやすいような地理的特徴を持つ地域や、ヴァンデのような王党派勢力の強い地域などでは、必ずしも徴兵がうまく行かないこともあったようだ。

 表面的には効率的な徴兵が行われた下セーヌ県でも、内実を詳しく調べると巧妙な徴兵逃れが広く行われていたことが指摘されている。ナポレオン体制下での徴兵制度には例外規定もあり、代理を立てることも可能だった。このため、例えば徴兵逃れのために医者の診断書を手に入れようとする者が大勢いたようだ。1804年から1806年の間を見ると、驚くべきことに下セーヌ県の徴兵対象者のうち実に55%は健康上に問題があるとの診断を受けていた。医者を巻き込んだ徴兵逃れが常態化していたことが分かる。

 徴兵逃れを積極的に行ったのが金持ちであったのは間違いないようだ。この時代に、下セーヌ県では何度か徴兵逃れに関連したスキャンダルが表沙汰となっている。地方の行政関係者が、特に金持ちの子弟について徴兵対象から外すように書類を操作し、対価として賄賂を受け取っていたというものだ。金持ちの場合はそれ以外にも代理を立てる方法を使えたため、結果的に彼らのほとんどは徴兵されずに済んだと見られる。戦場に行って命を危険に晒したのは、結局のところ貧乏人だった。

 それでも総裁政府期よりは効率的な徴兵を実行してきたナポレオン体制だったが、ロシア革命から始まる政権末期においてはその実効性が明らかに低下してしまった。相次ぐ動員の結果、地方の余力が失われてしまったのが理由だ。大半の時期において政府から要求された兵力動員をほぼ満たしてきた下セーヌ県の場合も、1813年11月に求められた5000人の動員には対応することができなかった。ナポレオン政権が崩壊する寸前、この県が提供できた兵力は要求の30%にも届かない僅か1457人だった。

 国民兵という仕組みに乗り、無限に湧いてくるかの如き兵力を背景に戦争を続けてきたナポレオンだったが、実際にはいかなフランスといえども人的資源には限りがあった。実際、1790年から95年の間に生まれた若者のうち、実に42.5%が動員されたという研究もある。近代国家は決して無敵の存在ではなかったのだ。



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