近代的徴兵制―ジュールダン法



 モンターニュ独裁は1794年7月に崩れた。総動員の時代に公安委員会で軍事を担当し、「勝利の組織者」の異名で呼ばれたラザール・カルノーは1797年、フリュクティドールのクーデターによって国外逃亡を余儀なくされた。第一次対仏大同盟に対しては勝利を収めたフランス軍だったが、その勝利を支えていた制度や人材は次第に姿を消しつつあった。

 今や、臨時的な総動員法でなく恒常的に使われる徴兵制度を確立することが必要になっていた。危機の時にのみ使える兵力は、対外的な野心を持った政府にとって便利な道具にはなり得ない。祖国防衛戦争から対外侵略戦争へと舵を切っていたフランス政府はより使い勝手のいい軍隊を求めた。1798年9月5日に可決されたジュールダン・デルブレル法はまさにそのための法律だった。

「第1条 フランス人男子はすべて兵士であり、祖国の防衛に就く義務を負っている
 第2条 祖国が危機に立つときは、フランス人男子はすべて法律が定める方式に従って防衛のために召集される。この場合すでに休暇・除隊を獲得することになっている者も免除されることはない
 第3条 祖国が危機に立っていない場合、陸軍は自由志願および強制徴用の2つの方法によって編成される
 第8条 自由志願の兵籍簿に登録された者は、軍務契約金という名目ではどのような金銭も受領することなく、平和時には4年間軍務に就かなければならない。さらに戦時においては、その勤務期間は戦況が志願兵の除隊を可能にするようになるまで延長される
 第15条 強制徴用による兵役は、満20歳より25歳までのフランス人男子すべてに課せられる
 第52条 フランスの国内を旅行・移動する兵役義務者は、自分が所属する等級および部隊を明記した旅券を携帯しなければならない(後略)
 第54条 徴兵制による兵役義務をかつて負い、もしくは現在負っているフランス人男子は、共和国7年ニヴォーズ1日より以降、次の項に示す書類(注:徴兵名簿の公正抄本など)を提示しなければ、いかなる政治集会においても市民権の行使を許可されず、いかなる公職にも就くことができず、また共和国の収入から俸給を支払われるいかなる業務にも就くことができない(後略)
 第55条 フランス人男子は、前条に規定された諸条件を満たさなければ、前条に示した日より以降、直系・傍系、全体・分割のいかんを問わず財産の相続を許されず、いかなる遺産・年金・寄贈・設立物・そのほか性質のいかんを問わず利益となるものを受けとることを許されない」

 この法律ではその年に20歳になった者を第一等級、21歳を第二等級というように分類し、第一等級から優先的に徴用する仕組みになっていた。後にナポレオンはこの制度に変更点を加え、20歳未満の者を前倒しで徴用するようになった(この10代の兵士たちはマリー=ルイーズ新兵と呼ばれた)。いずれにせよ、毎年新たな徴兵対象者が集められる制度が確立し、臨時異例の動員制度に代わって兵力動員の基本となった。

 特徴的なのは兵役をフランス人の義務とし、義務を果たさない者にかなり厳しいペナルティを与えている点にある。兵役義務から逃げた者は、国内を移動する自由を失ううえに、市民権も行使できず、相続からも外される。絶対王政下では特殊な職業に過ぎなかった軍務は、こうしてフランス人男子すべてが取り組まねばならない役務になった。この仕組みが実際に運用されたのは1799年から。当初は30万人動員の時と同様に各地で反対が起きたが、やがて制度は定着し、ナポレオンに欧州征服のための兵を供給することになる。

 このやり方は他国にも広まり、結局は近代的国民国家のほぼすべてが恒常的徴兵制を敷くことになった。かつて封建諸侯たちは配下の中小領主たちに軍務を課していたものの、それは対価となる何か(領土や金銭)があって初めて行われる役務だった。絶対王政の君主たちはやはり自分の財産として軍隊を保有し、士官や兵士たちに金を払っていた。彼らにとっては兵隊を集めることそれ自体が大事業だった。だが、近代国民国家はこの困難を簡単に乗り越えた。ナショナリズムと徴兵制は無尽蔵の兵隊を国家に約束した。

 結果として、国民国家の政治家と軍人たちは、兵隊はほとんどただで集められるものだと勘違いした。20世紀の戦争があれほど血腥いものになったのは、この「無尽蔵に湧いてくる兵士」というイメージのためだ。そうしたイメージを作り上げた最初のきっかけは、フランス革命のこの法律にあった。



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